375 :ひゅうが:2013/11/17(日) 11:30:06
>>201-206の続きです


ネタ――大陸日本の日露戦争 その5

7、 黄海海戦


ここで少し時系列を戻そう。そもそもロシア海軍は、旅順軍港を太平洋艦隊の母港として使用し、列強諸国による渤海湾への侵入や黄海の制海権奪取を警戒していた。
そのため「旅順が主でウラジオストクが従」という運用構想を考えておりこれを補助する軍港を朝鮮半島に設けて日本を完全に大陸から切り離すことをその目標としていた。
1904年初頭においては、朝鮮半島への進駐作戦「カザン」に対応すべく朝鮮半島の東西に二つの艦隊を分散配置していたのである。

よくそれが間違いであったといわれることがあるが、それでも運用上に支障があったとは言い難い。
ウラジオストクに展開していたのは、日本海軍による北方への侵攻を阻止し通商破壊戦で物流をマヒさせることを目的とした合計12隻もの巡洋艦・装甲巡洋艦部隊である。
対して旅順に駐留していたのは戦艦8、巡洋艦・装甲巡洋艦7を有する強力な主力艦隊である。
黄海や東シナ海で接近阻止を行うにはこれで十分であるし、海路で沿海州への上陸を図る日本陸軍の阻止を図るにもこれで十分なのである。
そして、対日開戦時にはロシア海軍は平時にバルト海などから主力艦隊を移動させ一気に太平洋へと出るつもりであった。

つまりは、自国から戦争をしかけることしか考えていないというロシア側の想定の欠陥こそがロシア海軍の悲劇の発端であったといえよう。

――開戦後、ロシア海軍は負け通しであった。
初動として通商破壊を図ったウラジオ艦隊は津軽海峡海戦において巡洋艦9隻を無力化されてほぼ壊滅。
仁川沖海戦では装甲巡洋艦1、巡洋艦2を撃沈され旅順艦隊の貴重な補助戦力を半減させていた。
加えて、開戦初頭の旅順口奇襲により戦艦3を無力化されているため、日本海軍が誇る12隻の主力戦艦群に比べて圧倒的に劣勢な状況となっていた。
これにより、日本海と黄海の制海権は日本側に奪取され、とどめとばかりに大型モニター艦(海防艦)による大仰角遠距離艦砲射撃を受けて旅順軍港の補給基地や、旅順要塞の食糧庫を狙い打たれている。
こうした状況は、旅順要塞守備隊に深刻な脚気などのビタミン欠乏症を蔓延させ、かつ旅順艦隊の行動力を日に日に奪っていった。

こうした状況は旅順要塞守備隊と太平洋艦隊の感情的対立を生み、撃沈された海軍艦艇の乗組員や海軍基地の工員たちが士官の独断で守備隊にとられ、艦隊側が厳重抗議を申し入れることもあったという。

さらには陸上から艦砲そのものである35式30センチ列車砲による砲撃を加えられ、修理途中であった戦艦「レトヴィザン」が後部上甲板大破。
旅順第1次総攻撃に伴い、さしものアレクセーエフ総督も残存するロシア太平洋艦隊の脱出を承認。
ここに、ロシア太平洋艦隊は夜陰に紛れた大脱出を開始するのである。

6月4日未明。
旅順口封鎖艦隊(第2艦隊)は、旅順水道において日本側が敷設していた機雷原に掃海艇が展開していることを確認。
後方配備の第4艦隊と交代で仁川沖合に至っていた第1艦隊(封鎖に従事する第2艦隊と交代予定)は、緊急出港を開始。
同時に、封鎖艦隊も迎撃準備を開始した。
日本本土へ向かっていた第4艦隊も帰投を中止し黄海において索敵行動を開始し、佐世保で待機状態にあった第3艦隊は万が一とり逃した場合を考慮し対馬海峡沖から仁川沖へ急行した。

6月5日午前4時、旅順艦隊は戦艦「レトヴィザン」を先頭として旅順艦隊を出港。
機雷原を強行突破し、東シナ海を最短ルートで一路ウラジオストクへと向かった。
太平洋艦隊側が懸念していた旅順湾口機雷原での日本側による迎撃戦と「旅順閉塞作戦」は発生せず、司令官オスタル・スタルク中将はまずは胸をなでおろしたという。
だが、監視についていた日本海軍の高速通報艦「浦賀」は旅順艦隊出撃の情報をすでに連合艦隊へ通報していた。
連合艦隊は妨害がなければ修理・再就役が可能な旅順ではなく、海上での旅順艦隊撃滅を企図していたのだ。


