559 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20:38:38

>>486-487の 続きです。


ネタ――大陸日本の日露戦争 その10


13、哈爾浜決戦


【艦隊大遠征】

1904年10月21日、北海洋上のドッガーバンク(浅瀬)において、出航したばかりのロシア第2・第3太平洋艦隊(以後バルチック艦隊と呼称)が操業中の漁船を日本の水雷艇と誤認し砲撃するというドッガーバンク事件が発生。
勇戦する日本への同情論が出始めていた英国の朝野は激昂し、英国海軍はジブラルタル海峡前面においてバルチック艦隊の阻止行動をとることを宣言。
英仏協議によって、スエズ運河の通航の可否について議論が白熱した。
バルチック艦隊は英国の妨害を予期して余分に石炭を積み込んでいたため、針路を南にとりアフリカ沿岸のフランス領へ寄港しつつ太平洋を目指すことになる。
それは、予定されていた翌年2月の哈爾浜決戦に艦隊が間に合わないことを意味していた。

バルチック艦隊のお粗末な顛末もあって欧州諸国に疑念が深まる現状は将兵に一時的にではあるが深刻な士気への影響を与えた。
しかし、副司令官のマカロフ中将は艦内のレクリエーションを積極的に企画し、上陸ができないフランス植民地などの沖合でスポーツ大会や、軍紀すれすれの賭け事まがいの「ゲーム」で士気を良好に保つことに成功していた。
この後、バルチック艦隊はマダガスカル沖で長期にわたってウラジオストク突入の日時を定めるロシア政府からの指令を待つことになるが、フランス側の黙認をもって密かに上陸したり(それがレクリエーションの商品ともなった)、時には実弾演習を行うなどして錬度を維持していた。
よくいわれるように、日本海に突入したときにすでに士気が崩壊していたというのは誤りである。
日本側は、英国の協力によってこれらの情報を把握しつつ、哈爾浜での決戦を急ぐことになる。


【決戦前】

年が明けて1905年1月、いわゆるクリスマス休戦の期間が終了した時点で日露両軍は盛んな索敵行動を開始した。
中には挑発ににた行動もあり、とくに牡丹江市前面ではさかんに騎兵による牽制が続いていた。
クロパトキン大将は日本側の攻撃目標が哈爾浜であると確信していたものの、ロシア陸軍内部では意見が分かれており、ついにウラジオストク方面の20万名を哈爾浜に配備することはできなかった。
だが副司令官のリネウィチ中将の努力もあり、兵の質自体は良好なものを揃えることができている。
とりわけ、欧州から送り込まれてきたドイツ製28センチ榴弾砲は日本軍のそれ同様に大きな成果を上げるはずであった。
また、火砲も改造され迫撃砲的な運用ができるようになっている。
火砲を戦場の神というロシアならではだといえるだろう。
特筆すべきなのは、ロシア全土から集められたとさえいわれる機関銃の数である。
232丁。
それは、旅順要塞に配備されていたものの1.5倍にも達する。
塹壕線を構築できれば、日本軍の突撃を受け流せると彼らは考えていた。

動員されたのは、ドイツ前面に配置されている主力部隊 ポーランド軍団、豊かな穀倉地帯ゆえに30万もの数を誇るウクライナ軍団、ウラル軍団、カザフ軍団、コーカサス軍団、そして、中央軍からバルト軍団とモスクワ軍団。
合計135万名。
広大なロシアの第一線から引き抜けるだけの戦力を引き抜いたようなものであった。


一方の日本側は、第1から第5軍集団まですべてを投入。
後方には、予備第3軍団および予備第4軍団が沿海州方面への陽動を行っており、警備用に予備第5軍団が遼陽に展開。
臨時動員された予備第6軍団と第13方面軍の残存部隊は遼東半島から鴨緑江にかけてゲリラ戦を警戒している。
第1線に150万名、後方にさらに50万が形だけとはいえ動員されていた。
今回の決戦兵力が敗北すれば、日本陸軍は一気に遼東半島まで後退を余儀なくされることだろう。
そして、日本本土に残るのは老齢な後方後備役部隊のみ。
海軍力がほぼ無傷であるのが救いであったが、彼らがいなくなれば日本は両手を上げるか、なりふり構わぬ動員を用いての日本本土決戦を余儀なくされたことだろう。

そして未だ寒さが厳しい2月15日、吹雪の中で日本陸軍は行動を開始する。


560 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20:39:13

【決戦】


2月15日、奉天で越冬を終えた満州総軍主力部隊は、兵站部隊に見送られて進軍を開始。
同時に、長春を発した先遣隊は騎兵による掃討戦を実施しつつ北上を開始する。
この動きを見たロシア極東軍は、哈爾浜越冬地を引き払い、構築が図られていた陣地へと移動。
砲兵の配置を開始する。
また、ハバロフスクに配されていた予備部隊をも召集し、「決戦」の準備を開始したのである。

