152 :ひゅうが:2013/11/12(火) 17:23:23
ネタ――「日露戦争への道」(修正版)


日露戦争…1904年から1905年にかけて主として日本周辺から満州地方・ロシア極東部で行われた戦争である。
交戦国家こそ日本帝国とロシア帝国という二か国だけであるが、直接あるいは間接的に影響を及ぼした同盟諸国をあわせれば時の列強の大半と次代の列強であるアメリカ合衆国を含む。
歴史学者の中では「第零次世界大戦」と呼称するものもある。
今回はこの日露戦争――世界を驚愕させた史上初の総力戦ともいえる大戦争への道程についてみてみよう。


1、 対決理由

日本とロシアの外交関係は明治中期までは決して悪いものではなかった。
江戸幕府から明治新政府への移行期にあたる公武政府(1858-1867)の時期において、日本政府はオランダを仲介としてロシア領アラスカを1020万ドルで買収した。
また同時期に英領カナダとの国境画定交渉を行いつつ、かつロシア資本で形成されていた現地の毛皮産業の存続を許した。
日露和親条約締結時にロシア側が比較的紳士的な対応であったこと、安政地震による津波で損傷したロシア艦を救助し、日本側が代替艦を建造しているなどの過去の好条件も重なっている。
この時期のアラスカ周辺は、のちの満州のような自由貿易区の先駆けとして北海道とあわせ急速に開発が進行し得たのである。
また、魚介類を好む日本人はアラスカ周辺で捕鯨や漁業に精を出し、彼らの中継地として当時はロシア領にとどまっていた神坂(カムチャッカ)半島のペトロパブロフスク=カムチャッキー市は繁栄を極めた。
こうした良好な日露関係のもとで、日露間の関係は良好に推移。
首相経験者や大物政治家の相互本問にはじまり、のちには史上初となる皇太子の相互訪問を実現。
明治新政府の成立時には領事裁判権こそそのままであったものの、関税については相互協議という実質的な平等条約へ発展したのであった。

だが、明治中期になると、ロシア国内に導入されたフランス資本による産業革命の進展と国家の発展が本格化。
ロシアの政界に「新規植民地獲得論」というべき中国大陸や日本周辺への野心が目覚め始めた。
そのため、当初は南北で分割されていた樺太や通行を自由とされた千島列島の諸海峡においてウラジオストクを中心に活動するロシア極東軍(太平洋艦隊や海兵隊)がしばしば越境。日本側漁船をだ捕するという挙に及んでいる。
もちろんこうした事件は双方の政府間において解決が図られた。
しかし、ロシア特有ともいうべき独立性の高い各総督府や地方政府の動きまでは抑制し得ず、日本側はウラジオストクやハバロフスクから届く強硬な書状と、ペテルブルグから届く穏健な書状の間で困惑を余儀なくされたのだった。

こうしたねじれ現象は、日本国内で発達しつつあったマスメディアの格好の非難材料になった。
とりわけ、日清戦争後に行われた三国干渉は決定的であった。
これに際しハバロフスクから行われた恫喝では、「もし受諾しないのであれば、ロシアが潜在的主権を有する日本本土を実力で回収せざるを得ない」という文言が含まれていたのである。露骨な恫喝外交であり、日本人に北方は決して安定していない、列強の気まぐれで奪われる領土であるという現実を再認識させた。
さらには、当時「コンゴ自由国」で悪名高い植民地経営者であったベルギー国王レオポルド2世が日本周辺の植民地化を目論み列強諸国に、とくにドイツやロシアに向けて呼びかけを行ったということが大使館経由で伝わる(実際には明治維新の初期ごろから1880年までの提唱だった)と、日本政府はこのとき「自国を滅亡させんと欲する者がいる」と覚悟を決めたという。


153 :ひゅうが:2013/11/12(火) 17:23:55
こうして、日本帝国は自国防衛を大前提とした大軍拡に乗り出すのである。
俗に「黙示録艦隊(アポカリプスフリート)」と呼ばれる「六六六艦隊計画(第2次海軍戦備拡充計画)」と、一気に陸軍の総数を3倍にまで拡大する「第4次陸軍近代化計画」をあわせ、12年がかりで日本陸海軍を一気に質量的に拡大する「第一次国防総合計画(1次防)」がそれである。
12隻の戦艦、12隻の装甲巡洋艦と、新規編成された4個軍集団4個方面軍計150万名(最終的に投入された後備部隊をあわせ200万名に達した。本土もあわせた総動員兵力は500万名ほどとまさに国家総力戦である)。
その数と質は欧州最強の一角であるドイツ帝国のそれに匹敵する。
対するロシア側も極東に配備する軍の数を増強し始めていた。
その数は、陸兵約65万名、戦艦12を基幹とする2個艦隊である。
これらは第1から第3のシベリア軍団と、新規編成された満州第1から第4軍団に分けられ、また旅順に新鋭戦艦7隻が集中しウラジオストクにも5隻の有力な戦艦部隊が配備されるという強力な布陣であった。
なお、当初は50万名が予定されていたのだが、日本側の急速な軍備増強や極東総監府設立に伴う軍や総督アレクセーエフの要請もあって増強が図られたことを付記しておく。
ロシア側は1905年には80万名に増強を行い、一気に朝鮮半島へ侵攻するという作戦計画案「カザン作戦」(イヴァン大帝によるタタール人征伐の故事から命名された)を想定しており、この後樺太と九州方面に上陸作戦を展開、最終的には日本全土を制圧する予定であったことが近年の資料発掘で明らかとなっている。


