965 :ひゅうが:2013/11/15(金) 23:30:09
>>916-920 「大陸日本の日露戦争」その1の続きです。

ネタ――大陸日本の日露戦争 その2

 


3、 大動員

2月9日、仁川沖海戦において朝鮮半島周辺のロシア海軍を排除した日本陸海軍は、ロシア側が朝鮮半島に保有していた「権益」(多くは大韓帝国政府が売却したもの)の戦後における譲渡を見返りとして大韓帝国政府との間で日韓鉄道協約を締結。
かねてより建設が進行していた半島南北縦貫鉄道こと釜義線の残存未完成区間工事の許可を獲得し、また水や食料の売却などを確約された。
同日、すでに収用が行われていた鉄道用地に陸軍工鉄兵団と鉄道連隊が投入され、軌道の敷設が開始される。
幸いにも、日韓鉄道議定書に基づき工事が進行中であったため工事は極めて順調に推移。
続々と仁川港に陸揚げされた陸軍部隊を輸送しはじめた。

(なお、日本側は首都漢城の鉄道建設反対派へ「配慮」するべく漢城を数十キロ迂回するルートを選択している。このとき建設されたのは迂回ルートから仁川港に至る「支線」と建設が中断状態となっていた新義州・安州間のルートである。ロシア側は日本側と並行する形で漢城を通過するルートについて建設許可を得たばかりであった。)


その頃、日本本土では宣戦布告に伴い出師命令が発令された。
各地で行われた第一次動員において、まずは200万名の軍人・軍属が動員。
前線に最初に派兵されるのは4個軍23個師団。いずれも即応態勢におかれていた本土師団である。これに続き第二次・第三次動員にともなってさらに4個軍25個師団が6月までに満州へ投入されることになっていた。
陸軍は合計150万名のこの兵力をもってロシア極東軍60万名を包囲殲滅する予定だった。
可能であれば1905年末までにハバロフスク攻略によりロシア極東部を完全に勢力下においたうえで講和条約の取引とできれば理想的である。
初の列強との戦争であるために陸海軍は海外からのジャーナリストを積極的に受け入れ、定期会見を行うなど広報に力を尽くしていた。
そのため、こうした動員計画はロシア側にも明らかとなっており、早期に日本側第一陣を撃破する必要に迫られることとなる。


ロシア側も遅ればせながらシベリア軍団に加え、ポーランド軍団やコサック軍団などの動員を開始。
シベリア鉄道を用いて兵力輸送と集積を開始する。
同時に、封鎖状態の中で毎日海上から砲弾が飛んできている旅順から極東総督府を哈爾浜に移転。
満州の大平原での「決戦」を企図しはじめた。
アレクセーエフ総督は名実ともに極東総督としてロシア陸海軍の指揮統帥権をゆだねられており、兵力蓄積に余念がなかった。
また、緒戦で大被害を受けた旅順の太平洋艦隊は、驚くべき努力のもとで再建を開始。
無力化されていた戦艦1隻の復帰に成功している。
また、津軽海峡海戦で壊滅状態となったウラジオ艦隊だったが、装甲巡洋艦「リューリク」を基幹とした巡洋艦2隻が残存しており、その存在によって日本海軍の一定の戦力を引き付けておくという「艦隊現存主義」にのっとって存在を誇示するかのようにウラジオストク沖での訓練を盛んに行っていた。
ロシアは決して屈することはない。彼らはそう高らかに宣言したのである。


3月中旬。朝鮮半島縦貫鉄道はほぼ貫通。
平壌周辺に集結していた日本陸軍は補給線の完成と物資備蓄の完了を待って前進を開始。
本隊前面の第1軍集団(黒木為朝大将指揮)は鴨緑江前面で渡河を開始した。
同じく遼陽に集結していたロシア極東軍は迎撃のために第1極東軍団を鴨緑江に派遣。
ここに最初の陸戦、「鴨緑江会戦」は発生する。


967 :ひゅうが:2013/11/15(金) 23:32:32
4、 鴨緑江会戦と遼東半島展開

3月1日、陸軍は満州総軍(大山巌元帥指揮)を設置。大本営から指揮権を移管する。
同時に、隷下の軍をいくつか(3個以上)まとめて3つの「軍集団」を編成した。
これは、大方針として満州でのロシア極東軍殲滅の必要上、陸軍兵力がなるべくまとまって行動することが求められたためであり、海軍の連合艦隊編成と同様の理由による。
そのため、日露戦争中は言葉としてはほぼ同じ意味となる「方面軍」は日本本土における担当地域、すなわち軍管区に所属する部隊と同じ意味とされ、軍集団よりも少数の軍と師団を隷下におく留守部隊か、軍集団隷下にある中級部隊として扱われた。
(なお、ひとつの戦域ではなく複数戦域に展開を余儀なくされた第1次大戦後は方面軍の多数編成が主力となっていく)

