657 :ひゅうが:2013/11/17(日) 23:47:55

>>617-619 の続きです。今回が最終回となります。

ネタ――大陸日本の日露戦争 その12 (最終回)

15、日本海海戦


1905年5月27日午前4時、朝鮮半島南端 鎮海湾泊地に在泊していた連合艦隊旗艦戦艦「三笠」から東京の大本営に向けて一通の無線電文が発せられた。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動、此レヲ撃滅セムトス。
本日、天気晴朗ナレド波高シ。」

連合艦隊各艦艇は一斉に抜錨。
対馬海峡方面へ進撃するバルチック艦隊の迎撃戦闘に移った。
このとき、連合艦隊各艦には英米独仏という各国の観戦武官が乗り込んでおり、固唾をのんで推移を見守っていた。


よくいわれるように、東郷平八郎司令長官が対馬海峡に敵艦隊が来ると判断したのは彼の運の良さが理由であるというのは間違いである。
先の津軽海峡海戦において津軽海峡が日本海軍の哨戒圏で突入すれば機雷戦を受けるということはロシア側にも知られており、また宗谷海峡はこの時期霧が多く岩礁も多数存在していた。
さらにはハバロフスク陥落により本国からせっつかれていたことやさしものバルチック艦隊にも疲労が蓄積していたこともあって、バルチック艦隊のロジェストヴェンスキー司令長官と長距離航海の専門家であったマカロフ副司令もつ対馬海峡の強行突破を承認していたのである。
東郷長官の判断は当然といえるだろう。

午前7時、連合艦隊は鎮海湾を脱し、対馬海峡に入った。

対馬海峡には装甲巡洋艦「橋立」を旗艦とする第7艦隊がバルチック艦隊を警戒し待ち受けていた。
この第7艦隊は、予備部隊として置かれていたもので日清戦争時の日本の主力艦隊である。
旧式といっても速度は優れており、午前10時、バルチック艦隊は発見される。
英国産の無煙炭を使用していた日本側に気付くのにバルチック艦隊は少し遅れたものの、そのまま対馬海峡のほぼ中央を直進するコースをとり続けた。

バルチック艦隊の隊列は、二列縦陣。
バルト海から日本近海にやってくるまでに多くの旧式艦を含む彼らは旧式艦は旧式艦と戦隊を組ませることとして機動力の優位を確保しようと努力していたのである。
一方の連合艦隊は、戦艦と装甲巡洋艦がそれぞれ単縦陣を構成しており、両者はこのままの速度でいけば、玄界灘に浮かぶ「言わずの島」「神の島」とよばれる沖ノ島のはるか沖で会敵するはずだった。

11時42分、偵察部隊(第7艦隊駆逐艦隊)はバルチック艦隊の対馬海峡侵入を確認。
連繋機雷戦を試みるも波浪が高いためにこれを断念する。

13時39分、連合艦隊はバルチック艦隊を視認。
総員戦闘配置が発令される。
このとき、旗艦「三笠」にある旗が翻った。

国際信号旗Z
この時の信号表によれば「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。」
のちにこの信号旗は、伝説となる。


東郷は、指揮運用上の限界を考えて自らは艦橋に立ち続けることを選択したものの、万が一の時のために第32位までの指揮権継承順位を決めたうえで、補佐として強引に現役復帰を果たしていた副司令長官 日高中将らと次席参謀たちを司令塔へ入れていた。
彼らもやられた場合は、第2艦隊の上村中将が指揮権を掌握することになっている。


658 :ひゅうが:2013/11/17(日) 23:48:30

13時55分、東郷の手が高く掲げられた。
彼我の距離は1万2000、左にバルチック艦隊を見ながら接近している。
そして、左へ振り下ろされた。

「第1艦隊および第2艦隊、左16点一斉回頭。」


世界艦隊戦史上例のない艦隊運動である。
連合艦隊各艦艇は、先頭の三笠が回頭した点をもって左へ回頭。側面を敵の前にさらしながらちょうどTの字を形成するかのように次々と左へと針路をかえていく。
定規で測ったかのようにその回頭位置は正確である。


「東郷は気が狂ったか。」

「神はロシアを未だ見捨てられていない。」

ロジェストヴェンスキー提督とマカロフ提督はそう叫んだといわれている。
なぜなら、この回頭作業中は自艦はそれが完了するまで射撃ができず、しかも相手は同一の地点を照準していればあとからあとから獲物が飛び込んでくるのである。

簡単に言えば自殺行為に等しい。


そして、バルチック艦隊は砲撃を開始した。


結果は熾烈なもの。
14時12分に全艦が回頭を完了するまでに連合艦隊には121発もの砲弾が命中。
荒い海ゆえにこれほどですんだものの、それでも危険なことに変わりはない。

