617 :ひゅうが:2013/11/17(日)

21:54:51 >>559-564 の続きです。

ネタ―――大陸日本の日露戦争 その11

14、終結への道―ハバロフスク攻略、そして―


3月16日、マダガスカル沖に待機していたバルチック艦隊は、本国から出動しようとしていた第4太平洋艦隊が英国側の妨害以前にサボタージュによって反乱騒ぎが起こったという理由で合流できないことを知る。
同時に、ロシア帝国海軍はバルチック艦隊を急ぎウラジオストクへ廻航することを決定。
同時に、チタ方面に待機していた残存部隊、通称ボルガ軍団をもって全力をもってシベリア鉄道の維持とウラジオストクへの物資搬入を行うことを決定した。

日本側の警戒網を強行突破し、ウラジオ艦隊をもって180万近い大軍を投入していた日本側の補給線を寸断するためである。
このとき、ロシア本土では、首都ペテルブルグでもパンを求めたデモ行進の中で社会革命党によるテロが発生。
皇帝側による発砲という声が上がり宮殿へ人々が殺到する中で鎮圧のために警備部隊が発砲を余儀なくされた「血の日曜日事件」が発生。
日本よりも、戦争に乗じて利益を得ようとする人々――ことにフランス資本などにより富をなした人々や、社会革命党などのテロ集団――への怒りが高まりつつあった。


もともと戦争には批判的であったニコライ2世もアメリカの仲介での講和模索を積極的に支持するが、それでもなお戦争は継続すべきという軍首脳や政府財界の意見は一致していた。
しかし自らの意思を示すべくニコライ2世は自らペテルブルグ総主教のもとに出向き、戦争によって失われたロシア・日本双方の勇敢な将兵たちのために祈りをささげたという。
なお、この時の行動が、のちのロシア革命において皇帝一家への一定の同情と支持をつなぎとめる結果となる。

3月中に、満州のほぼ全土は無人の野をゆくがごとく日本軍の勢力下へ入ってゆく。
そして4月18日、哈爾浜会戦の傷を癒した日本陸軍第2軍集団と第4軍集団は、ついにアムール河を渡河。
わずか2万ほどの守備隊が駐留するハバロフスクへと殺到した。
牡丹江周辺で警戒を強めていたウラジオストク防衛軍は、これを受けて撤収を開始。
ウラジオストク前面に防衛陣地の構築を開始する。

ハバロフスクは、4月20日、独断で無防備都市宣言を発した。
守備隊は前面で防衛線を構築するも、わずか2日間で物資も兵士も足りないハバロフスク守備隊は壊滅。
4月25日、日本軍は無防備都市宣言を発したハバロフスクを占領。
ここにシベリア鉄度は寸断された。
ウラジオストクでは市民を動員して防衛戦の準備が整いつつあったものの、それでも根こそぎ動員して20万あまり。
日本側の5分の1ほどである。
襲い掛かられると勝利ができるかどうかは自明である。

ロシア側はハバロフスク奪還をめざし、チタから極東に残る最後の陸上兵力となるボルガ軍団を急派することを決定。
マラッカ海峡を通過したバルチック艦隊とあわせて攻撃を行う用意を急ピッチで開始した。

4月24日、英国側の妨害によってだいぶ遅れてバルチック艦隊はカムラン湾に入港。
しかし、戦後を見越したフランス側首脳陣の中でバルチック艦隊をどう扱うべきか意見が対立。
結局、5月6日に出港するまで簡単な整備しか行うことができなくなっていた。
この時点でバルチック艦隊の速度は大幅に低下していたものの、それでも10ノット台を維持していた。


618 :ひゅうが:2013/11/17(日) 21:55:21

今や、全世界の目はバルチック艦隊に集中していた。
この艦隊がウラジオストクに到達すれば、ロシア側の勝利の可能性はある。
悪くとも引き分けで戦争を終えることができるだろう。
日本海軍は、旅順湾口で機雷に接触して失われた戦艦1隻をアルゼンチンから購入した装甲巡洋艦2隻と新たに就役したばかりの戦艦1隻で埋め、戦艦12 装甲巡洋艦14 巡洋艦24に達している。
一方のバルチック艦隊は戦艦15 海防戦艦5 装甲巡洋艦5 巡洋艦7 ほか52隻を数えていた。
主力となる戦艦の数は互角。しかし日本側はウラジオ艦隊への対抗上巡洋艦のうち6隻ほどを警戒に回し、周辺海域にさらに10隻ほどを分散することになっていた。

双方の戦力は、完全に互角であった。

 

こうなると、バルチック艦隊がいかなる航路を通ってウラジオストクに向かうのかが問題となる。
対馬海峡か、津軽海峡か、宗谷海峡か。
もっとも通りやすいのは対馬海峡であろう。だが、焦りを深めるロシア側が日本本土沿岸への通商破壊と艦砲射撃を行い勝利宣言を行う可能性もある。
ならば、どこを通るのか?

5月10日、東郷平八郎司令長官は、海図の一点に指をさした。
同日、南シナ海を航行中の日本郵船所属の貨客船「ようめい丸」が北上するバルチック艦隊を確認した。

5月15日、香港からフランス船籍の石炭輸送船が出港。
その搭載量は日英の諜報機関と、フランス側の半ばオープンな姿勢によって即座に日本側に伝えられることになる。

5月20日、台湾海峡(バシー海峡)にバルチック艦隊出現。
フィリピンの住民たちは涙した。

「もはや、日本に勝利はできまい。いくら強力な大軍を持っていたとしても、あの大艦隊に勝とうなど――」

5月23日、石垣島の漁民たちが水平線上におびただしい数の黒煙を発見。
これをバルチック艦隊と判断し、宮古島まで配備されたばかりの動力付き漁船で急行しこれを東京に通報した。


そして―――5月26日深夜、海軍特設監視船「信濃丸」より緊急電が発せられた。


「発:特設監視船第8812号『信濃丸』
宛:連合艦隊(GF)司令部

本文: 203地点ニ敵艦隊見ユ。敵ハ、東水道ニ向カフモノノ如シ。 」


619 :ひゅうが:2013/11/17(日) 21:55:54

【あとがき】――というわけで投下しました。
ちょっと風呂でまったりしてきます。

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最終更新:2014年01月11日 17:20