479 :ひゅうが:2013/11/17(日)

17:25:05 >>435 >>436-439の続きです。


ネタ――大陸日本の日露戦争 その8

11、哈爾浜対陣

奉天会戦の結果は、ロシア陸軍に衝撃を与えた。
これまでの戦いの中で日本軍の強さは分かったが、まだ数的優勢を確保したためである、恐れるに足りないという判断があったのだ。
だが、日本側の予想を超えた火力と錬度は、ロシア側からこの時点までに常備兵力の25パーセント近くを削り取っており、これが偶然ではないと思われた。

首脳部からはクロパトキン大将の罷免要求が出たが、これをかばったのは意外にも皇帝ニコライ2世だった。
講和の是非やその条件こそ内閣に一任したものの、ころころと司令官を変えたのならば勝てる戦争にも負けるというその主張には一定の理があった。

折しも、ロシア西部では社会不安が高まっていた。
首都ペテルブルグでも、プレーヴェ蔵相が暗殺未遂にあうなど社会革命党のテロは激しくなりつつあり、かつ、100万もの大軍を極東へ動員したために抑えがゆるんだポーランドならびにウクライナでは大規模なデモやテロが相次いでいた。
ロマノフ王朝の専制のツケが払われたかたちであるが、これには英国情報部と結託した日本陸軍の明石元二郎大佐たちが深くかかわっていた。
彼らは、開戦前夜から欧州でポーランドやウクライナの革命派指導者に接触しており、「一時的に活動を手控えさせた」のである。
さらには彼らを通じて、首都近辺の社会主義者たちに資金提供をするのも忘れない。
この結果、テロに明け暮れたペテルブルグやモスクワの革命党員に対し西方国境地帯周辺は平穏を保ち、ロシア側は大動員で兵力を東へ向けることができた。

だが、それを見計らってウクライナとポーランドの革命集団は蜂起。
首都でもこれに呼号するかのように大規模なゼネストが呼び掛けられはじめたのである。
大軍団を極東に送りつつ、革命鎮圧用にさらに動員を続行。そして負担は大帝国ロシアに重くのしかかり社会不安をさらに増大させる――悪辣極まりない手段であった。
さらに、奉天の敗北によりロシアの戦時国債は暴落。戦費は不足に陥りつつあった。

ロシアは大軍勢をもって日本軍を破り、しかる後に革命を鎮圧するしか進む道がなくなってしまったのである。


話を戻そう。
罷免をまぬがれたクロパトキン大将だったが、中央からの命令により副司令官にそれまで後備のザバイカル方面軍を指揮していた猛将ニコライ・リネウィチ中将を任じることを余儀なくされた。
彼は、猛将といわれるだけあって決戦論者である。
そのためクロパトキンと事あるごとに対立を余儀なくされ、結局は「今年中の決戦」に同意せざるを得なくなってしまった。
それでもまだ救いはあった。
ロシア政府と陸軍中枢をせっついた結果として100万の大軍団がシベリア鉄道に載せられ東進しつつあり、来年1月末にはすべてが現地に到着する予定であったのだ。
これに加え、あらかじめ備蓄が行われていた哈爾浜の巨大な補給基地にはこの大軍団を養えるだけの食糧や武器弾薬が存在していた。

腐ってもロシアは大帝国なのである。
冬が来る前に哈爾浜で日本軍に一撃を加え、そして冬季の間に失った国土(すでにロシアとしてはこういった認識であった)を回復すればよい。
クリミア戦争でも同様な窮地はあった。しかし、ロシアが誇る主力軍団は失われていないのである。


481 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17:25:43

一方の日本側では、奉天会戦の結果生じた1万5000の犠牲者とそれに倍する負傷者の数が国内新聞各社に衝撃を与えていた。
彼らにしてみれば、旅順要塞攻防戦は要塞攻防戦でしかたがなく、黒溝台会戦という「間抜けな奴らのミス」で生じた被害は許しがたい(そのため大山元帥宅に三流新聞社が手引きして話題作りのために投石が行われ治安警察法違反で検挙され編集部全員が衆人環視の中引き立てられるという事態も起きている)にしても、勝ちいくさでこれだけの大被害が生じるというのは恐ろしい。
ことに、海外特派員が撮影した機銃陣地へ突撃して全滅したロシア兵とその死体で味方塹壕陣地が埋まり、その中で味方が見るも無残な状態となって死んでいる白兵戦後の写真は世界はもとより日本人にも大きな衝撃を与えていたのだった。

そのため、主戦論とは逆に講和の追求を行うべきという抑制的な世論が盛り上げりつつあったのである。
(註:神の視点から見ると、夢幻会はこの世界では史実とは逆に厭戦感情に対処する羽目になったのであった。)
これを受け、ロシア側は「日本側の戦意が失われつつある」と判断。
「より厭戦感情が蔓延するのを待って」哈爾浜前面での「決戦」を決定する。

参加兵員は120万余。
日本側は、牡丹江市方面へ牽制をかける第5軍集団を除き、予備隊すべてを投入したうえで135万ほどであった。
ここまでしてなお、ウラジオストクには「要塞」が構築されており、20万のロシア兵たちが入ったという。
まさに、大陸軍国の意地であった。

この「史上最大の野戦」による動員記録は、第1次大戦における総力戦でも片手で数えられるくらいしか破られることはなかった。

 


そしてロシア帝国はこれにあわせて10月30日、バルト海のもっとも奥、リバウ軍港からバルト海艦隊を出発させる。
戦艦15 海防戦艦5 装甲巡洋艦5 巡洋艦7 ほか52隻。
ロシア海軍が保有する艦艇の大半、黒海艦隊まで強引に投入して編成された恐るべき大艦隊である。
隻数の上でも開戦時の旅順艦隊の倍以上、やや古い艦が3割ほどを占めるものの、大半は旅順艦隊同様に日清戦争から今日までの日本海軍の軍拡を受けてフランスやドイツに大量発注された軍艦たちだった。
旗艦は、ツェザレウィーチ級戦艦2番艦「リューリク」。同型艦4隻を率いるのは、ニコライ2世の信任も厚いロジェストヴェンスキー大将。副司令官には長距離航海の経験を持つ海軍作戦本部長ステファン・マカロフ大将が志願して乗り込んだ。
公私ともに二人は友人であり、大艦隊の遠征という初の試みにおいてよい潤滑油となるだろうと期待されていた。

 

――10月中旬、いつもより早い冬の訪れにより日露両軍主力は、長春・奉天と哈爾浜において越冬準備に入った。
日本側は、来るべき大攻勢を行えるまでに必要な大量の物資を備蓄し、かつ困難な冬季作戦行動の間予想されるロシア側の逆襲をしのぎ切るために。
ロシア側は、恐るべき日本側の大戦力に対抗できるだけの戦力を整えるために。
こうして1904年10月15日の時点で戦線は膠着、自然休戦期間に入ったのであった。
(自然休戦期に日露双方の司令部がメッセージカードを送りあったり、両軍の兵士たちがクリスマス期間中に雪合戦をしたりといった微笑ましいエピソードもあるがそれは省く。)


この後3か月ほどの厳しい冬季期間は、「哈爾浜対陣」と呼ばれる。


482 :ひゅうが:2013/11/17(日) 17:26:56

【あとがき】――以上です。
とりあえず1904年中の大規模な戦いはこれで終わりです。

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最終更新:2014年01月11日 17:22