35 :ひゅうが:2013/11/11(月) 23:39:22
支援SS――「明治日本海軍史」



――黙示録艦隊(六六六艦隊)試論

歴史上において黄禍論者は欧州や北米の白人層であった。
彼らは概してキリスト教の信仰者であり、それゆえか聖書を題材にとったプロパガンダを展開したことはよく知られている。
その中で有名なのは、日本海軍が日露戦争前夜にロシア帝国に対抗すべく急速に整備したいわゆる「六六六艦隊」をヨハネの黙示録をもとに「黙示録艦隊(アポカリプスフリート)」と呼んだことであろう。
明治27年から12年計画で実行に移されたために正確には「第二次海軍戦備拡充計画」が正確な名前である。
英国製の戦艦6、国産戦艦6、装甲巡洋艦と防護巡洋艦を2タイプ6隻ずつ建造し、さらにこれに続き開発が行われる革新的な新型戦艦と高速装甲巡洋艦をあわせれば合計6タイプの新型艦艇を基軸にした巨大な海軍を建造するという一大建艦計画である。
当時の英国海軍が保有していた戦艦の数が、前時代的な装甲艦をあわせても30隻ほどというからその急速な整備ぶりがよく分かるだろう。
世界は英国へ発注された6隻の「富士」型戦艦をこそ脅威とみなしたが、それに続く初の国産戦艦「初瀬」型やその周囲を固める装甲巡洋艦、防護巡洋艦群を所詮は東洋人の猿マネとさげすんだ。
そんな頃にドイツや英国周辺で語られはじめたのが「黙示録艦隊」という言葉であった。
黙示録に登場する「強大なる獣」の額には666の数字が記されているという。
そして強大ではあるが最終的にキリストの再臨に伴い断罪され永遠に滅び去る。
この半分誇大妄想じみた黙示という予言に、ロシアという異質な人々を「敵」とする東洋人という複雑な立場への複雑な感情が入り混じってこのような名前がつけられたのであろう。

結果はよく知られている通りである。
この結果、強大な「黙示録の獣」への恐怖と異質な大陸島嶼型国家への恐怖が特に欧州諸国に蔓延。
結果として中央同盟諸国を日英同盟へ敵対的にさせてしまったことから世界史に与えた影響は極めて大きいといえよう。

今回はその世界史的な影響はさておき、六六六艦隊がなぜ成立し得たのか、明治維新からわずか30年ほどでこれほどの――ドイツ大海艦隊計画に匹敵するか上回る―― 大建艦計画が行えたのか、そうした日陰の面を見ていこう。


1、 日本における産業革命

開国当時、日本には蒸気船が2隻、そして敷設されて4年あまりが経過した横浜蒸気鉄道や全土を網羅しつつあった馬車鉄道網(東海道線 北陸道線が竣工、東山道線が開業間際であった)と、各地で稼働をはじめた反射炉、そして蒸気機関の工業への導入が進行しつつあった。
大英帝国などの産業革命が進展しつつあった諸国を除けばこの状態は列強諸国をみても異常であるといえる。
たとえば、フランスが産業革命を開始できたのは1830年代の七月王政期であったし、ドイツがこれを行えたのは1840年代のラインラント工業化と1871年の統一以降、普仏戦争によって獲得し得た莫大な賠償金によってであった。
こうした動きにおいて日本が成し遂げつつあった「動力革命」は何に端を発するのか?

