201 :ひゅうが:2013/11/16(土) 20:15:32
前スレ916-919 965-969 >>18-22 の続きです。


ネタ――大陸日本の日露戦争 その4

6、 旅順要塞火力戦――「『鉄槌』作戦」

【砲兵移動】

5月2日、すでに簡易港湾が構築されていた塩大墺に上陸した第3軍集団は、重装備を最低限にとどめながら即刻進撃を開始。制圧された大連港に到達すると、幸い無傷であった大連港の港湾設備を利用して大量の物資を陸揚げしはじめた。
こうまでして兵員を陸揚げするのにこだわったのは、大連港かその周辺へ封鎖を強行突破した旅順艦隊が出現すること、また旅順要塞や遼東半島基部からロシア陸軍部隊が進撃してくることを警戒したためであった。
そのため、大連港への陸揚げ時には、わざわざ第3艦隊の戦艦群が沖合に張り付き旅順港湾方面の第2艦隊(第1艦隊と交代済み)とともににらみをきかせていた。
その警戒ぶりから旅順港周辺に戦艦8、装甲巡洋艦8が集中したために「すわ旅順港への強行突入か」と旅順艦隊が警戒を強め即応待機状態に入り、逆にそれを感知した日本側が神経をとがらせるという喜劇的な出来事となったほどだ。

だが、従軍していた英国や合衆国の観戦武官が見たものは、恐るべき数の火砲の数々が陸揚げされ、旅順へ向かう長い隊列だった。
初期段階において、100ミリ以上の重砲約1000門、大口径の24連装噴進榴弾砲(弾径は203ミリ)約1000門、75ミリ砲を中心とした軽火力2200門。
これが、この時陸揚げされた火力の概略であった。
その数は、当時のドイツ帝国陸軍が保有する第一線の全火砲に匹敵する。
しかも、これらはほとんどが「軍集団直轄」の「攻城砲軍団」としてかき集められたものである。
中でも、観戦武官を驚愕させたのは、巨大な「列車砲」を筆頭として240ミリから300ミリクラスの榴弾砲や臼砲、妙に仰角の高い奇妙な短砲身砲(迫撃砲)約150門がロシア軍から奪取した南満州鉄道の軌道に乗って旅順へ送られる姿であり、その後方から延々と弾薬輸送用の貨車が続いていく光景であった。

「モーセに従う民たちが延々と列をなして海へ向かう、出エジプトの奇跡を前にしたその姿のようだ」

従軍していたのちの米陸軍参謀総長マッカーサー中佐(当時)はそう書き残している。
もちろんこれだけではない。
そのあとには日本全土からかき集められたとさえいわれる蒸気動力式の大量の建設土木機械群(この日のために合衆国などから大量輸入されたものも含む)が続き、鴨緑江渡河に威力を発揮した鉄道省工作部と工兵部隊の合体版である「工鉄兵団」が続く。
行軍を開始した第3軍集団の誰もが背中にスコップを背負っていることや尋常ではない数のマキシム水冷式機関銃や古めかしいガトリング砲のようなものを馬が曳いていることに気付いた聡明な観戦武官はこのときはじめて何かが変わったことを実感したのだという。

「日本人は、シャベルと砲弾で要塞を耕す気だ」と。

もし、旅順要塞と駐留ロシア軍が少しでも命脈を長らえられるのであればあるいはこの時の全力出撃がベストな選択であったのかもしれない。
この時点で8万5千名(海軍兵員含む)を数えていた要塞守備隊が脱出できれば、日本側は捕捉を諦め旅順要塞の奪取に全力を尽くしていたのであろうから。
もっとも、それはのちの奉天などの野戦で日本陸軍と再び対峙する結末になったのだろうが。

だが、要塞守備隊をまとめるコンドラチェンコ中将と要塞司令官アナートリィ・ステッセル大将(昇進)は要塞前面へ敵を誘引しての撃滅を構想。
移動先の哈爾浜においてシベリア鉄道経由で続々と送られてくる軍主力をまとめ上げつつあったアレクセーエフ総督もこれに同意し、要塞持久戦と数か月以内での反攻作戦開始を決意する。
そのため、日本陸海軍が神経をすり減らしつつも行った揚陸作業と砲兵移動は順調に推移。

