196 :キャロル:2013/05/05(日) 00:28:34

白い雪原の中にポツポツと黒い物が見え、そこからチカチカと光ったと思ったら、次の瞬間横列を組んでいた戦友がバタバタと倒れる。

前の大戦争からまだ10年たっておらず、歴戦の古参兵としてこの極東の辺境に派遣されてきた彼には今の状況が信じられなかった。

「おい!あの貴族のボンボンは何処に行った!?」

「は!中隊長殿は戦死なされました。狙撃と思われます。 」

「(やはりか、だからあれほど目立つマントは止めろと言ったものを)囚人兵どもの様子は?」

当時としてはそれほど際立ったものとはいえない赤マントだったが、周り一面雪景色の中では致命的といえるものだった。

「動揺が広がりつつあります。やつら全員旋条銃装備ですよ。こちらは本国でも全ての部隊が装備してるわけじゃないってのに」

「コルサコフのバカ野郎、なにがマカーキ共はカタナと弓矢が主力で、銃はあってもマッチロックのマスケットが少数だから、
東洋人に近代戦を教えてやれだ!俺達が教わってるじゃねえか!!」

肉薄しようにも有刺鉄線と杭によって出来た鉄条網が何重にも設置されており、何とか破ろうとする兵達が狙い撃ちに遭い、或いは紐が付いた擲弾らしき物が投げつけられ吹き飛ばされる。

「くそ、なんでこんなことになった!ヤポンスキー共もツァーリもまとめて魔女の婆さんに呪われろ!!」


197 :キャロル:2013/05/05(日) 00:30:02


『後藤伯の幕末奮闘記 -開国編-』


第一話

この事件から遡ること1年前、
文久二年(西暦1862年)6月

「わざわざ長州殿と土州殿がそろって、余に献策したいこととは何用ですかな?」

江戸城において第14代征夷大将軍 徳川家茂、将軍後見職と政事総裁職になることが内定している一橋慶喜、松平春獄らが出迎えるなか、長州藩主と土佐藩前藩主である毛利敬親、山内容堂の二人に複数の家来を連れて参上していた。

「ははっ! なれば攘夷政策として、我等二藩が愚考しました一案を上様に献策したく罷り越しました。」


「ほおぉぉ? しかし京の方では公家衆の方々を動かして何やら良からぬ動きをしている輩がおるそうですが?またぞろ島津三郎殿のように......」

後に文久の改革と呼ばれる島津久光によるごり押し改革は、幕府の体面を傷つけるものとして、幕末期においては例え開国に賛成であっても、外様の言いなりには為らないという幕府(幕閣)の、面子を気にしての支離滅裂な行動によって、慶喜らの改革を最後まで足を引っ張ることとなる。

慶喜が遮る形で詰問してくるも、毛利敬親も落ち着き払った様子で、

「良からぬ動きする輩とは、我が長州にはそのような者は居りませんぞ。のう周布よ。」

「御意、我等長州藩士一同、天使様の為、皇国の為、ひいては徳川幕府の為、命を捨てる所存」

天皇と皇国の後に徳川の名前が来たことには慶喜は気がついてはいたが、彼とて勤王第一で育った水戸徳川家出身。文句を言える立場では無かったが、未だ黙ったままの松平春嶽の様子をいぶかしんでいた。

「いや、すまなかった。貴公らの尊王にかける思いは伝わった。土佐藩の者共も同様であるということもな、だが皇国が為と称して無頼の輩が都を騒がしているとも聞く。其れらに対処することは急務ぞ。」

流石は勝海舟をして ”もう少し長生きしていれば英明な君主と成っていた”と称された御仁だった。慶喜公とは違った意味でリーダーとなる資質を持ち合わせている

そこに先ほどの周布政之助の発言に内心イラっときていた山内容堂だったが、家茂の聡明さに思い出したかのように返答する。

「ははっ! つきましてはそれらの諸問題を解決した上、国防にも利する案というのが今回の献策でございます。武市、上様に御説明せよ」

「はっ然らば、今回の提案”第二次樺太出兵”計画を御説明申し上げます。」

「(武市さん。天下に名を売る好機とはいえ、気負ってるなあ。まあ揃った面子が面子だけど、此れを乗りきる位でないと西郷、大久保のコンビに対抗できんし、......ま、俺なら御免こうむるが)」

198 :キャロル:2013/05/05(日) 00:30:53

本来なら来年の将軍上洛時の方が此方としても都合が良いのだが、もはや其れを待てぬ程、樺太情勢は緊迫していた。
1875年の「樺太・千島交換条約」を待つまでもなく、1867年には日本国内の混乱もあって「日露間樺太島仮規則」にて不利な状況に傾いていたからである。

来年以降の尊攘運動激化により、手をこまねくことは樺太放棄と同義であり、今年1862年6月にロシア側が北緯48度線を国境線をおくことを提示してきたのはと、まさに歴史的分岐点だった。
これに対処するには北添佶摩の尊攘志士屯田兵案しかなかった。

どこかで尊攘激派の捌け口を開けておくことで、長州藩は禁門の変、下関戦争へと至り、さらに尖鋭化することで武力討幕へと舵を切ることは避けたかった。
某漫画キャラの台詞ではないが ”ぐだぐだ内戦で国力を消耗して国家再建の財政悪化は避けたい”からだ。

特に下関戦争である。
薩英戦争は民間人数人が死傷したことへの賠償が目的だったため、あれほどの大事だった割には賠償額は2万5000ポンド、日本両で6万300両程度だったのに対し、
下関戦争は、複数国の商船を攻撃する明確な戦争行為である為、当時の幕府年間総支出額の4分の1に相当する300万ドルと莫大なものだった。

更にこの影響で意外とまともだった関税率も引き下げられ、明治初期の財政難は戊辰戦争の戦費と、これ等のことが重なったことだと考えられる。

下関戦争が長州の攘夷論を打ち砕いたという意義は理解できるが、それは避けることが出来ないことだったのか?
史実の明治日本の成長力はチート級とはよく言われるがw、維新に関してはベターであってもベストでは無かったと思う。


そこで俺こと、転生者”後藤象二郎”は長州藩、及び土佐藩の維新志士と共に『明治維新』という一つの終着点を目指しつつ「歴史の転換」を謀ったのである。(象二郎からすれば、龍馬などからの半ば強制的行動の結果とも考えているが)

2ch風に言うなら

”乗るしかない、このビックウェーブに” ”いつやるか? 今でしょ!”

である。

人材、国費の消耗を防ぎ、長州と会津のような戦後も永く続く憎しみの応酬を防ぎ、
国費の消耗が激しい内乱ではなく、政情を刺激しつつ小規模反乱に抑えるよう仕向けるということだ。

当然だが俺は大久保さんの様に権謀術数が有るわけでも、西郷さんのようなカリスマも持ち合わせてはいない。

だが、なんとか出来うる可能性を持った人材なら”知っている”


彼らを援助し、一定の方向性に導いていくのが、”逆行者”のセオリーだとしてもだ...

 「(まったく、柄じゃない。我ながら何でこんなことになってんだ!!)」

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最終更新:2013年09月04日 20:38