211 :キャロル:2013/06/11(火) 23:50:30
後藤伯の幕末奮闘記 -開国編-

第二話


俺の他にも転生者とだろうと思われる人物が何人か現れているが、彼らと俺との決定的な違いは、最初から社会的地位の

高い家系、即ち土佐藩の其れなりに家禄の高い上士の子として生まれたというのが幸運だったこと

そして父親が11歳の時に亡くなり、叔父であり、藩主の信頼厚い参政職を務めることになる吉田東洋の後見の元、曲がり

なりにも後藤家当主になるという更なる幸運の恩恵だろう。(でなければ封建社会での下手な行動は文字どうり命取りだ

ったからだ。)

俺こと、後藤象二郎がこの幕末世界に来たのは、11歳、西暦にして1849年のことだった。

前の人生では実家が中規模程度の畜産農家であり、そこで育てた家畜を使って料理を提供する北海道の比較的裕福な家の

子として生まれた。

元々歴史が好きで後藤家遠縁の家系だったこともあり、卒業論文に幕末を土佐藩を中心に取り上げたものを提出した程だ

ったのだが、卒論を提出してやっと”缶詰生活”を終わりだと気を抜いた矢先だった

気付いた時には象二郎の父親が亡くなった丁度その日に、此方に来ていた。
当初物凄く混乱したものの、父親が亡くなった一時的なショック状態と判断されたことや、教科書や参考書で何度も見た

吉田東洋との会話で何とか理解が追い付いてきた。

「天誅上等の幕末時代転生って、罰ゲームってレベルじゃねーだろ!」


―1852年―

父親(といっても顔を会わせたのは棺桶越しだが)が死んで3年が経過し、漸く落ち着いて考える精神状態ができた。(

食生活は魚三昧に、軍鶏肉や鯨肉を利用し何とかしていたが、牛豚も食いたいと願う毎日だった)

「まずは何はなくとも人材だな。まず必要なのは尊攘派を抑えるためにも国学者、それも皇国史観でなく現実的視点を持

った国学者が」

このまま推移すれば土佐勤王党によって叔父の吉田東洋は殺され、それによって勤王党は弾圧
土佐が誇る人材は壊滅状態となってしまう上に、下手をすれば、象二郎自身暗殺されかねないからである。

故に大攘夷論を唱えた大国隆正のような現実的な方向に導ける思想家によって、土佐勤王党を導いていくことが是非とも

必要だった。

其処で紀州藩で1852年に権力争いに敗れて幽閉される伊達千広を招聘するよう東洋に進言してみた。


伊達千広

陸奥宗光の実父と言った方が分かりやすいかも知れないが、彼はカミソリと渾名された陸奥の父だけあって、大化の改新

など時代変化を捉えた史論書「大勢三転考」等の著書を執筆する等、現実的で客観的思考を持つ国学者であると共に、

紀州藩の藩政改革として当時としては常識的だとされる倹約政策ではなく、経済促進を図る紀州特産の八丈織を、大坂の

人気役者に

「によいと日の出の紀ノ川に晒(さら)しあげたる黄八丈」

の台詞で宣伝し売り込むなど、経済エコノミストの資質も持ち合わせる二重の、いや陸奥も早期に付いてくることも加味

すれば三重の意味で必要な人材と言えた。

幸い史実において容堂公の口利きによって解放されていることから、思ったよりすんなりと伊達家の土佐招聘が決まった



だが同1852年、加賀藩で生命の危機に瀕している一家を救うことは並大抵のことではなかった。

彼の屋号は銭屋、名を五兵衛といった。

19世紀前半において、一隻の北前船を手始めに日本有数の廻船問屋に登り詰めた男と彼の家族、手代らは現在、牢屋にお

いて死と隣り合わせていた。

212 :キャロル:2013/06/11(火) 23:51:21



―加賀藩 奉行所―

「銭屋五兵衛、並びに家族一党に沙汰を申し渡す!」

「右の者、河北潟干拓の際、石灰を投じ領民に多大な被害を与えたこと赦しがたく、
しかし多年に渡り我が藩に対する忠節から罪一等を減じ、金200万両没収、及び加賀藩からの所払いとする。」

