399 :ひゅうが:2013/11/17(日) 14:08:30
 >>375-379の続きです

ネタ――大陸日本の日露戦争 その6


9、 危機(遼陽会戦・黒溝台会戦)


【遼陽会戦】

遼陽は、古くは漢の時代の遼東郡の郡都であり、燕とよばれた公孫氏の本拠であった。
遼(契丹)の時代には副首都(陪都)となり、「東京遼陽府」と命名されている。
この地は、何と言っても南満州鉄道が通る交通の要衝であり、また近郊の鞍山鉱山は極東随一ともいわれる大鉄鉱が存在している。
また、この地を発しウスリー河沿いに東進すれば、ロシア極東の沿海州ウラジオストクへ至る。
そのため、日本陸軍はこの地を攻略し予備隊を東進させてウラジオストクに圧力をかける一方で奉天(瀋陽)、そして哈爾浜を攻略しロシア極東の拠点を一気に制圧するという作戦構想を抱いていた。

対するロシア側もこの意図には気付いており、周辺にシベリア軍団を配して防備にあたっていた。
だが、日本軍はその先をいった。
遼陽の前方にある太子河に遼東半島から急ぎ現地に到着した特別工鉄兵団を用いて橋梁を敷設。遼陽市街地を無視するという危険な賭けを行ってまで後方20キロほどにある沙河前面に集結中のロシア軍に向けて攻勢をかけた。
これが「沙河会戦」の所以である。
このとき、遼陽市内で急ぎ再編成中であったシベリア第5軍団は遊兵化してしまい戦闘に参加できていない。

この沙河会戦後に撤退を開始したロシア軍主力に対し、シベリア第5軍団のは連絡の不備から退却命令を受け取ることができずに遼陽市街地周辺にとどまったままであった。
このため、沙河会戦後すぐである6月16日、日本軍とシベリア第5軍団の間で遼陽争奪戦が発生する。
遼陽会戦である。
この戦いは半包囲された状態のシベリア第5軍団が物資の備蓄未完了のままで後方の味方の支援を期待して攻勢をかけ、それを日本軍が半ば一方的に攻撃するという展開となった。
結果、シベリア第5軍団は、この時点までに終結を完了していた4万8000名のうち2万名あまりが戦死、残りが捕虜となり消滅するという日露戦争始まって以来の大被害をロシア側に強要することになる。

この結果は、極東のロシア陸軍を率いていたアレクセーエフ総督の責任問題に発展。
6月30日にアレクセーエフ総督は軍事指揮権を剥奪されることが決定した。
そして、シベリア鉄道経由で新たな極東軍総司令官となるアレクセイ・クロパトキン大将が着任したまさにその日となる7月2日、全世界に衝撃が走る。

「旅順要塞陥落。要塞守備隊壊滅。」

ここに、奉天以南の南満州は、日本陸海軍による制圧下に置かれたのであった。
だが、日本陸軍といえどもこの勝利に驕ることはできなかった。
クロパトキン大将は急速にもてる戦力を再編成し、日露戦争における日本陸軍最大の危機のひとつを演出してのけたのだ。
「黒溝台会戦」である。


400 :ひゅうが:2013/11/17(日) 14:09:03

【黒溝台会戦】

7月15日、日本陸軍は第1・第2軍集団をもって沙河前面に防衛線を構築。
旅順を攻略した第3軍集団の到着を待って奉天へ総攻撃をかけようとしていた。
これに対し、クロパトキン大将はパーヴェル・ミシチェンコ中将率いる騎兵部隊に対し日本軍後方兵站基地の焼き討ちと威力偵察を命じて密かに沙河を渡らせた。
日本側の満州総軍司令部は沙河会戦と遼陽会戦に圧勝したことで楽観的な空気が漂っており、かつ火力戦が想像以上に備蓄物資を消費していたために再編成の最中であった。
しかし、7月17日、日本側の営口兵站基地が1個騎兵軍団によって焼き討ちされ、一時的に日本側は補給を絶たれる。
さらには、7月18日、第2軍集団左翼よりシベリア第1軍団が第2軍集団後方の黒溝台を急襲しこれを占拠した。
日本側はこのとき第1軍集団より予備兵をウスリー河方面へ出していたうえに、これまでの連戦で疲労が蓄積しており即応できる兵力が不足。
結果、日本軍左翼は半包囲状態に陥ってしまう。

