435 :ひゅうが:2013/11/17(日) 16:30:06

>>399-402の続きです。

ネタ――大陸世界の日露戦争 その7


10、南満州制圧(奉天会戦)

8月に入り、日露両軍は互いに戦力の再編にいそしんでいた。
日本軍は、占領した南満州鉄道(東清鉄道)の遼陽までの軌道を突貫工事で複々線化。
同時に、日本本土で編成された第4軍集団と予備戦力の第5軍集団をその旗下に加えた。
旅順要塞攻防戦と黒溝台会戦で大きな被害を受けた第1・第2軍にも予備役部隊(梅沢予備軍団)が増援として投入され、満州総軍の隷下におかれた部隊の戦力はしめて150万名を超えた。
これは、日本史上最大の大動員である。
(豊臣秀吉の小田原征伐が100万名といわれ、関ヶ原の合戦は95~110万名である)

一方のロシア側は、開通したばかりのシベリア鉄道を通じてドン・コサック軍団やフィンランド駐留軍団などを増援として派遣。
さらには訓練航海の名目で黒海艦隊から戦艦8隻を抽出しバルト海へ送るなどの列強らしい国際法無視をやってまでバルト海艦隊の戦力を増強しはじめた。
考えられることはただ一つ。ウラジオストクへの艦隊派遣である。

これに対し、日本側はウラジオストクの早期攻略か、それとも敵野戦軍撃滅かで大本営の意見が割れたが、攻勢目標をロシア側の極東経営の一大拠点であるハバロフスクとして、その攻略をもってウラジオストクを無力化することを決定。
そのために、奉天(瀋陽)ならびに哈爾浜を攻略しアムール川沿いに進出することが満州総軍へ命じられた。
計画では最大進出予定線は、海拉爾(ハイラル)・黒河線(北緯50度付近)。
シベリア鉄道の要衝ブエゴエスチェンスクをその北限とし、最終的にハバロフスクとウラジオストクの攻略を行うことを目指していた。
日本陸軍は根こそぎ動員を行えばさらなる兵力増加は可能であったが、これ以上は国力が持たないと判断したのであった。


8月20日、再編成を終えた日本満州総軍は、遼陽前面から南満州の中心都市 奉天へ向かって進軍を開始。
これに対し、クロパトキン大将は兵力集結がまだなっていないと判断しつつも、ロシア政府の主導権を実質的に握りつつあったプレーヴェ蔵相の要請を受けて哈爾浜前面での迎撃戦を選択した。
もともと奉天付近での迎撃を予定していたために塹壕陣地は構築済みである。
しかし、日本側がロシアの予想を超える動員(ロシア側は満州平野に200万が動員されていると判断していた)を行っていたことや難攻不落の旅順要塞を短期間で攻略していたことを不安視していた。
そのかわり、大動員は認められており奉天での迎撃戦後には100万ほどの大軍が、複線化されたシベリア鉄道を通じて送られてくることになっていた。

8月23日、日本軍は左翼から第3軍集団・第2軍集団・第1軍集団・第4軍集団という編成で奉天前面に到着。
後方に展開した第5軍集団と攻城砲兵軍団・野戦砲兵軍団とあわせて奉天攻略の準備を整える。
同じくロシア側も日本の第3軍側から、再編成され統合されあらたな番号がふられた満州第1軍・第2軍・第3軍・第4軍・第5軍・第6軍という形で横陣を展開。
後方には予備隊として満州第7軍・第8軍・第9軍およびザバイカル・コサック軍団が展開していた。
しめて総数75万。ロシアお得意の騎兵強襲陣形である。
日本側の正面戦力が80万ほど(第4軍集団は包囲時に投入する予備として右翼外部に位置していた)であることを考えると、兵数は互角といってよかった。
同日昼、ロシア側陣地上空に、見慣れぬ飛行機械たちが飛来した。
旅順要塞攻防戦で威力を発揮した航空偵察部隊である。
今回はこれに加え、長期滞空可能な動力付き気球――つまりは飛行船も含まれている。
飛行船1隻が不時着し、飛行機自体も射撃による損傷を受けたもののこの航空偵察はロシア側の陣地配置と後方兵站基地の位置までをつぶさに把握する助けとなった。


437 :ひゅうが:2013/11/17(日) 16:30:44

8月24日黎明、日本側による事前砲撃が開始された。
と同時にロシア満州軍は混乱する。
あの怪物列車砲と思われる巨大な砲声が轟いているのに、自軍に被害が生じないのである。
それもそのはず。
日本軍は、まず奉天後方の物資集積所や弾薬庫を狙って砲撃を行っていたのである。
射程距離2万を数える列車砲ならではの技だった。