流石に加賀藩で実権を握った黒羽織党が、政敵の元でのしあがった政商であり、財政回復と幕府への密貿易発覚を恐れて

銭屋を潰そうとしていることは解りきっていただけに驚きがあった。

200万両は痛すぎるが、まだ財産は100万両残っており、大坂での運転資金にはなるだろう。

そこで釈放に際して、元々知己であった奉行への挨拶という名目で探りをいれてみた。


「恐れながらそれで構いませんので?
我等一同もう陽の目は見れないものと覚悟しておりましたが、」

「ふむそうだな......お主も収まりが悪かろう。近う寄れ」

互いに耳元寄せ会う格好で密談が始まった。


「それがな、江戸の老中 阿部正弘様からの指図らしいのだ。
黒羽織の連中の慌てふためき様といったら無かったぞ。
何しろ必死で隠そうとしている加賀の密貿易は、暗黙の案件に過ぎなかったのだからな......」

「近年、海防を重視している阿部様とすれば、貴様はまだ利用価値があると考えたのだろう......というのが表向きの話

だ。」

「......だが噂では薩摩、土佐が裏で動かしたとも言われてるそうだ。」

「そっ......それが公になれば」

「そうよ、仮にも加賀百万石が他藩の指図に従ったとあらば前代未聞ぞ。故にさっさと貴様を大坂辺りにほっぽりだした

いのよ」


実際黒羽織党に対して反発する空気が多かったこともあり、無事大坂に移動させることが出来た。

出立の前日、銭屋の一族、手代一同を前にこう宣言したことが後世まで伝わっている。

「何処の誰が、何の思惑で見知らぬの商人を救ってくれたのかは未だ解らぬ。しかしこの御恩は銭屋末代まで語り継ぎ、

未だ見ぬ彼の御仁に全てを差し出してもお助け申し上げるのだ。」と



この後、大坂に拠点を移し、土佐商会の上方における販売拠点となり、再び規模を回復させてゆく。

9年後の1861年、一代で日本一の回船問屋を築き上げた”海の百万石””海の豪商”と謳われた、三代目銭屋五兵衛、大

坂にて死去。享年89歳
(後藤象二郎、五兵衛から経営権を譲られるも、息子喜太郎に預ける)

長男である喜太郎は、四代目銭屋五兵衛に襲名。
長崎海軍操練所で教練を受けた坂本龍馬率いる”海援隊”と共に「第二次樺太出兵」における北前船による補給線の維持

や、樺太に措けるアイヌなどとの交渉、裏工作などで活躍

明治維新後は土佐商会、海援隊、日本国郵便蒸気船会社らと共に対等合併という形で、共同汽船三菱(史実の郵便汽船三

菱よりも大規模)を設立。
明治期における日本海通商路を担当し、国境確定した後のロシア、中国との交易を推進。

北海道圏に樺太を経由した中華圏からの家畜導入などに成果があったとして北海道農業史においても高く評価されるなど

、北方開拓に生涯を捧げた。

後年、銭屋の家系においても白露人移住問題や、日フィン北極海ルート開設などで多大な貢献があったことでも知られて

いる。

213 :キャロル:2013/06/11(火) 23:52:00


―土佐藩 吉田邸内―


「殿様が御呼びなのですか!?ほんとに?」

「そうじゃ。流石に伊達殿に関しては兎も角、外様最大の加賀藩の懐に、“てぇ”突っ込むがじゃ。発案者本人が御説明

差し上げるのが筋ちゅうもんじゃろうが」

全くもって正論なのだが、いきなりの事態にややパニクり気味で第三者が見たなら、“まあ、少しもちつけ”といわれる

だろう。

「まあ要は話がしたいということじゃき。殿も土佐守になったとはいえ、未だ“少将様”は御健在、優秀な子飼い者なら

一人でも欲しいのじゃろう。おまんにとっても好機ちゅうことじゃ」

.........
......
...