この包囲成功を受けてクロパトキン大将は全面攻勢を下命。
未だに38万を数えるロシア軍が攻勢を開始した。
第2軍集団は、包囲を内側から食い破ろうと奮闘するも火力が不足しはじめ各所で突破を許した。
満州軍総司令部に半ば強引に行動許可をとった第2軍集団は、旗下にあった秋山好古中将率いる騎兵軍とともに野戦火力支援部隊と歩兵3個師団(第81・第82・第63師団)を抽出し「臨時秋山軍」を設置して機動防御を展開した。
このとき、騎兵軍団にも関わらず秋山は騎兵による突撃を徹底して避け、塹壕に大量の機関銃を設置して敵の突撃を撃退するという方法をとった。
この結果として臨時秋山軍は5日間の持久に成功する。

しかし、勢いに乗るロシア軍は第1軍集団・第2軍集団間の結節部に目標を変更し攻勢を開始。
7月21日、最悪の状況の中で第1・第2軍集団の野戦砲兵の備蓄砲弾はついに尽きた。
このままでは第2軍集団への包囲が完成し、日本軍は25万の兵力を永遠に失うことになってしまう。


401 :ひゅうが:2013/11/17(日) 14:09:51

絶体絶命の危機の中、同日昼過ぎ、日本軍左翼を押し込みつつあるシベリア第27軍団先鋒の後方に軍勢が出現した。
当初は味方かと思い意気上がるロシア軍だったが、それも、「尋常ではない数のロケット弾が飛来する」までだった。

――第3軍集団、戦場に到着。


旅順要塞を発した乃木第3軍集団は、大連湾に備蓄した物資を満載して鉄道軌道を用いて進撃。
7月20日には遼陽に到着し、旗下部隊を用いて第2軍集団の救援に急行したのだ。
日本側の士気は天を突き、第3軍集団は第2軍集団との連絡線を確保し傷病兵と交代。
同時に、大量の馬匹を用いて補給をいきわたらせてその足で第1軍集団との結節部へ向けて前進したのである。
しかも、遼陽まで強引に持ち込んだ攻城砲兵軍団による支援砲撃に列車砲まで投入して。
7月22日未明、第1・第2軍集団間で補給線が確保。
弾薬を十分にいきわたらせた日本陸軍は、総勢75万の大軍をもってロシア側を逆包囲せんと猛進した。
このとき日本側の死者は1万3000名を超えていたのだが、それでも構わぬとばかりに日本陸軍は進撃を継続。
中でも、第21・第22師団は夜間にも関わらず20キロを野戦機動してロシア側満州軍第1軍後方を奇襲攻撃。
史上初の軍団規模夜襲攻撃によりロシア満州第1軍は壊乱。
これに伴い、ロシア側は攻勢を中止し撤退に移った。

彼らは、所定の計画に従い、奉天前面に構築されていた野戦陣地へと撤収したのである。
ロシア側の損害は死者2万5000名捕虜2万名。一方の日本側の犠牲も死者2万名戦傷者1万5000名を数えた。

この黒溝台会戦の結果、日本側は辛くも戦線崩壊を阻止し、以後安定的に弾薬補給を受けられるように遼陽に大規模な兵站基地を建設する。
ここがのちにウラジオストク攻略作戦の後方出撃拠点となることからも、黒溝台会戦は戦局のひとつの転換点となったといえよう。
一方のロシア側は、新任のクロパトキン大将が日本軍を痛打したことで彼の「満州シベリア奥深くにまで日本軍を引き込んで疲弊させる」という構想がロシア首脳に一定の了解を得た。
しかし、あと一歩で日本側に逆転を許したことに不満を持つ強硬派兼決戦派(旧アレクセーエフ派)の陸軍将帥も多く、彼の作戦指導にのちに大きな制約となっていくことになる。


402 :ひゅうが:2013/11/17(日) 14:13:20

【あとがき】――書き込みなかったみたいなので追加を投下しました。
今回は、黒溝台会戦を史実以上の危機にしてみました。
火力戦が主体な大陸日本陸軍ですので、当然補給は重要。ですから営口補給基地は史実以上に大規模化しています。
史実では偶然からあまり効果がなかったロシア側の攻撃ですが、今回は被害甚大です。
これを受けて乃木さんたちが大急ぎでかけつけることになりロシア側も被害が拡大するのですがw

満州総軍司令部は史実同様に思い切り敵を見誤り大被害を出してしまうのですが、それが今後の奉天、そして哈爾浜戦に生きることになるでしょう。

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最終更新:2014年01月11日 17:25