こうまでして危険な行動をとったのは、連合艦隊主力艦艇が確実に敵艦隊の頭を押さえて「敵を逃がさない」ためであった。
この間に装甲巡洋艦部隊は、速度を上げてバルチック艦隊側面へ接近している。
そして、連合艦隊主力戦艦部隊は、14時13分、敵旗艦「スオーロフ」に向けて、統制砲撃を開始した。
公算射撃法、そうこのときの砲撃は呼ばれる。
敵艦隊の速度と位置を測定し、位置を計算。主砲と副砲を弾着観測しつつ同一の照準のもとで射撃し続けるのである。
のちに、世界の標準射撃法をなったこの方法であるが、このときまでは各砲塔ごとの各個射撃が主流であった。
加えて、日本側はバルチック艦隊各艦の撃沈にこだわらず、戦艦としての機能喪失に力を尽くした。
すなわち、ピクリン酸火薬を用いた徹甲焼夷弾の使用である。

これにより、装甲帯が貫けずとも上層構造物と兵員に被害を与えて戦闘能力を失わせるのである。


これは意図しなかったものの、近代海戦史上最も遠距離で行われた砲戦であったため、上部甲板から比較的大きな角度で敵艦の上層構造物の天蓋を叩くことにもなった。

――変針を完了した12隻の戦艦、24門の30センチ主砲弾と100門以上の副砲弾は、バルチック艦隊旗艦「スオーロフ」に集中する。
砲戦開始後8分で、数の暴力は「スオーロフ」司令塔を直撃する。またこれに続いて徹甲焼夷弾は同艦のマストをなぎ倒し、甲板に大火災を生じさせた。
艦隊から、一時的に指揮能力が失われた。


「装甲巡洋艦部隊、突入せよ。」

東郷の命を受け、20ノットという高速を有する装甲巡洋艦部隊と、巡洋艦たちがバルチック艦隊に肉薄。
戦艦にも匹敵する主砲弾を叩き込まれたバルチック艦隊の補助艦たちは壊乱状態となる。
指示をあおごうにも、叩かれ続ける旗艦は落伍しつつあり、命令系統は混乱状態だった。
そして、装甲巡洋艦部隊は戦艦部隊に砲火を向ける。

むろん、バルチック艦隊の猛射を受けて日本側も大被害を生じた。
中破する艦が続出し、隊列に接近するたびに装甲巡洋艦たちは戦艦部隊同様にひどい有様になっていく。
だが、数の暴力がすべてを決した。
14時32分、旗艦「スオーロフ」大爆発。
意気上がる連合艦隊主力戦艦部隊は目標を後続各艦に変更。
第3艦隊などの水雷戦隊に突入命令を発した。
落伍したスオーロフが隊列を乱している中に、第3艦隊の巡洋艦を筆頭にした駆逐艦隊が突入を開始する。
装甲巡洋艦との砲戦に夢中になっていたバルチック艦隊は、この接近にぎりぎりまで気付かなかった。


659 :ひゅうが:2013/11/17(日) 23:49:15

「オスラビア」大傾斜「セヴァストポーリ」大破炎上「リバウ」轟沈「インペラトールニコライ1世」転覆――
わずか10分あまりで5隻の戦艦が沈没し、残る4隻が大破状態に追い込まれた。
第2艦隊を率いる上村中将は効果的に残存艦隊の退路を遮断。
これまで砲戦に参加できなかった第4・第5艦隊も落伍艦を1隻ずつ打ち取ってゆく。

足の遅い海防戦艦たちは格好の獲物となり、続く1時間で全艦沈没あるいは戦闘不能となった。
夜を迎えると、東郷は水雷戦隊による夜襲反復を実施。
さらに2隻の戦艦と装甲巡洋艦を海底へ送り込む。

翌朝、警戒艦の接触をもとにして先回りを完了させていた東郷は、午前8時に竹島沖で砲戦を再開。
独断で逃亡を図った第3太平洋艦隊司令ネボガトフ提督が戦死したことで各艦は壊乱状態となった。

このとき、ロジェストヴェンスキー司令長官は意識不明であり、同じく負傷したマカロフ提督は夜間襲撃で航行不能となり浸水が激しい「レトヴィザン」から駆逐艦への移乗を図ったものの、日本海軍第1艦隊に包囲された。
5月28日午前10時、奇跡的に意識を取り戻したロジェストヴェンスキー提督は降伏を決断。
沈みゆく「レトヴィザン」からマカロフ提督に肩を貸されて日本艦隊旗艦「三笠」に移乗する。
バルチック艦隊の残存艦は、巡洋艦「オーロラ」および戦艦「アレクサンドル1世」、その他3隻のみであった。

