218 :キャロル:2013/07/31(水) 22:08:24
後藤伯の幕末奮闘記 開国編

第三話


今年で1861年か。
いや~長くて短い10年だったな。

1854年の安政南海地震の際は、土佐での被害を抑える為に32時間前に発生した安政東海地震による小規模津波が起こった事で、民衆には真実味が増したことも有り、避難を強制的に行うことで何とか人的被害は抑えることは出来た。

だが夢幻会メンバーとはいえ、未だ16歳の若造に過ぎない身では何をすることも出来ない。

そこで思いきって叔父であり参政でもある吉田東洋に史実を記述した巻物を事前に提出し、協力を求めようとしていた。
一読した東洋は

「象二郎、これを信じろと言うのか?」

「書いてあるとおりです。一ヶ月後には東海地方で、その翌日にはこの土佐に津波と地震が発生するでしょう。そうなれば嫌でも信じていただけるかと」

「いや、信じておらんわけでは無い。これまで我が土佐藩の特産物を開発してきたお前だ。
寧ろ、その知識が何処から来たのか分かり、納得しておるわ。」

土佐藩の反射炉を設け、建造と鋳砲等の建造を目的とした開成館事業の目処がたったにもかかわらず、建設は来年以降にしようと象二郎は提言していたのだ。

219 :キャロル:2013/07/31(水) 22:09:56

「それで......象二郎、お前は何をどうしたいと思っているのだ。」

「私は.........死なせたくないのです。」「何をだ?」

「この日本という国です。既に海外の列強とは開国という形となった以上、後戻りすることは難しいでしょう。我が国の開国が50年前、ナポレオン戦争以前であれば、また違った形になったでしょうが......」

続けろとばかりに頷き促す東洋、

「現在世界一の強国は、元来欧州一の海運国にして、産業革命を成し遂げたイギリスです。
かの列強に対しての攘夷は、アヘン戦争を知り黒船を知った幕府には難しいでしょう。

故に、この日本国が誇りをもって生き続けるには、軍事力と殖産工業は不可欠であり、その為には現在の血統に拘らず、能力がある人材を登用できることが必須です。
その為に徳川家は、一度幕府という枠組みを壊す必要があります。」


「それが此所に書いてある”大政奉還”と”公儀政体論”か。
だが象二郎、わしが認めると思うたか。もし親族の情あらば通じると考えたのなら、わしはお前への評価を改めねばならんぞ......!」

「ええ。親族という関係を考慮しないといえば嘘になりますね。
ですが叔父上がこの時代にあって、有数の開明派であり、当主の信頼厚い参政であること。

そして、このまま推移すれば叔父上は暗殺。これを逃れ土佐勤王党を弾圧したとしても、世が薩長らに味方すれば、土佐は尊攘派との人脈は途切れ、明治新政府には史実と同じか、或いは水戸藩のように人材が枯渇状態になる、最悪の可能性も有ります。」

「ゆえに上手く勤王党を取り込めか......
だが、わしが歴史を知ったのなら、違う可能性も生まれるのではないか?」

「かも、知れません。ですが其れは完全に”知らない”歴史ですから、”歴史を知っている”という優位性自体、捨て去るに等しいでしょう。」

「.........」

「私の知っている歴史では、長州藩が二度の征伐に耐え抜いたことで、幕府の権威が失墜したことにより、維新への道は開かれました。
ですが、この方法ですと恨みと犠牲が大きすぎ、どちらが勝ったとしても負けた方は冷遇されるでしょう。
武市さんら勤王党に関しても、このまま尊攘激派であるのは好ましくないですし」

「・・・・・・ふむ」

「故に私の考えはこれです。」

取り出して見せたのは、史実とは別の構図でもって考え抜いた計画書だった。

「私の根底には維新を迎えたからこそ、日本は驚異的な発展を遂げたという固定観念があるのかもしれません。
しかし”明治維新”は徳川家ら幕府方を踏み台にする必要が有ったかと言えば、おそらくは違うでしょう。そこを修正したいのです。」

220 :キャロル:2013/07/31(水) 22:13:00
聞き終り、目を瞑り熟考しはじめた東洋を尻目に、象二郎は”『明治維新』とは何だったのか?”という問いを、改めて頭の中で整理しなおしていた。

「(西郷は”革命は血を流し、敵を倒さなければ完成しない”と考えたが、敵とは誰だったのか?

徳川慶喜を代表とする将軍家?
それとも其れを支える会津、桑名?

おそらく違う。
真の敵とは血筋に拘り、既得権を守ろうとする幕閣守旧派であり、既に役立たずに成り下がっている大多数の大名や大身旗本らであり、武家社会という根底そのものなのだ。

その澱んで沈んだヘドロを上層の清水ごと強引に吐き出そうとしたのが史実。
......ま、あの戦闘民族の思考だと、むべなるかな。
あの思考パターンは武士道の理想だけど、毒にも薬にもなる劇薬だからな)」

つかの間のまどろみの思考も、叔父の決断の言葉で途切れることとなった。


......翌年、起こった安政江戸地震の際、旧藩主豊資率いる門閥派であり、維新の際には大政奉還にも異を唱えた小八木五兵衛ら一党が、江戸築地の土佐藩邸で多数が犠牲となり、
一方で小石川の水戸藩邸から、藤田東湖、戸田忠太夫が難を逃れたということを後に知った。

その報告を聞いた叔父が、”新世界の神”のごとく笑ったかは定かではない......