これだけではない。
旅順要塞に投入された火力は、陣地ごとロシア軍を圧殺せんと彼らに襲い掛かり、数を増やした迫撃砲などが陣地の上から塹壕を叩き潰していった。
3時間あまりと短い時間であるものの一方的な蹂躙の最後、日本側は最後にあの多連装噴進砲(火中車)を全力斉射。
陣地が燃え上がったかのような火柱と土柱が立ち上る中、鬨の声が響く。
前進が開始されたのだ。
一方のロシア側も負けてはいない。前面の塹壕線が役立たずになったことを知ると、クロパトキン大将は第2列以降の軍主力に前進を命じる。
先の黒溝台会戦で恐るべき戦闘力を発揮した第3軍集団が配備されていた日本軍左翼部に向かっては3個軍という分厚い布陣が敷かれ、第3軍集団は苦戦を余儀なくされる。
とりわけ第3軍集団と第2軍集団の間隙には攻撃が集中するかに思われた。
しかし、そこに配された予備役兵軍団を率いていた梅沢中将は落ち着いた指揮で攻撃をいなし、さらには奉天前面の放棄されたロシア第1塹壕線や遺棄車両をいかして迎撃を展開。
たくみに後退しつつ、気が付いたときには梅沢軍団が囲んだ「突出部」を野戦砲兵が十字砲火で殲滅できる態勢を整えていた。

満州総軍司令部はこの予想以上の活躍に助けられ、逆に突出部に列車砲の砲撃とともに第2軍集団の主力となる秋山騎兵軍団を投入。
第3軍集団正面で「ダマ」になっていたロシア側主力後方への打通ルートを切り開き、敵陣を二つに割った。
二つの包囲網を構築しようというのである。
これに気付いたクロパトキン大将は後退を図るものの、後方に降り注ぐ遠距離重火力によって思うようにいかず、さらには日本側が温存していた第4軍集団を奉天市とロシア軍主力の間に乱入させるに及んで抗戦を断念。
奉天後方の鉄嶺に後退を命じた。
大包囲が完成される前であったロシア軍左翼、すなわち第5・第6軍は脱出に成功したものの、それに巻き込まれた予備隊の第7・第8軍は日本軍の包囲下に孤立。(第9軍は脱出に成功)
包囲網が完成していた第2・第3軍・第4軍とともにちょうど「8」の字を横倒しにしたような包囲状態が完成する。


438 :ひゅうが:2013/11/17(日) 16:31:19

日本側は容赦なく砲撃を続け、結果35万あまりが無力化されてしまった。
戦死こそ包囲された中での死者は10万ほどにとどまったものの、残る25万名は負傷あるいは捕虜となり、ロシア軍の編成表から消滅した。
さらに、撤退途中であったザバイカル・コサック軍団は秋山騎兵軍団の追撃を受け、巧みに機銃陣地に誘い込まれて痛打を浴びせられ、1万あまりの死傷者をだし壊滅。
これを、鉄嶺方面にも日本軍別働隊(第5軍集団)が迫っている証拠と誤認したクロパトキン大将は鉄嶺から哈爾浜(ハルビン)へ後退。
翌日には総退却に伴い無人となった奉天は日本軍の手に落ちた。

8月30日までには四平が簡単な戦闘ののちに陥落し、9月3日には満州中央部の小都市長春が第63師団先遣隊によって制圧。南満州はこうして日本軍の占領下に置かれたのである。

予備隊として投入された第4軍集団は、そのまま奉天より東進しウスリー河方面に進出。
吉林・敦化線にまで戦線を押し上げ、ウラジオストクに圧力をかけた。
これによりロシア軍は、牡丹江市を通じてウラジオ方面へ攻勢がなされるのか、それとも直接哈爾浜へ進出してくるのか判断に悩むことになる。

この戦いの結果ウラジオストクが危機にさらされていることを知ったロシア政府は、ウラジオストク救援と日本陸軍の後方兵站遮断のために新たに第2・第3太平洋艦隊を編成し東洋へ派遣することを決定。
すでに集めていた黒海艦隊主力に加えもてる艦隊戦力を糾合し、巨大な戦力の編成に取り掛かった。
日本中を恐怖に陥れるその艦隊を日本の人々は「バルチック艦隊」と呼んだ。


439 :ひゅうが:2013/11/17(日) 16:32:38

【あとがき】――というわけで奉天会戦です。
いやー長かった。これで一応史実の会戦は終了しましたが、まだハルビンが残ってます(汗
ハバロフスクやウラジオなどはその後でしょう。
ああ日本海海戦が遠い…

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最終更新:2014年01月11日 17:24