一方の日本艦隊は、各艦が大破あるいは中破といった大損害を受けたものの、失われたのは夜襲で傷ついた水雷艇1隻が帰投中に沈没したのみ。

海戦以上、まれにみる「完勝」であった。
東郷と、明治日本海軍はこのとき伝説となったのであった。


660 :ひゅうが:2013/11/17(日) 23:50:18

【斉斉哈爾会戦・ウラジオストク陥落、そして停戦】


――6月3日、日本海海戦の興奮さめやらぬ中、ボルガ軍団の先遣部隊は哈爾浜前面の斉斉哈爾(チチハル)に来襲。
しかし、現地を守備していたのはよりにもよって日本陸軍第3軍集団の中でも最強を誇る第6軍だった。
コサック騎兵5万の突撃は、薩摩師団と呼ばれる第63師団の猛射と逆襲により粉砕。
ここに、ロシア側のウラジオストク救援の望みは絶たれた。


7月1日、満州総軍司令部は沿海州に前進。第1から第3軍集団をもって「臨時沿海州軍集団」を編成。
ウラジオストクを包囲下においた。
守備軍に対して行われたのは、極東軍を襲った恐るべき砲撃の嵐。
最終的に、斉斉哈爾方面から再び参戦した「コサックの突撃を粉砕した」第6軍がその雄姿を見せつけたところでロシア側指揮官ウラジーミル中将は抗戦を断念。

7月5日、ウラジオストク守備隊は降伏。
7月6日、無防備都市宣言を出したウラジオストクに日本軍が入城。

「ロシア極東軍臨時司令官」となっていたウラジーミル中将は、独断でロシア極東軍と日本軍との「停戦」を宣言した。


――ペテルブルグの首脳陣は激怒したものの、どうもできるものではない。
ニコライ2世はこの決断を追認し、講和交渉にあたることを政府各位に命じた。
そのまま、米国ポーツマスで行われていた講和交渉においてとりあえず「休戦協定」が成立する。
俗にいう、「七夕休戦」である。


1か月後、妥結したポーツマス講和会議において日本帝国は、樺太・カムチャッカおよび付属島嶼(チェコト半島含む)を割譲され、沿海州の武装制限と満州の非武装地帯化、東シベリアにおける兵力の告知義務と配備制限を勝ち取った。
もちろん、ロシアが満州に保有していた権益はこれを継承する。
加えて、戦費用に賠償金は少ないながらも37億円(戦費の3割ほど)がニコライ2世の個人資産から政府が借財をすることで払われ、日本側もとりあえずは矛をおさめる。

かくて、1905年8月1日、日露戦争は終結する。
ロシア側は多くを失ったが、政府の威信とは別に、ニコライ2世は平和の使者として国民の高い人気を獲得。
また、日本もその能力を満天下に示すことになった。
最上層部のみをとってみれば、日露戦争は双方ともに利があった戦争であったといえるだろう。
そのため、勢力圏確認の意味をこめて早くも1907年に秘密条約として「日露協商」が成立していることからもこれは確かである。


――こうして、世界は新たな段階に突入した。有色人種国家である日本帝国がロシア帝国を正面から打ち破り、極東アジアに覇権を確立した。
この事実は19世紀以来の帝国主義をゆさぶり英仏植民地に動揺を広げた。
大英帝国は極東やアジア安定のために急速に日本帝国に接近。一方のドイツ帝国やアメリカ合衆国などはこれを警戒しつつも、生まれたほころびに付け入ろうと策動を開始する。
こうした動きはやがては新興帝国主義国であるドイツ帝国などの「持たざる」欧州諸国と英仏の「持てる」諸国との間の全面戦争、第一次世界大戦へと繋がっていくことになるのである。


【了】


661 :ひゅうが:2013/11/17(日) 23:53:02

【あとがき】――というわけで、今回で完結であります。
日本側火力が史実より増大したため、バルチック艦隊はしこたま撃たれてしまいました。
あと戦艦ポチョムキンもかわいそうに極東にまで連れ出されて沈没してます。
また、血の日曜日事件は皇帝陛下への怒りがそれほどでもないので焦った社会革命党がポカをやったために展開が大きく違ってしまいました。
まあその分ウクライナとポーランドで暴動続発、弾圧が行われてますけど(汗

※1904年5月27日午前4時→1905年5月27日午前4時に修正

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最終更新:2014年01月11日 17:19