このうち第1軍集団は満州方面での野戦部隊、第2軍集団はその補助として機動力が重視されており、第3軍集団は遼東半島の早期攻略と全軍への火力支援を重視した重火力部隊、第4軍集団は戦略予備として後方に位置する予備役・後備役中心舞台。第5軍集団は総予備として最後の最後で投入される役割と想定されていた。
こうした役割分けであるため、第3軍集団が殺到した遼東半島には第1次大戦の前哨戦ともいわれる巨大な火力が投射されるのであるがひとまずこれは置いておこう。

3月15日、黒木為朝大将率いる第1軍集団は、鴨緑江渡河のため平壌近郊を出立。
鉄道を用いて新義州へ至り、侵入ロシア兵排除のため北上しすでに展開していた先遣隊の第5軍第50師団(広島)と合流。渡河の準備に入った。
この動きに対し、ロシア極東軍はシベリア第2軍団とシベリア第4軍団をもって遅滞戦闘を試みる。
この時点においてロシア側は日本陸軍の錬度について非常に低く評価していた。
清国陸軍よりは上であろうが、それでも大陸軍国であるロシアにはかなわない、と。
だが、観戦武官を送っていた列強諸国が見たのは、恐るべき光景だった。

3月18日、鴨緑江へ陣取った第1軍集団は、司令部直轄となっていた重砲兵と師団砲兵を河岸に展開。
大量の砲兵によって火力制圧を開始したのである。
中でも、日清戦争以後に実用化され大量配備が進んでいた29式多連装噴進榴弾砲を集中しての瞬間的な火力投射は艦隊の片舷斉射に匹敵した。
「まるで、うわさに聞くフジの火山が噴火したかのような光景だった」と当時の観戦武官の日記には記されている。
混乱状態となったシベリア第2・第4軍団後方に向け敵前渡河を果たした第2軍(仙台)が回り込むことに成功し、ロシア側は撤退を開始した。
被害は僅少。
予定通り日本軍は、直ちに鴨緑江に仮設橋梁を敷設。待機中だった第2軍集団(奥保鞏大将指揮)の輸送が開始されここに、満州への道は開かれた。


3月25日、鴨緑江会戦の混乱がロシア側においておさまりきらないうちに日本陸軍第1軍集団は遼東半島の付け根へと進撃を開始した。
このとき旅順攻撃の主力と目された第3軍集団もすでに集結を完了しており、その地ならしが役割となる。この作戦行動は4月半ばの得利寺の戦いに至るまで継続されることになる。


968 :ひゅうが:2013/11/15(金) 23:33:32
3月26日、旅順口封鎖に従事していた連合艦隊第2艦隊および砲艦部隊を除いた大量の艦艇が門司港から出発する大輸送船団を護衛しつつ遼東半島南部、大連からほど近い塩大墺に到達。
第2軍集団の(奥保鞏大将)上陸を開始した。
遼東半島基部からの進撃を警戒していたロシア側は虚をつかれた。
大陸国家的な発想といえばそれまでだが、日本側の海上機動力をまざまざと見せつけた作戦行動であるといえよう。
(この大輸送作戦のために連合艦隊および海上護衛本部は神経をすり減らし、ウラジオ残存艦隊と旅順艦隊の動向を逐一報告させたという。)
対応は後手にまわり、無防備な海岸線はやすやすと制圧を許してしまう。
このとき、哈爾浜への脱出後指揮系統の再編中であったアレクセーエフ元帥は、「あの忌々しい巨弾がなければ!」と叫んだという。

4月1日、大連近郊の南山に構築された要塞地帯に対し、第2軍集団が攻撃を開始。
大量の火力を投射ししかる後に突撃という手段をとったものの、永久陣地に対し効果は完全なものではなく、ロシア側の倍近い2000名あまりの損害を受ける。
これを受け連合艦隊は旅順封鎖用の「津田」型海防艦の予備艦「美保」「末」を投入。
海上艦からの支援艦砲射撃を実施した。
結果的に制圧はなったものの、永久陣地やとりわけ機関銃に対する突撃の効果について大本営ならびに満州総軍は「紙の上の悪夢が現実になった…」顔を青くしたという。
この「南山の戦い」により、遼東半島先端部の旅順要塞とロシア軍主力は分断された。
4月30日の大連占領後、第2軍集団は南への睨みとして第1軍(第10~第14師団)を残し北上を開始する。

なお、この時の戦訓から、陸軍が出し渋っていた30センチ列車砲と海軍の長28センチ榴弾砲が旅順攻略用に送られることが決定。
海軍はウラジオ艦隊残余艦の襲撃を警戒しつつも護衛艦隊を動員。極秘裏に沿岸砲の輸送を開始した。
そして、「旅順攻撃のためだけに重火力を根こそぎ集めた」といわれる第3軍集団も海上で上陸の時を待っている。

――かくて、日露戦争第一のハイライト、「旅順要塞攻防戦」は開始されることになる。


969 :ひゅうが:2013/11/15(金) 23:35:22
【あとがき】――というわけで、緒戦であります。
第3軍集団まで上陸を終えることができました。史実明治日本、すごい海上機動やってますねw

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最終更新:2014年01月11日 17:26