それは、18世紀末から19世紀初頭にかけて出現した江戸幕府唯一の重商主義政権 田沼政権の置き土産であった。
第11代将軍徳川家斉は、半世紀以上という長期間の君臨期間をもった。
いわゆる時代劇に登場するような江戸時代――元禄時代に続く江戸幕府第二の黄金時代――は、豪商の勃興と資本の蓄積を加速。
こうした情勢下において交通網は著しい発展を遂げ、近海航路においては大坂の先物市場を左右する穀物輸送が発展。
海運業者が陸上の街道網と違って独占的な権力を持てなかったことから熾烈な価格競争を生み、これらの帰結として「より高速で、より大量に」といった都市部のニーズに答えるために船舶の高効率化や工業の大規模化が開始されたのだ。
綿花と紡績に端を発した英国の産業革命に対し、日本のそれは穀物や鉱工業製品の輸送に端を発する。
当時、オランダ経由で導入が行われた反射炉により、日本は大量生産による製鉄技術を確立。
同時に、高品質コークスと水車動力によって安定的に高品質のレールを作ることが可能となった。
これを用いた「馬車鉄道」が開発されたのだ。
当初は鉱山からその近くまで伸びる大規模運河まで鉱石を運ぶ目的で作られたこの馬車鉄道は、大規模街道維持をその任務としていた古代官庁の生き残りである道馬司府の全面バックアップによってまたたくまに全土に普及していった。
古代以来維持されてきた駅伝制を、列車につなぐ馬を付け替えることで馬車鉄道に転化することができたことは、商人たちの並々ならぬ熱意のあらわれであったろう。


36 :ひゅうが:2013/11/11(月) 23:40:10
のちには、駅ごとに初期加速を担う「水力カタパルト」(水を高所の水槽にためておき、その落下を動力として列車を加速するカタパルト)や、「重力カタパルト」(水力カタパルトの発展型で、水力や牛馬の力でおもりを持ち上げ、その落下エネルギーで初期加速を行う)が設けられ、輸送力においては初期的な蒸気機関車を上回るほどのものを実現したこの馬車鉄道網は、田沼時代に急速に全国へ普及していったのだ。

さらに、1797年、日本における蒸気機関の発明者、平賀源内は蘭学書に記された蒸気機関を小型化し動力に用いた「源内式蒸気機関車」を実用化する。
当初は馬車鉄道の発展した技術に輸送力ではかなわなかったものの、斜面の登坂能力において優れていたこの機関車は、当初は鉱山鉄道へ(鉱山へ物資を運びこむためのもの)、続いて通常の馬車鉄道網へ使用すべく改良が継続した。
現代でいうロータリーエンジン(おむすび)型の動力変換機構は当時の英国でみられたような初期的なピストン式蒸気機関よりも高効率であり、黒船来航までの半世紀あまりで実用的なものに仕上がっていった。
こうした「動力革命」は、開国に伴い導入されはじめた西欧の技術をあわせて急速な産業化を可能とした。
何しろ、すでに工場や鉄道路線は敷かれている。
あとはそれらをもとに近代的な産業機構を構築すればよかったのである。


2、 明治維新後の工業化

江戸幕府末期から公武政府の時期、日本は兵器生産工程の近代化を図っていた。
アヘン戦争の衝撃的な結末と、「必ずしも技術的に勝っている武器が勝利するわけではない」という観戦武官からの報告は幕府に衝撃を与え、結果近代的な軍事組織が作られるのだがその一環として大規模な艦艇建造能力の獲得が図られたのだ。
幸い、近海航路の大規模化に伴って大型船舶の建造能力は維持されている。
新たに設けられた幕府海軍は、友好国オランダへ大金を投じて技術導入を図り、ペリー来航までの間にくり抜き式先込め大砲の製造能力と、遠洋航海可能なスクーナー型フリゲートの建造能力を獲得していたのである。
こうした動きは、開国後にさらに加速。
西欧に派遣された交渉団はなりふり構わぬ勢いで工業機械を買いあさり、工場の技術指導を行える西欧人を多数招聘した。
これには、ドイツ統一以後勃興しはじめていたラインラントの工業資本や、英国資本が機敏に反応。
明治新政府成立の時期には横須賀海軍工廠や呉海軍工廠に2万トン級の大型ドックが完成。
1875年には官営八幡製鉄所が建造に着手し、日本全土で同様の施設群が建造されはじめる。
ここで注目すべきなのは、日本側が鉱山利権を切り売りせずに合弁資本による開発を最大限の譲歩としていたことであろう。
当然、支払われた資金も割高であった。だが、それでもなお日本側は国内における自国資本の勃興を促進するという大方針をとっていたのだった。
そして、官営で工業化が成功すると、それらの設備は民間へ次々に払い下げされ、さらなる投資を呼び込んでゆく。
この急速な動きを、列強諸国は困惑と幾分の冷笑で迎えた。
人種的偏見といえばそれまでであるが、開国したばかりの「アジアの発展途上国が成功するとは思えない」のであった。
しかし、明治日本は成功した。
これまで独自に行っていた工業化への取り組みの経験、そして開国後なりふり構わず学び続けた成果が出たのである。