2、 開戦前後

1902年、日英同盟が締結された。
これは、前年の北清事変(義和団事件)において満州地方がロシア側の占領下に入ったことにより妥結が急がれた成果でもあった。
さらには、旅順にロシア租借地が正式に成立し本格的にロシア太平洋艦隊が駐留することになり、重大な挑発と判断した日本政府内では和戦両用の国策遂行要綱が採択。
ロシア側の態度を表明するかのように、同年のうちにロシア極東総監府は「日本大陸周辺における軍艦も含めた航海の自由、北方の領土画定交渉」を要求。
これを拒否すると、盛んに北日本海や東シナ海で海軍による軍事演習を繰り返した。
日本側は1903年初頭よりペテルブルグに特命全権団を派遣し交渉を行ったものの、最低でも朝鮮半島中立化と満州地域の兵力告知を要求する日本側と日高見(北海道)亜大陸と対馬海峡の非武装化と中立化を要求するロシア側の意見の隔たりは埋まらず、その動きは日露間の貿易協定交渉にも波及。
日本産の鉱物資源や石油資源産業への全面参入許可を迫るロシア側と合弁を主張する日本側の対立は紛糾。
結局、1903年8月の日露交渉は、全権団長伊藤博文とロシア帝国ウィッテ首相の間で、「両国は極東と北東アジアにおける現状を理解し、尊重する」という文言を盛り込んだ共同声明を発表するにとどまった。

そして1903年10月、ロシア極東総監府は自国の満州ならびに長城以北において独占的かつ排他的な管轄権を有するとする「満州獲得宣言」を発表。
同時に、ロシア軍の半永久的駐留を清国側が黙認し、かつ哈爾浜市や斉斉哈爾市などの市長が「平和的に交代された」ということが判明するにおよび、列強諸国はこれが満州の領土化であると確信する。

国際的な非難が高まる中で11月、ロシア「政府」は朝鮮半島における兵力の相互配置についての告知義務と対馬海峡自由航行権を伴う新条約の締結を要求する。
政府が軍の強硬派に押し切られたのである。
日本政府はこれを最後通告と判断、11月12日、ロシア政府に対し日本側の最後通告を発し大使を通じた元首の「親書」の交換による事態の収拾を試みた。
しかし、この動きはロシア財務省の一派により皇帝へ達する前に揉み消され、デスクの上で放置される。


154 :ひゅうが:2013/11/12(火) 17:25:09
結果的に、日本側は次々に変わる交渉窓口の前で3か月間四苦八苦するはめになる。
同時に、日本国内に「出師準備」が発せられた。
事実上の動員令の発令である。
工場は夜間生産(24時間生産)態勢に突入し、同時に尋常な量ではない資金が英国へ流れ込み軍需物資が買いあさられる。
さらには大蔵省から特命を受けた財務官僚たちが米英仏など列強諸国へ飛んで行った。
戦費調達の命令を受けてのことである。
こうした動きに、ロシア政府は驚くほど鈍感であった。
事実上、満州問題の交渉権は極東総監府に独占されており、首相ウィッテの失脚に伴いロシアの内閣はその力を失いつつあったためである。
1月13日、ペテルブルグの日本大使館は首相との面会にこぎつける。しかしそこで判明したのは「首相失脚」の四文字。
ここに至り、日本政府は開戦を避けるのは不可能と判断。
さらに1月20日、朝鮮半島北部、新義州近辺にロシア極東軍が侵入し、仁川港にロシア太平洋艦隊の巡洋艦「ワリヤーグ」が寄港。
大韓帝国軍と小競り合いを起こしたことが判明し、またウラジオ艦隊が出港したという報告が入るにおよび、日本政府および陸海軍首脳は「近日中の大韓帝国への軍事的恫喝と半保護国化」が図られると判断。
1月28日をもって「2月初旬をもって事態の打開が図られないのであれば日本帝国はロシア帝国に対し国家の安全を図るべく開戦する」とする「最後通牒」を発した。

そして、2月6日深夜、連合艦隊出撃。
2月8日午後1時30分(ペテルブルグ標準時同日午前7時30分)、日本政府はロシア帝国に対し宣戦を布告。
同2時に仁川港への奇襲攻撃を開始した。このとき連合艦隊主力は旅順沖合にあって湾内への砲撃態勢を整えつつあったのである。


――日露戦争が、はじまる。

 


【あとがき】――
というわけで、大陸世界の日露戦争、その前夜までの道のりであります。
こっちの世界では小人さん(夢幻会)の忠告に従って、宣戦布告が間に合うように気が配られています。
それでもロシアの始業時間の直前に宣戦布告文が手渡されるように「配慮」され、混乱する外務省が極東総監府へ伝えるのを遅らせてしますが(邪笑


誤字などがありましたので再投下いたしました。
スレの消費など無駄が多くすみませぬ。

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最終更新:2014年01月11日 17:28