――5月15日には第3軍集団は再編成作業を終了。
5月18日、旅順要塞前面に到達したのである。

乃木希典大将率いる第3軍集団、しめて19個師団および予備4個師団。その総数58万3000名。古今未曾有の要塞攻略部隊である。
その行軍の足音は要塞にあっても遠雷のように聞こえたという。

この時のために、乃木とその腹心であり砲術の大家であった攻城砲軍団司令 伊地知中将は時の参謀総長であり「今信玄」と呼ばれた戦略の大家 田村怡与造(たむらいよぞう)大将に噛みつき直談判してまで徹底した攻略作戦を練り上げていた。

その名を「鉄槌作戦」。英訳名を「アイアン・フィスト」というこの作戦名が何に由来するのかは不明であるが、計画そして結果はその名にふさわしいものであった。

 

202 :ひゅうが:2013/11/16(土) 20:17:29

旅順要塞守備隊はこの大軍を前に要塞前での遅滞戦闘を断念し要塞に籠っての抗戦を選択。
そして5月18日中に第3軍集団は航空偵察を開始した。
遼東の5月は砂埃が少なく良好な青空が常である。
大連近郊の臨時飛行場から飛来した倉崎・三菱製の「二宮式玉虫号」4機は要塞上空を悠々と飛行し、史上初の航空機を用いた戦術偵察と写真撮影を敢行した。
このとき機関銃による対空射撃がなされたものの、機関銃では高度が足りず、かといって砲火器は飛行機の速度に対応できない。
第3軍集団は敵の配置を確認し陣地形成に若干の変更を加える。
そうなると、陣地形成に威力を発揮するのは蒸気動力の土木作業機器群である。
塹壕形成車や重砲陣地整地車が黒煙を上げながら稼働を開始し、臨時に野戦軌道や整地道が設けられて重砲群が配置されていく。
工兵隊の努力と、火砲の専門家として中央で辣腕をふるった有坂中将の協力もあり、本来なら移動が困難とされた重砲群はこうして遼東まで至り、さらに当時としては極めて短期間とさえいえる24時間でひとつの重砲陣地は完成するようになっていた。


【突発事態】

そして5月19日は日本側陣地から立ち上る煤煙が見受けられたものの、夜間にはそれらはぴたりと止んだ。
いざ総攻撃と思われた翌日5月20日午前6時30分、誰もが予想しなかったことが起こる。
旅順要塞正面、東鶏冠山堡塁へ歩兵第90師団(金沢)が殺到したのである。
日本側による威力偵察とはいえ、一瞬浮足立った旅順要塞は堡塁の占拠を許してしまうも、守備隊長コンドラチェンコ中将の適切な防衛戦指揮の結果、奪取された堡塁を次々に奪回し、攻撃部隊を裾野へ追い落とす。
昼までに日本側の死者1750 傷病者も含めれば1個連隊相当が無力化されたに等しい大損害である。
威力偵察のはずがなぜか発せられたことになっていた「夜襲攻撃命令」は、実のところ現地に連絡員として置かれていた大本営参謀の独断によるものであり、参謀の監督権を拡大解釈し実施されたことが今日明らかとなっている。
攻城砲軍団の創設に反対した大本営の一派が夜襲突撃の効果を過信し、かつ抜け駆けをすることによって全軍をなし崩し的に突撃へ引きずり込むことを狙って行わせた攻撃は一時的に第3軍集団を混乱状態に突き落としたものの、救援に第91師団を投入することで収拾された。
しかしながら、「南山の戦い」に続き再び高い犠牲を払って得られた近代要塞に正面から突撃することの無謀さを誰もが認識したことはこの後の展開に大いに寄与した。

とりわけ、自分の閥の一員であったバカが「愛する陸軍」に恥をかかせたことを知った山縣有朋元帥は憤激し、自ら白装束で例の大本営参謀を手打ちにして自決する寸前にまでいったとされる。
しかし、上司であった大村益次郎元帥の説得もあって彼はこれ以後極めて協力的となり、以後の陸軍統帥と現地の独断専行についての苛烈な信賞必罰を生んでいくことになるのである。