「後藤正晴の息子、後藤保弥太(象二郎幼名) で御座います。此度は拝謁賜り恐悦至極」

「うむ、苦しゅうない。わしが豊信じゃ。よう来たきに。」

まるでトム・ハンクスのような二枚目声をさせて、山内豊信こと山内容堂(以後容堂と呼称)は名乗った。

某漫画などでは龍馬の幼友達を無礼討ちする描写や佐幕姿勢の強さから老獪なイメージを想像される人もいるだろうが、

現在の容堂は若干25歳の青年大名にすぎず、1838年生まれの自分と約10歳程度しか離れていないことから、互いに親近感

を抱いたようである。

現在の後藤家の大まかな現状などを説明、叔父東洋に関する愚痴り合い(メガトロンのような迫力とか)を楽しんでいた

容堂が、やおら尋ねかけてきた。


「では聞こう。なぜあの二人なのだ。」と


象二郎はさすがに未来の人間ということこそ口に出さなかったが、海外列強による国際状況と、其れによる数年以内に日

本の政治状況の激変する可能性が高いこと(詳しくは今年帰国したジョン万次郎に聞くこととした。)

変化に対応するため、人材の強化、また殖産興業策として、
(高級鰹節”本枯節”の開発、椎茸の原木による完全栽培法の確立、1865年にフルシュカが開発する蜂蜜の遠心分離機に

よる採蜜法、馬鈴薯栽培による澱粉(片栗粉)生産など)

そして土佐藩喫緊の課題である、守旧派封じ込め策である。


来年の1853年には、東洋が参政職となり新おこぜ組による改革が始まるのだが、これに反発するのは”少将様”こと旧主

山内豊資と、其れに与する門閥家臣団である。

後に尊皇攘夷のうねりで守旧派と結びついた土佐勤王党だが、上士と郷士という違いこそあるが、本来共に改革を志向す

るグループである。結び付きを強めることも可能だろう。

幸い、岡田以蔵ら複数人が自分と同じ転生組であったことで、既に坂本龍馬や武市半平太らと親しくなることが出来た。

その為上士と郷士のグループを結びつけるため、数々の提案を行い、長州藩に倣った御前会議の開設と、それを取りまと

める連絡会の設立を進言した。

会議メンバーは議長役に代々家老ではあるが、東洋の後ろ楯となった福岡孝茂、吉田東洋、小南五郎右衛門、伊達千広、

武市半平太(後に坂本龍馬、福岡孝弟、岩崎弥太郎も参加)ら、
そして象二郎も若いながら容堂の小姓となりメンバーに名を連ねた。

「その”連絡会”だが名称などは有るのか?」

「はっ、殿が敬愛する信長公が愛された敦盛の一節から、“夢幻会”と」

「“夢幻会”......であるか。よかろう、貴様が夢幻の彼方を見通せるとあればやってみせい。骨は拾ってやる」

それは責任はとってやると暗に示した言葉だった。



“夢幻会”


数十年後、転生者達の組織が誕生した際、後輩の転生者達はこの名をつけることを希望した。

それは史実とは異なる大日本帝国という“夢幻の彼方”を見据える者達にとり、史実とは異なる明治維新を達成した先達

に、敬意をこめて命名されたと云われている。

或いは泡沫の夢として、幻の如く消え去るかも知れない。
自分は既に死んでいて誰かが見ている夢に過ぎないという恐怖を乗り越え、歴史に生きた証しを残したい一念から、敢え

て名付けた彼らなりのユーモアだったのかもしれない......

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最終更新:2013年09月04日 20:39