1856年 清国においてアロー戦争が勅発

同年、薩摩の島津斉彬から今だ存命していた阿部正弘を通じて、老中主座で開国派である堀田正睦に、

”海外においては『観戦武官』なる制度があり、軍に同行観戦できるそうだ。
清国において戦争が始まったのはもっけの幸い、此れを機に開国するにせよ攘夷するにせよ、海外諸国の武力を調査することは不可欠である”

という献策が行われた。(長崎海軍伝習所に研修中の龍馬と、勝麟太郎が話し合い、史実より早い薩摩への航海練習を実施、斉彬に直接提言を行ったとされる。)

使用する船舶も長崎海軍伝習所の練習航海を兼ねることとし、特に強硬に攘夷を唱える者達を優先して派遣することとされた。

これらにより翌57年、「遣清安政観戦武官団」を清国に派遣。
彼らの中には武市半平太や吉田松陰、久坂玄瑞、清河八郎、さらには西郷吉之助らがおり、多大な影響を受けたと思われる。
(此のとき、松陰は上海滞在中に出奔しイギリスに留学している。
また西郷が中華料理を気に入って料理人を連れ帰り、長崎で藩御用達したとかしてないとか)

そしてアロー戦争終戦の年、1860年には坂本龍馬と上野彦馬が渡海。
戦場での写真撮影(+彦馬の師匠でもあるピエール・ロシエの戦争写真集も活用)と、
現地を体験した龍馬の活動弁士さながらの講釈(後に台本化)により、サイレント映画ならぬ、写真紙芝居なるものが成立。

土佐藩校 致道館、長崎海援隊内、後には神戸海軍操練所や樺太派遣軍の教練、明治陸軍の座学としても上映会が行われることとなる。


アロー戦争を体験した侍達によって、史実より各藩所属の攘夷論はやや落ち着きを取り戻すものの、
一部の公家や儒者、神官、在野の攘夷志士らは、史実どうり攘夷熱を醸成していくことで、少しづつだが不協和音を響かしていくことになる。

221 :キャロル:2013/07/31(水) 22:13:36


1857年の日米修交通商条約交渉の際は、金の海外への流出を招くことを防ぐため、「このままではハゲ鷹の餌食にされる」と、
共和党系のシカゴ・トリビューン紙に匿名で投稿。


時の民主党大統領ジェームズ・ブキャナンに対し、エイブラハム・リンカーン上院議員は 、

”この事が事実であるなら、商人の欲望の餌食となり、極東の開国したばかりで何も解らないだろう人民を騙すのは果たしてフェアだろうか?”

”これでは善良で、正義を愛する他のアメリカ国民が無用な怨みを買い、最終的にはアメリカ人の血で持って支払われることになり、同時にアメリカの名は地に落ちるだろう”

”彼(ハリス)は、外交官の皮を被った商人ではないのか!?”

と、議会に置いて質疑を行い、大問題となった。

後にハリスから聴取を行い大統領は記事の内容を否定。
問題となった金と銀の交換比率も、2年間の猶予期間を設け、国外への持ち出しを禁止するということで解決した。

当然海外の商人達は反発したが、流石に”モラルがない”というレッテルは恐ろしいのか、すぐに収まったものの只では転ばぬために、国外の割安なメキシコ銀貨を使って、今だ銀の価値が高く、相対的に物価が安い日本商品の購入転売と云う形で利益を得ようと考えた。

そして現在中国大陸では、アロー戦争が勅発中である。
戦争をする為には物資や人員輸送などに、挽馬が不可欠であることから、日本中の馬の買い占めに走った。


これが日本商人達の罠とも知らずに......

222 :キャロル:2013/07/31(水) 22:14:59

海外と交易する以上、貨幣価値が海外の其れに合わせて暴落(インフレーション)することは避けられないことと考えられた。(同時に社会不安を招くことで、幕府の権威の失墜にも繋がる。)

その為、通商条約締結時に備えて、土佐商会グループではグループ内商品に関して商品券(藩札)での取引、金の買い占めなど、可能な限り金貨を溜め込み、
1860年以降の”悪貨”万延小判発行時に、私的改鋳で嵩ましを行うつもりだった。

勿論改鋳した大量の悪貨を国内に流すのは不味いので、海外での兵器購入資金とし、国内の大名に武器を売買する武器商人であるとともに、
南北戦争勅発で綿花不足に陥った英国への、綿花買い占め輸出と合わせ、土佐商会は三井、鴻池クラスの豪商へと迫る急激な成長を遂げ、内外の商人にその名を轟かせることになる。


勿論史実において、三井や薩摩が行ったことの焼き増しに過ぎないわけで、
その救済(というか恨みの分散?)として馬の買い占めは三井、鴻池らと共同で、各地の藩に交渉の上、海外商人には適正価格より数割割高だが、

輸送コストと数多く交渉する手間を考えれば充分元が取れるという計算、更には”戦争は水物”という焦りも有ってか、全て売却できた。

海外商人達には「なかなかしたたかな商売をするな」と、半分やっかみ、半分尊敬の念を向けられ辟易したものだが......


後日談だが「唐人お吉」は幕末最大の女スパイとみなされた。
どうも彼女が幕府の条約穏健派から派遣され、”傍若無人な夷狄”から情報を奪った”名うての女間者”とか”公儀隠密”とか世間では言われているらしい。どこのマタハリだよ

史実において1861年に暗殺されたヒュースケンは、怪我を負ったものの、この世界では死ななかったらしい。なんか覆面した女忍者が出たとかほざいたそうだが......

......まさかね

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最終更新:2013年09月04日 20:41