376 :ひゅうが:2013/11/17(日) 11:31:06
6月5日午前8時、日が昇ると同時に、旅順艦隊は日本海軍の特設哨戒船に接敵を受ける。
高速で振り切ろうとする旅順艦隊だったが、日本側が張り巡らせていた監視網から逃れられるわけもなく、無線電信により逐一連合艦隊旗艦「三笠」(敷島型戦艦6番艦)に報告が入れられていた。
この頃の海軍にあって無線電信機を備えているのはほとんどが旗艦クラスで、しかも性能が安定しないものばかりであった。
しかし日本側はこの3年前に安定的に動作する35式無線電信機を実用化。
島津製作所製の高性能蓄電池も同時に実用化されていたためにこの時点で通報艦や連合艦隊の戦艦・巡洋艦、そして駆逐隊旗艦クラスにはもれなく無線電信機が配備されていたのであった。

6月5日午前10時、連合艦隊第1・第2艦隊は海上において第3・第4艦隊と朝鮮半島仁川はるか沖合の所定の海域で合流。
15ノットの優速で旅順艦隊のゆく先へ先回りする。

――午後1時12分、水平線上に黒煙確認。
連合艦隊(戦艦12 装甲巡洋艦10)は速度を上げて旅順艦隊に襲い掛かった。
午後2時2分、日露双方は距離1万で砲戦を開始。
高速を活かした装甲巡洋艦部隊(第1艦隊第3第4戦隊および第2艦隊第3第4戦隊)が旅順艦隊の右舷側に回り込み、一斉回頭し隊列突入態勢を作ると、旅順艦隊はこれを避けようと左へ転舵。
結果的に左側に位置していた戦艦部隊主力と接近しはじめた。
旅順艦隊は戦艦部隊の後方にあった日本の国産戦艦部隊に砲撃を集中した(性能に深刻な問題があるという情報を過信した)ものの、決定的な破局は発生せずただ戦艦「敷島」大破炎上という状態が発生したのみであった。
その間に装甲巡洋艦部隊は日清戦争のときのように高速で旅順艦隊左舷側を横切り、旅順艦隊との間に「逆レの字」を完成させた。

午後2時31分、旅順艦隊旗艦「ポルタヴァ」は副砲弾薬庫に遠距離から飛び込んできた日本側主砲弾が直撃。
大爆発を起こし操舵能力を喪失した。
これにより隊列が崩壊し、旅順艦隊は四散。
ここぞとばかりに日本側が投入した大型水雷艇部隊により各個に撃破されていった。

結果――旅順艦隊は出撃した戦艦7のうち6隻が沈没あるいは大破後自沈。
装甲巡洋艦3隻はいずれも沈没。
防護巡洋艦「ポルト・アーサー」は降伏するという結末を迎えた。
極東に威容を誇ったロシア太平洋艦隊はここに壊滅したのである。


そしてこのことは、日本海軍が大陸周辺で絶対的な制海権を掌握したことを意味していた――


377 :ひゅうが:2013/11/17(日) 11:32:08

8、 南満州の戦い(得利寺会戦 沙河会戦)


   【得利寺会戦】

ここでまた少し時系列は時を遡る。
旅順で激闘が行われる少し前、日本陸軍第2軍集団もまた激闘をくりひろげていた。
遼東半島基部に上陸した第2軍集団は第3軍集団の上陸を待って北上を開始。
鴨緑江方面から合流を図る第1軍集団に向けて南満州鉄道の線路沿いに北へ向かった。
これに対し、ロシア極東軍は合流の阻止を図り、シベリア第1・第3・第27軍団(総数15万余)を攻勢に投入した。
あわゆくば後方から旅順の救援を目論んだのである。
中には、勇猛で知られるロシアのコサック師団も含まれており勝利は容易のはずだった。

一方の第2軍集団も、後方の第3軍集団を守るべく積極的に戦闘に応じる。
こうして両軍は遼東半島基部から少し内陸に入った部分にある得利寺で激突する。
「得利寺会戦」あるいは「得利寺の戦い」の発生である。
5月25日、旅順要塞に尋常でない量の鉄量が降り注ぎつつあったころ、第2軍集団は得利寺近郊に布陣したロシア軍を捕捉。
鶴翼陣を形成していたロシア軍を確認した日本側(奥大将)は即座に方陣と野戦陣地の構築を命じた。
日本側には、この日のために量産されていたある切り札があった。