2月26日、日本側第1軍集団先鋒は哈爾浜前面に到達。
同日夜半前には第2・第3軍集団が戦場に到達し、翌日までに第4・第5軍集団も現地に到着した。
凍結した大地のために野戦築城が難しいと予想していたロシア側の期待を裏切り、日本側は蒸気建機を用いて野戦陣地を構築。
後方ではもはやおなじみとなる工鉄兵団による砲兵陣地構築がなされた。
互いの戦力は互角。
2月28日には両軍は正面から対峙し、睨みあいが開始された。

 

そして――3月1日、日本側による事前射撃により、会戦は開始された。


事前砲撃は、実に12時間も継続。
中に混ぜられた徹甲榴弾や榴弾によってロシア側陣地に甚大な被害が生じる。

「奴らの鉄量は無限か!?」

クロパトキン大将はそう絶句したという。
そして、最後の1時間はこれに大量のロケット弾が続く。
砲煙が晴れた時、ロシア側は絶句した。
そこには、至近距離にまで接近している日本側主力部隊が存在したのである。
日本側は、ロシア側に砲撃を加えるかたわらで陣形を整え、なおかつ接近し突撃するという一つ間違えれば戦線崩壊寸前の行動に出ていたのだ。
陣形は、「矢」。
Δの形でロシア側正面陣地を食い破ろうとする第1軍集団を先頭に、同様の陣形がピラミッドのように一段後方には2つ、その後ろには3つ、さらに後方には小さなものが無数にある。
側面からの攻撃を加えようとしたロシア軍右翼は、上空に舞う飛行船からの無線通報によって目標を変更した重砲群によりアウトレンジされ、あろうことか軍集団の外郭に配置されたロケット砲により行き足を止められた。

騎兵による接近を試みれば、これも機関銃によって薙ぎ払われる。

そして、同日午後3時、ロシア側中央部の前線陣地に日本側第1軍集団が接触した。
ここぞとばかりに機関銃射撃が開始され、砲撃もこのあとに加わる。
だが日本側はおかまいなしに進撃を継続。
ともかくも前へ前へ進もうとする日本側は、突撃に火砲が随伴し直接水平射撃を加えてまで前線陣地を突破していった。
しかし、そこにはロシア側の第2段陣地が待ち構えている。
と、第1軍集団の行き足が止まった。ゆっくりと左右へ分かれつつ先端中央部がつぶれてゆくのを見てクロパトキン大将は衝撃力が失われたと思ったという。

だが、そうではなかった。
第3段で待機していた第4軍集団が第2段の間を抜け、そして第1軍集団の中央部からまるで種から芽が出るかのように出現したのだ。
第1軍集団の損耗部隊はその間に後方で再編成し第3段へ下がった。その間に第4軍集団は元気いっぱいで突入を継続するのである。

3月2日午前3時、第4軍集団はロシア側第2次防衛線を突破、第3次防衛線の半ばまで至る。
3月3日未明、第4軍集団の衝力が鈍る。すると、さらに続いて第2軍集団が出現。
さらなる攻撃を実施した。
この間、第3段後方へ回り込もうとするロシア軍部隊に対し、後方へ下がった第1軍集団部隊が阻止戦闘を継続。
互いに騎兵部隊を出しての殴り合いが継続された。
もちろん、支援砲撃によって部隊が大隊単位で吹き飛ぶのも変わらない。


562 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20:39:47

「まるでスチームローラーだ!」

クロパトキン大将はそう叫んだという。
3月4日午前6時、第2軍集団に続き、満を持して第3軍集団が前線に到達。
先鋒を勇猛極まりない第6軍(熊本)と第7軍(札幌)としたこの攻撃は、開始と同時に先鋒からわずか300メートルの距離に35式列車砲8門が一斉集中射撃が行われたこともあってロシア側の士気をへし折った。

「奴らは死ぬのが怖くないのか!?」

副司令官であるリネウィチ中将が叫んだのとほぼ同じころ、中央部を支えるため臨時に投入されていたカザフ軍団が士気崩壊。
半分敵前逃亡となるような避退機動をとった。
これをみてとった満州総軍司令部は全軍一斉前進を下命。
それまで両翼への阻止戦闘を行っていた後方第3段部隊(第4軍集団および第2軍集団)も一斉にこの脆弱点に殺到した。