1885年、日本海軍は初の自国製防護巡洋艦「開聞」を起工。
英国などの海軍国に艦艇を発注する一方で自国製の船舶の建造を続けていく。
そんな彼らの努力は、日清戦争で一定の成果を上げた。
兵器の国産化と弾薬類の自国生産に成功しつつあった日本陸海軍は、その優れた組織力と兵站能力を存分にいかして清国陸海軍を翻弄。
陸上においては大火力の投入によって数的に互角に近い清国軍をさんざんに打ち破ったのであった。
海上では、編成されたばかりの連合艦隊(海軍が6つ有していた艦隊や戦隊を統合した艦隊)をもって清国海軍を強打。
艦隊保全主義に陥った清国海軍に対しては、威海衛攻略戦において大量の沿岸要塞砲を陸上輸送し港湾内へ向け射撃。自沈に追い込むなどの活躍を見せることができたのである。
19世紀以来、営々と続けられた近代化への努力の、その成果が発揮されたのであった。

だが、三国干渉という外交的屈辱によって事態は一変する。
列強諸国の中国大陸進出と国土の周辺へ強大な艦隊群が展開する現状は、日本側にその排除を決意させた。
とりわけ、露骨に日本周辺への野心を隠そうともしないロシア極東軍に対しては交渉は忌をなさない。
ここに至り、日本はロシア帝国との対決路線へと舵を切ったのである。


37 :ひゅうが:2013/11/11(月) 23:40:52
1895年、初の国産装甲巡洋艦「磐梯」が竣工。
図面の購入と国産化という手間をとった「松島」型海防艦(装甲巡洋艦)の設計を発展させたものであったが、自国製の装甲をまとったこの艦はライセンス生産していた機関とあわせ、日本海軍にある決意をさせる。
大規模建艦計画、六六六艦隊計画がそれであった。


3、 六六六艦隊計画

世論の支持があったとはいえ、日本にとって対ロシア用の軍備建設は非常に重い負担であった。
日清戦争の賠償金の大半をつぎ込んでなされつつあった国内開発は、ドック群の増設や軍需工業地帯の造成が主眼となった。
なおかつ、国家予算の半分以上が軍事費として拠出されるという財政的な異常事態。
それだけ三国干渉への屈辱感とロシアへの恐怖感が強かったのだが、それでも負担は極めて重い。
一例を挙げれば、当時計画されていた国内幹線の複々々線化は日露戦争後にまわされているし、のちに関東大震災を機に行われた帝都大改造のもととなった「帝都建設案」はなんと30年も遅れてしまった。
そのかわりに大量の軍需工業地帯が構築され、現在の佐世保鎮守府や舞鶴鎮守府、陸奥湾鎮守府や室蘭警備府といった工廠を伴った軍港群が予定を大幅に前倒しして整備。
沿海部には要塞地帯や列車重砲群を運用する軍事軌道が張り巡らされていった。
日本が「列強」と称されうる軍事に重点をおいた国家へ変貌したのは、この間であったともいえよう。

話を戻す。
当時の日本海軍は3個艦隊と、5個小艦隊(戦隊)を保有し、周辺海域の哨戒を実施していた。
しかし、旅順周辺やウラジオストクに展開するロシア艦隊やその潜在的同盟国であるドイツ・フランス艦隊の総勢10隻にも達するであろう戦艦群を考えれば、「常に8隻の戦艦・装甲巡洋艦をひとつの海域に張り付けておける、あるいは同時に3海域に展開できる」だけの艦隊が必要となる。
日本の国力の源泉は、本土周辺でさかんに往来する近海航路網や沿海部の鉄道輸送路により運ばれる豊富な資源にあるためだ。