日本軍を撃退したと意気上がるロシア軍をしり目に、第3軍集団はさらに戦力を再編成。
件の連絡参謀が「事故」で後送される中で、攻撃日時を5月22日午前5時と定めた。
5月21日午後2時、前日の攻撃により日本側弱しとみたロシア軍の一部――要塞より出撃して来た4個騎兵連隊が日本側陣地に対し強襲を敢行するも、待ち構えていた日本軍第90師団前面の塹壕部隊は合計50門のマキシム水冷機関銃と大量の師団砲兵をもって迎撃。
これをわずか30分あまりで壊走させてしまう。
ロシアが誇る騎兵突撃を完全に阻止した日本側の塹壕線をみて、要塞側も観戦武官も、前日の日本軍の失態を嘲笑しなくなった。
これが、20世紀の戦争なのだと。

 

203 :ひゅうが:2013/11/16(土) 20:18:13

【砲戦開始と第一次総攻撃】

――5月22日午前5時、予定通り、「攻城砲兵軍団」と「野戦砲兵軍団」および、展開済みの3個軍の砲兵部隊は旅順要塞前面に向けて砲撃を開始した。
前々日の突発事態では味方を巻き込むために発砲できなかった鬱憤を晴らすかのように砲撃は苛烈を極めた。

「山が爆発している」

そう、観戦武官の一人は呟いたという。
投入された鉄量は異常の一言だった。
前日の突発事態で確認された堡塁配置と航空偵察の成果をあわせて目標を選び抜いた砲兵たちは、新兵器を投入していた。
弾着観測用の係留気球がそれである。
有線電話機を搭載した大型気球を用いて行われた弾着観測は正確さの向上に寄与。
8門ものもとは艦載であった30センチ列車砲はロシア側の強固なべトン陣地に向けて大量の徹甲榴弾を発射し、中小の堡塁に向けては24センチ・28センチ・30センチの各榴弾砲が1発1トン近い巨大砲弾を投下し続ける。
トーチカに向けては15センチ・27センチの加農(カノン)砲が徹甲弾を放ち続け、補修に入ろうとする要塞守備隊に向かっては多連装ロケット砲が炎を放つ。
弾頭の白燐弾や焼夷弾頭は効果的に兵員を殺傷していき、要塞側の被害を加速度的に増大させてゆくのである。

むろん、要塞側も負けてはいない。
逆に砲撃を加え日本側の砲兵陣地を排除しようと試みる。
だが、それは空からの観測で発射点を確認させることでもある。
これを受けて日本側は、塹壕線や構造物を60度以上の大仰角で頭上から破壊できる迫撃砲を投入。
効果的にこれらを破壊していった。
こうして無力化された堡塁により「死角」が生まれる。そこに向かってジグザグの塹壕が掘られ、そこを通って兵士は前進。
そして、放棄されそうな堡塁または破壊された堡塁に向かっては陸軍部隊の突撃が敢行されるのである。
さらには、もともとが要塞砲であることを活かし、空中からの弾着観測を用いた旅順要塞後方の弾薬庫や燃料庫、そして旅順艦隊に向けた直接攻撃が実施された。
ロシア側の虚を突いたこの攻撃で、被雷後修理の途上であった戦艦「ペトロパブロフツク」が転覆。
旅順艦隊用の黄金山燃料庫が炎上する。
さらには残る艦隊にも被害が続出し、旅順艦隊はあわてて出港することを余儀なくされた。
これにより海上では「黄海海戦」が勃発するのであるが、それはひとまず置いておこう。

最初の1週間で、堡塁前面の――第90師団の1000名以上を食った塹壕線はあえなく陥落。
次の1週間で攻城用塹壕線は堡塁の麓にまで到達。
地下坑道は旅順要塞地下深くへと侵攻しはじめていた。
この頃には、列車砲は砲弾を徹甲弾に変更。地下の弾薬庫や司令部に向けて容赦のない攻撃を行い、補給系統を寸断しはじめる。

6月5日、旅順要塞前面堡塁群は壊滅し守備隊は後方への総退却を実施。
このとき日本軍は退却する敵軍を無視して後方陣地への攻撃を続行。ついに、東鶏冠山・白玉山堡塁群の側面から射撃能力が失われた。
第3軍集団は、これを受けて第101軍(第1~第4師団 東京)による西部陣地群の前面に位置する大頂子山方面への攻勢を決断。
砲兵(軽砲=歩兵砲と多連装噴進砲「火中車」)の直協をつけたうえで一斉突撃を下命する。
これを支援すべく第9軍(第90~第94師団 金沢)が東部堡塁群側面への攻勢を開始した。
「第一次総攻撃」の発動である。
中でも囮として自ら進んで突撃を敢行した第90師団は恐るべき士気の高さで東部堡塁群側面に殺到し、いくつかの堡塁を「爆破」。
強引に持っていった歩兵砲による水平射撃で要塞守備隊のコンドラチェンコ中将に重傷を負わせロシア軍命令系統の深刻な被害を与えることに成功している。