再び起きた一斉射撃の後、ロシア軍が見たのは、中央部に大穴を穿たれ、まるで串刺しのようになった味方部隊の姿だった。
そして気が付けば、奇妙に動きが鈍重であった日本側騎兵、「秋山騎兵軍団」は大軍の中央を通る幅200メートルあまりの進撃路を通じてロシア軍の後方へ進出。
それに続いて予備部隊となっていた「第1予備軍団」、通称「梅沢軍団」が予備役兵とは思えぬ速度で喚声を上げながらこのルートを突撃した。

ロシア側による阻止砲撃にもかかわらずこの進撃は成功。
南側から地図を見れば、まるで噴水の水が左右に分かれて空気を包み込み落ちていくかのように満州総軍はロシア軍の中央を分断突破し、後方に展開していた。

ロシア側は、日本側の突破に対し防衛線等を行おうとするも、日本側の第2陣は中央突破する日本側第1および第5軍集団をもって急速に左右に両翼を伸ばし、その先端を後方の第2・第3・第4軍集団とつなげようとしていた。
包囲網が完成しようとしていたのだ。
この段階に入り、ロシア側は自分たちがこの場を動く以外では組織的にどちらかへ向けて衝力を発することができなくなっていることに気が付いた。
彼らは、中央突破を阻止しようと中央部に部隊を割きすぎていたのである。
そして、前方の部隊を突破しても、この5日間砲撃を続ける日本側の悪魔のような重砲群を排除するまでにどれだけが失われるかわからない。
クロパトキン大将とリネウィチ中将は最後の予備部隊であった近衛第2師団を投入し脱出路を構築しようとするも、日本側の砲撃と、第4軍集団による効果的な阻止戦闘、そして働き者でありすぎる秋山騎兵軍団による襲撃もあって限定的な効果しか発揮できない。
さらには、無線電信ではなく有線電信しか用いることができなくなっていたロシア側の指揮命令系統はこのときマヒをはじめており、迅速な行動は不可能となっていた。
この時点でロシア極東軍首脳部は一部の部隊を率いて夜陰に紛れた脱出を成功させるのがせいぜいであった。

3月5日午前4時12分、日本側による「哈爾浜大包囲網」は完成。
その内部にめがけて大量の重砲弾と機関銃弾が投射されはじめた。
誤射を警戒して精密観測が行われていた射撃は直接射撃に移行。瞬く間に逆ハの字型となっていたロシア軍部隊は数を撃ち減らされてゆく。
3月5日午後1時、包囲網内部に取り残されていたウクライナ軍団指揮官セミョーノフ中将の負傷と指揮能力喪失に伴い、ウクライナ軍団は降伏。
これに続いてポーランド軍団、カザフ軍団が午後3時には降伏し、残った部隊も5時までには次々に降伏した。

事後承諾になったものの、副司令官リネウィチ中将を脱出させたクロパトキン大将も遅滞戦闘を断念しこれを追認。
哈爾浜郊外で予備第2軍団から発せられた独立捜索騎兵連隊に捕捉され捕虜となった。

563 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20:40:21

3月6日を待たず、日本陸軍満州総軍は、ロシア極東軍135万のうち18万2000名を戦死または行方不明に、34万を負傷後戦闘不能に、69万8000名を包囲下で降伏させた。
残る約13万名は、逃亡または脱出に成功している。
3月7日、降伏したロシア将兵を武装解除するべく後方の予備第3軍団を呼び寄せ、第4・第5軍集団を残置させた満州総軍は、第3軍集団を先頭にして哈爾浜に向け北上。
以後、周辺で散発的な戦闘はあったものの、3月10日にはロシアの満州最大の拠点である哈爾浜市に入城した。


日本側の犠牲者数は、死者4万8000名、負傷者12万4000名。
比較的軽いとはいえるが、これでも大被害であることに変わりはない。
しかし、この大勝利によって半径3000キロ以内にこの大軍勢を阻止できる存在はもはやなくなった。
唯一ウラジオストクに立てこもる残存部隊という懸念はあったものの、ロシア側はこれをハバロフスクやシベリア鉄道沿線に分散配置せざるを得ず、もはや日本軍の満州における優位は絶対的なものになっていたのである。

はるか遠いバイカル湖沿岸のチタ方面には辛うじてロシア軍30万あまりが集結しつつあったが、ロシア国内において大規模暴動が発生しつつある状況下において、これらが投入できるかどうかは未知数であった。

 

――日本陸軍は、この時点で戦争に勝利しつつある。


564 :ひゅうが:2013/11/17(日) 20:43:01

【あとがき】――というわけで、投下いたしました。
一気に哈爾浜会戦まで進みました。参考は、ソンムの戦いとマルヌ会戦です。
ようやく終わりが見えてきました。

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最終更新:2014年02月01日 14:16