マキシム水冷機関銃。
大枚をはたいて製造権を購入したこの機関銃は、ロシア側にとって死の化身となった。
5月26日。
ロシア側は攻勢を発起。
重砲の砲撃と勇猛なコサック師団2個による一斉突撃で戦闘は開始される。
対する日本側は、鴨緑江で威力を発揮した多連装噴進砲の一斉射撃でこれに応じ、さらには野戦陣地に据え付けた機関銃でこれを迎撃する。
第一次世界大戦で各所でみられることになる悲劇がそこには現出した。
2個コサック師団がわずか1回の突撃で文字通り「消滅」したのである。

ロシア側は唖然とした。
勝利を約束されたはずのコサックが、こともあろうに日本側の歩兵どもに敗北した!?
その精神的衝撃は大きく、日本側がコサック師団後方の砲兵部隊に集中砲撃をかけるにおよび動揺というべきものになっていった。
この戦いで、日本側はさらに二つ目の新兵器を投入する。
馬匹や人力に引かれた「改良型ガトリング砲」や「ホチキス機関銃」である。
歩兵突撃に随伴する形で現場へ持ち込まれたこれら機関銃は、ロシア側の戦列に穴を穿ち、日本側の突撃効果を極限にまで押し上げた。

ロシア側としてはたまったものではない。
彼らは砲撃が止んでから突撃してくるのではなく、砲撃の中を機関銃で戦列をなぎ倒しながら突っ込んでくるのである。

ロシア側は鶴翼の中央を食い破られた。
左右両翼は日本側戦線を突破しようとするのであるが、野戦築城された塹壕と機関銃、そしてロシアのお株を奪うような強力な砲兵射撃と方陣で彼らを迎撃してきた。
気が付いてみれば、逆にロシア側は半包囲状態におかれていたのであった。
得利寺会戦は、日本陸軍第2軍集団の圧勝で終結した。完全な包囲殲滅とはいかなかったもののそれは、後方の旅順要塞が孤立したことを意味していた。


378 :ひゅうが:2013/11/17(日) 11:34:50
  【沙河会戦】


6月10日、日本陸軍第1軍集団と第2軍集団は遼陽前面で合流。
沙河を渡河し、南満州鉄道の要衝である遼陽を攻略せんと戦力の再編を開始した。
一方のロシア側は日本陸軍侮りがたしと判断し、遼陽から予備戦力であったシベリア第5・第6軍団を投入。
同時に、奉天駐留の満州第1~第4軍を前進させた。
しめて55万名。
本国から遠く離れたこの極東でそれだけの兵力を運用できることはさすが大陸軍国といったところであろう。

6月12日、第2軍集団が行った騎兵偵察によってこの動きを感知した満州総軍司令部は速攻による沙河渡河と遼陽攻略を下命。
これを受けて第1・第2軍集団は一斉に沙河を渡河した。
阻止を図るのは、先の得利寺会戦に参加したシベリア第1・第3・第27軍団に加え第5・第6軍団合計23万名。
左翼に第2軍集団、右翼に第1軍集団が位置する日本陸軍は、第1軍集団の砲兵による支援砲撃を行いつつ時計まわりにロシア側戦列を押し込んでゆく作戦をとる。
渡河中に少なからぬ犠牲を伴ったものの、秋山好古中将率いる日本騎兵軍団は期待通りの働きを果たした。
戦線はるか後方まで進出し、遼陽後方の鉄道路線を破壊する動きをとったのである。
ロシア側はこの欺瞞に引っかかり、貴重な騎兵部隊を遊兵化させてしまった。
この間に第2軍集団は半ば平押しのように包囲網を閉じてゆき、第1軍集団と包囲網を完成させた。
左右から十字砲火によって叩き込まれる大量の火力と、絶え間ない突撃はロシア兵の士気を崩壊させた。
沙河会戦はまたしても日本軍の圧勝で終結した。

絶え間ない速攻と機動によって日本側も息切れし始めていたが、勝利を呼び込んだのもロシア側の虚をつく機動であったことは確かである。
そして、ロシア軍が退去した後方にはようやく満州軍団が到達しはじめたばかりの鉄道の要衝にして、南満州の一大拠点、遼陽があった。


379 :ひゅうが:2013/11/17(日) 11:37:42
【あとがき】――というわけで投下いたしました。
この大陸世界では日本側の兵力増強に応じてロシア側も可能な限り戦力を増強しております。
たとえばレトヴィザン級戦艦は史実1隻のところ5隻に増加しております。
しかも焦っておりますし、トルコを完全無視して黒海から艦隊を出すかもしれません。
やってくるバルチック艦隊も戦艦15隻以上となるやもしれませんねw
満州配備のロシア軍も開戦時には50万を超えていました。

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最終更新:2014年01月11日 17:25