こうして稼いだ時間をいかし、第101軍(東京)は西武陣地群を制圧し大頂子山を占拠。
勢いに乗って南山坡山堡塁を占拠するも、これは壮絶な師団規模の近接格闘戦の末2日後に撃退される。
しかしその間に日本軍は大頂子山方面に連絡塹壕をつなげることに成功。
要塞正面である東側堡塁群側面を容易に見渡せる位置に観測点と砲撃拠点を構築することができたのであった。
とりわけ、このとき運び込まれた36式山砲(註:史実の41式に相当)はこの時代としては異常な高性能砲で、「砲兵を用いた狙撃」という異常な戦術を実現。
さらにはライセンス生産が行われ大量配備がはじまっていたマキシム水冷機関銃はロシア側の奪回攻撃を再三にわたって撃退。
結果として旅順要塞はその懐深くに痛すぎるくさびを打ち込まれたのである。

 

204 :ひゅうが:2013/11/16(土) 20:18:47
【第2次総攻撃】

北方では得利寺会戦に勝利した陸軍第1・第2軍集団が遼陽へ進撃しつつあった6月17日、日本側の砲撃はさらに凶悪さを増していた。
大頂子山の観測点が稼働し始めたことによって三角測定が可能となり、より正確な射撃が可能となっていたのである。
30センチ列車砲による要塞中枢、煙台高地への射撃は苛烈を極め、前日の6月16日には要塞守備隊の士官が地下司令部への徹甲弾直撃でまとめて13名も吹き飛ばされるなど要塞守備隊にとっての悲劇が積み重なっていた。
大頂子山奪回を図り西部方面からの出撃は繰り返されていたものの、そのたびに強力な機関銃射撃によって阻止され、うまく取りついても日本側との近接肉弾戦は必ずと言っていいほど日本側の勝利に終わる。
さらには、日本側は黄海海戦において旅順艦隊が壊滅したことや要塞救援におもむいたシベリア軍団が得利寺で撃退されたことも積極的に宣伝していた。
これは各国の観戦武官からも報告されており要塞守備隊の士気低下を誘っていた。

要塞守備隊指揮官であるコンドラチェンコ中将は未だ重傷であり、意識不明である。
慕われていた彼の戦線離脱もまた悪材料であった。
この頃になると、ロシア側の兵士たちの間に「戦争神経症(シェル・ショック)」といわれる症状が出始める。
日本側の前線においても発生しつつあったこの症状は観戦武官の目にはとまらなかったものの、日本側は迅速な後方搬送をもって対応している。
攻城側である日本側は比較的兵力に余裕があったために士気の維持に気を配っていたのである。

この日、要塞側からの一時休戦の申し出が受諾され遺体収容が図られる。
しかし、恐るべき鉄と血の応酬は、砲煙の晴れた戦場に恐るべき地獄を現出させた。

「戦争から、英雄が消え去った。」

この日撮影された写真を見た英国のウィンストン・チャーチル卿の言葉である。

この地獄のような光景は、旅順要塞守備隊に深刻な士気の低下を誘った。
正面の東鶏冠山堡塁は休戦期間終了後に一部が敵前逃亡を行うなど混乱。無防備に身をさらした1個中隊がロケット弾の斉射で丸ごと吹き飛ぶなど戦線は混乱を極める。

これを受け士気低下による好機と判断した第3軍集団の参謀たちは要塞正面への速攻を主張。
しかし、乃木大将はこれを否定し、東部堡塁群への砲撃を強化し、逆に西部方面陣地群への総攻撃を選択した。
士気の深刻な低下に見舞われているのは要塞全体であり、ここは出撃拠点が確保されている西部方面へ攻勢をかけることで西部の最高点通称「203高地」を攻略するチャンスであるというのである。

「現在までの攻防戦で、日露ともに1万近くの死者を出している。
今ここで西部方面を攻略してしまえば、要塞正面の士気の低下はもはや止めようがないだろう。
ここは危険を冒しても、203高地を奪取すべきである。」

