188 :ひゅうが:2013/11/12(火) 19:01:05
――1904年2月8日 午前10時 サンクトペテルブルグ エルミタージュ宮殿
「冬宮」

聖ペテロの名を冠する都市は、北のヴェネチアと称される水運の都である。
巨大なロココ建築が立ち並び、規模においてそれは欧州の他の帝都を圧倒しているといっていい。
中でも「隠れ家」を意味するエルミタージュ宮殿は、巨大という言葉と壮麗という言葉を全身で表現するような、そんな宮殿だった。
冬の宮殿として代々のロマノフ朝の皇帝たちが住み続けるこの宮殿は、この日喧騒に包まれている。
正確には、怒号と悲鳴によって。

「なんということだ!」

壮年の美丈夫が怒りの声を張り上げていた。

「君たちは言っていたではないか。あれは東洋の―ああこのおぞましい表現こそ汚らわしいとなぜわからん!―猿(マカーキ)の強がりです。奴らは拳を振り上げてもそれを用いる度胸などありません、と!」

「しかし――」

「言い訳はたくさんだ!確かに余は日本美術の愛好者だとも。日本式の茶のファンだとも!だがそれを、そうした好印象を帝国の枢機にからめるというのか!?そうした危惧を理由に独断専行する?
そしてルーシを戦争に巻き込む?
それこそ不敬であろう!!」

朝の団欒の中に慌てて駆け込んできた外相と彼らを案内してきた侍従たちは、古の「雷帝」イヴァン4世のごとき怒号の中で唖然としながら頭を下げていた。

この日の7時、日本本土から封函で送られてきた文章の開封命令が短い長距離無電による指令で開封され、ペテルブルグ駐留の日本大使は「可及的速やかに」ロシア外務省へと走った。
このところ日参していたためにスムーズに夜勤職員が執務室まで通し、彼らを待機させる。
そして7時30分、遠く離れた日本本土とほぼ同時に日本帝国はロシア帝国への宣戦布告文を手交したのである。
ロシア外務省は大混乱に陥った。
なんといっても極東方面は「大使」でなく「公使」という一段低い地位の人々が派遣され、しかもハバロフスクの極東総監府が命令系統の間に入っている。
そのためにいちいち極東総監府を通してでないと外交交渉が行えず、また軍事力の行使についても介入ができない。
そんな中で急速に日露関係が悪化していたことは認識していたものの、まさか日本側から戦争が仕掛けられるとは。
まさに政府関係者にとり青天の霹靂である。
どちらかといえば日英同盟を通じ、英国が行ってくる干渉を警戒していただけに衝撃は極めて大きかった。


189 :ひゅうが:2013/11/12(火) 19:01:39
そして、誰かが気付いた。
極東総監府は警戒命令や戦闘命令を出しているのか?

とその時、駐日公使館から宣戦布告文の内容が送信されてきた。
彼らは青くなった。
正規のルートで内容が上げられている。しかし極東総監府に情報は伝わっていない!
確かに真っ先に本国へ送られるのは正規の手続きだ。
だが、その後極東総監府に情報を渡すのは誰か?命令を下すのは誰か?
極東総監府は皇帝直属の機関である。であるなら、皇帝ニコライ2世が有する軍の統帥権を用いて戦時体制が下命されねばならない。
――致命的に時間が足りない!

最後通牒が手交されてから極東の部隊が増強されるまでに極東総監府と政府・皇室の間でどれだけの協議が行われそして実行されるまでどれだけの時間がかかったのかを鮮明に覚えている人々は、あわててエルミタージュ冬宮に走ったのであった。

「それで、現状はどうなっている?」

ニコライ2世は荒い息を吐きながら鋭い目で、朝の団欒の時間に凶報を持ってきた連中を睨みつけた。
そもそもニコライ2世にそこまで状況が悪化していたという認識はなかった。
せいぜい、あの愛すべき国が態度を硬化させつつあり仕方なくも軍事的圧力を加えなければならなくなりそうだといういささか不愉快な認識である。
極東総監府からは「哨戒任務を実施」といった内容が上がってくるのみであるし、外務省も曖昧な態度のままだ。
ともかくも平和は守られつつあるらしいと彼はそう思っていたのだ。
落ち着いた皇帝をみて男たちは気をとりなおし――

「失礼します!
インチョン(仁川)港に展開中のわが海軍艦艇に日本海軍が攻撃を加えました!装甲巡洋艦2隻が大破炎上中!!」

「ポート・アーサー(旅順)要塞から緊急電!海上に敵艦隊出現!少なくとも戦艦5以上を確認!」

「太平洋艦隊主力が停泊中の泊地に海上艦から砲撃が加えられています!!」

凶報は、さらに多く入ってきた。


ニコライ2世はこのとき悟ったという。
わが国は、きわめて危険な状況へ無造作に足を突っ込んだのだ、と。


190 :ひゅうが:2013/11/12(火) 19:03:05
【あとがき】――というわけで、大陸日本の日露戦争 「開戦」編でした。
内容は黄海海戦ネタに準拠しております。

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最終更新:2014年01月11日 17:27