38 :ひゅうが:2013/11/11(月) 23:41:27
敵艦隊による本土周辺での通商破壊戦や大陸で戦う陸軍の補給線寸断が行われることを海軍は厳に警戒しなければならない。
四国連合艦隊による下関艦砲射撃といった悪しき例もあるのだ。
そして、日本周辺で警戒すべき海域なのは日本海からオホーツク海(ウラジオストク)、東シナ海から南日本海(旅順)、そして本土周辺の太平洋沿岸から新須賀(アラスカ)である。

このため、日本海軍は「海上で作戦行動を行う8隻」「港湾で待機しつつ訓練を行う8隻」「ドック内で整備を受ける8隻」を、若干の余裕をもって保有することを企図した。
この3つの分類において、常に2隻単位で同型艦が戦隊行動をとれることを目標として六六六艦隊計画はたてられたのである。

日本海軍は、1896年、英国に対し戦艦2隻の発注を行った。
4隻分の資金を払う条件で設計図面の購入や関連技術のライセンスを購入するというこの計画は当然ながらロシア側を刺激する。
本来であれば、残る4隻はドイツへの発注が行われることで調整が行われていたのだが、ロシア側の要請を受けたドイツ皇室周辺による贈賄醜聞の暴露、いわゆるシーメンス事件において大恥をかかされた海軍はこれを拒否。
得意満面のウィルヘルム2世の口から陰謀が漏れだしたことによって国内の海軍への批判はドイツへの怒りに変わったものの、これを否応なしに日本を対独戦を意識した日英同盟へと傾斜させた。
結果的に、準同型艦をあわせて6隻が英国へ発注され、国内においても各地の海軍工廠で国産の本格的な戦艦群が一斉に起工された。
この時点で、八幡製鉄所や鹿島製鉄所、室蘭製鉄所や釜石製鉄所といった明治初期に建造されはじめた大規模な一体型洋式製鉄所群はフル稼働を実現しており、札幌造兵工廠や相模原造兵工廠、豊橋造兵工廠、大坂造兵工廠といった大規模な武器弾薬生産拠点は完成の時を迎えつつあった。
また、佐世保、呉、舞鶴、横須賀、陸奥湾、室蘭の各海軍工廠も周辺の要塞地帯とともに完成の時を迎えていたのである。

わずか10年。
この間、日本の国力は対ロシア戦備計画へ注力され続けた。
すでに統計上は日本の国力はイタリアやオーストリアを上回り、英独仏に次ぐ列強第4位(アメリカを除く)にまで浮上しており、無理をすればこうした計画は可能となっていたのである。
にも関わらず、ドイツやフランス、アメリカなどはこれを無謀な計画と称した。
恐るべきは偏見というべきかもしれないが、当時としてはそれが常識であったのである。


1902年、六隻の戦艦群がリバプールを発ち、ロシア海軍の露骨な追跡を丁重にもてなしつつ極東へ向かいつつあったころ、日本各地の海軍工廠では次々に鋼鉄の城が海上に浮かべられていた。
さらに、日本海軍は野心的な――のちに弩級戦艦といわれる――アイデアを用いた革新的な新型戦艦を構想。
あいた船台に竜骨をすえつけつつあった。
ロシア宮廷内では、日本へ向けていかなる対応をとるかで皇帝周辺と軍を中心にした一派が対立。
半ば独断で極東への進出が加速されさらに緊張が高まるという悪循環を迎えていた。
しかもこの年、大英帝国と日本は同盟関係を締結。
対ロシア包囲網を構築し始めていた。
かくて、対決への道程は整った。
1904年2月――合計150万に達する巨大な陸軍と、戦艦12を基幹とした大艦隊はロシアに向けられることになるのである。

キリスト教諸国にとり、それは「黙示の時」のはじまりであったのかもしれない。

39 :ひゅうが:2013/11/11(月) 23:43:16
【あとがき】――というわけで、大陸日本世界における産業革命と、六六六艦隊計画を実行に移せるだけの理由づけ(言い訳)でしたw
かなり長くなってしまいました(汗
457氏やハニワ一号氏、四○艦隊の人氏などの参考になれば幸いです。

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最終更新:2014年01月11日 17:29