この方針のもと、攻城砲軍団は射撃目標を変更。
野戦砲兵軍団は総力を挙げて西部方面へ砲弾を送り込んだ。
そして、第1軍(東京)第9軍(金沢)に加え、日本最強の呼び声も高い第7軍(札幌)がついに投入され戦闘に参入する。
合計20万にも達する大攻勢、「第2次総攻撃」の開始である。
機会をとられたこの攻勢は、2日間にもおよぶ戦闘の末に203高地を奪取。
奪還部隊をすべて撃退することによって終了した。
日本側はこれによりさらに被害が5000名増加。
しかし、これにより旅順要塞を二つの方向から挟み撃ちにすることが可能となった。
さらには一連の砲撃で東部堡塁群の側面が攻撃能力をついに完全に喪失。
東西の両堡塁群の間にある旅順市街地への進撃路は開かれたのである。

皮肉なことに、6月19日、コンドラチェンコ中将は意識を取り戻した。
しかし、要塞司令官ステッセル大将をはじめ守備隊各員は鬱状態に陥っており、さらには外の状態も旅順市街地への進撃路も確保されている。
後方からの指令は、「抗戦継続」。
旅順要塞から、戦う気力は急速に失われようとしていた…

205 :ひゅうが:2013/11/16(土) 20:20:31

【第3次総攻撃、そして】


6月30日、再度戦力を再編成した第3軍集団は、予備隊を投入し旅順市街地を攻略させる一方全軍をもって要塞を攻略するべく第3次総攻撃を開始する。
この時点ですでに第3軍集団はあまりの弾薬使用量から備蓄が底を尽きかけており、これに失敗すればさらに1か月ほど攻勢は手控えなければならない状態にあった。
戦闘は、初手から日本側が行った地下坑道を用いた19か所もの陣地爆破に始まり、各所で前線を突破。要塞の懐へ進撃が図られた。同日、虎頭山陥落。
翌日、7月1日、東鶏冠山堡塁正面を30センチ列車砲の徹甲榴弾が貫通した。
これは珍しくはないのだが、この一撃は偶然にも弾薬庫を直撃し、要塞が爆発したかのような大爆発を発生させた。

「何が起こったのだ?弾薬庫はどうした?」

「閣下。我々は戦い難くなり果てました。」

コンドラチェンコ中将とのこのやりとりで、ステッセル大将は抗戦中断と降伏を決断。
勢いに乗り要塞中枢の望台(煙台)高地を制圧した第90師団前衛部隊に対し軍使をだし、降伏の意向を伝えた。
即座に、第90師団は電話回線を通じてこれを報告。
その日のうちに戦闘は停止された。

翌日、7月2日。
水師営においてステッセル・乃木両将は会見。
互いの武勇を称えあい、ステッセルは負傷し後方搬送された乃木の2名の息子に見舞いを述べ、乃木はコンドラチェンコ中将への見舞いを述べた。
また、ロシア側の名誉のため帯剣を許したことでロシア側士官が緊張の糸が切れたのか落涙するという一幕もあったという。

かくて、旅順要塞は降伏した。
ロシア軍の残存兵員は約4万3500名。
陸上部隊のうち3万名ほどが戦死あるいは行方不明・戦闘不能となっていた。
また、彼らはビタミン不足による脚気にも苦しんでいたという。
日本側の犠牲者は、戦死9025名 戦勝2万1256名。

この被害はのちの第一次世界大戦に比べればまだ軽い。
観戦武官からの恐るべき報告は「極東ゆえの特殊事情」と解釈され、砲の増強と機関銃の大量配備により迎撃可能という結論を列強は導き出してしまったのだ。
多少は警戒を行っていた英国はまだしも、第一次世界大戦において独仏両軍は「せいぜいが1万ほどで済む」と軽く考えて要塞正面や塹壕線へ突撃を繰り返した。
結果、西部戦線において両軍は合計900万名という大量の死屍を積み重ねることになるのである。

 

近代戦争史上初の要塞攻略戦は双方ともに多大な犠牲を出して終結した。
守備隊として後備役部隊を旅順守備軍となして残置した第3軍集団は北上、8月には満州平原での機動戦を開始することになる。

 


【あとがき】――というわけで、「第3軍集団かく戦えり」ネタです。
要塞攻略作戦においてこれくらいの犠牲者というのは、各国を大いに誤解させたのでしょうね(汗
運動戦論者とかには特に。
楽しんでいただければ幸いです。

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最終更新:2014年01月11日 17:26