527 :倉崎ネタの人:2013/11/13(水) 22:27:42

二宮忠八と倉崎2 

1902年某所
そこには、地上を走る大きな翼をもつ物体があった。
その物体の先にはプロペラが回転しており徐々に速度を上げたかと思うとゆっくりとその身を浮き上がらせていった。その瞬間周囲から「やったー」「よっしゃ」「うおー」といった、歓声が上がった。
そんな人々の中に二宮忠八も入っていた。しかし、忠八がふと隣を見ると難しい顔をした倉崎重蔵がいた。
「嬉しくないんですか?」
忠八は思わず尋ねた。
「いや、嬉しくないわけではない。しかし、私の理想とするものとは程遠いのだ。こんなものを飛行機として発表するのは倉崎の恥となる。したがってこのことは公式には発表せず内密にするように。」
という言葉が返ってきた。この言葉に周囲からは残念がる声が多数上がった。しかし、社長がそういうのであれば給料もらっている社員は従わざるを得なかった。
(俺だって本当はこのことを公表して世界初の飛行機開発の名を手に入れたかったさ。しかし、夢幻会の連中め今発表しても特許が潰されるとか、列強の日本潰しが起こるとか、おっさん自重しろだとか言いやがって。私はまだ30と○○歳でおっさんではない!!)
という心の声は幸いにもほかの社員には気づかれてないようだった。
「しかし、この実験の成功でさらなる改良をほどこしていけば私が認める飛行機を作ることも可能だ、社員全員にボーナスを支給しよう。」
というと今度は先ほどよりも大きな歓声が上がったのであった。

1903年ライト兄弟初の有人飛行に成功する。

このニュースは瞬く間に世界中に広まった。
史実ではさまざまな人間から否定されたり、スミソニアンの妨害もあって特許権を取得できず45年後にその業績が評価されるなどの不遇をかこったがこの世界ではそんなことにはならなかった。
夢幻会がペーパー会社で新聞社を買収しており、そこの新聞を通じて記事や写真が発表されていたのである。これには夢幻会の思惑があった。このままではライト兄弟よりも早くしかもしっかりとした動力飛行を日本が行ってしまい、米国に特許申請しても潰されたあげく某自動車会社のごとく訴訟を起こされて技術だけを盗まれるという結果になりかねないという危惧があったのである。
そこで、自重しない連中にブレーキをかけるとともに、ライト兄弟の業績を大々的に発表しスミソニアンとの訴訟騒動で世間をにぎわしている間に日本の初飛行を目立たなくしようとしたのである。
(夢幻会の航空ファンがライト兄弟の不遇を何とかしたいと思ったという面もある)

しかし、この作戦は一割が成功し9割が失敗したのであった。
たしかに、スミソニアンとの訴訟騒動やカーチスとの間の特許権問題などもとり立たされ、センセーショナルな話題を提供していた。しかし、自重をやめていた二人の変態がそんなものすべてをぶち壊したのである。


528 :倉崎ネタの人:2013/11/13(水) 22:28:20

1904年8月某日

琵琶湖のほとりにある倉崎の実験場にとある飛行機がやってきた。
1902年の初飛行から空力的な問題点や動力部の問題点、翼の形状や機体の重量・強度のバランスなどを徹底的に分析し、作り上げた公的な日本初の動力有人飛行器「玉虫」がそこにはあった。
倉崎でアメリカから取り寄せたエンジンの改修や改良を行い30馬力に出力を向上させた複葉の木制モノコック構造の飛行機である。この飛行機を作るために宮大工からも技術指導を受けて木材から木の組み方にいたるまでとにかく軽量化図っていった機体であった。
この機体を使った飛行実験は当時まだ最新の技術であった、映画として撮影され世界中の映画館で上映しようとしていた。

二宮忠八は不安を隠せないでいた。それはそうだ、現在の飛行機とは木製の骨組みと羽布張りの物が一般的で木制モノコックなんてなかったのである。それでも倉崎の変態技術者たちとともに作ったこの玉虫が空を飛ぶことを彼は信じていた。

午前10時となり実験が開始された。
飛行実験場の玉虫にはこの飛行機のテストパイロットが乗り込みエンジンを点火した。最初はゆっくりと徐々に速くプロペラが回りだしゆっくりと滑走を始める「玉虫」手を合わせて祈っている忠八のとなりで倉崎重蔵は腕を組んで自信満々で見つめていた。
(この自信を分けてほしいものだ。というかなんでこの人はこんなに簡単に飛行機の設計・制作を行えるのだ?)
忠八の偽らざる本心であるが、重蔵から言わせれば風洞実験すら行わずに初期型飛行機の構造を考え付くこの男のほうがおかしいという気持であった。


529 :倉崎ネタの人:2013/11/13(水) 22:28:55

そんな、周りの人間の感想など無縁であるかのごとく「玉虫」はなめらかに浮き上がり、上昇を開始していった。その高度およそ300メートル。この高さを飛んだのはもちろん世界初であった。
それだけではない、この「玉虫」は琵琶湖の上を飛行し始めたのである。びっくりしたのは倉崎のスタッフである。最初は50メートルほど浮かんだら着陸する予定だったのだから。
しかし、重蔵はニヤリと笑いこう言った。
「今回の実験は琵琶湖を直線で進み対岸から折り返して着陸する。300メートル上昇できたらそうするようにパイロットには言ってある。」
いきなりのことで、周囲は混乱したがもうすでに琵琶湖の上に飛びったってしまった「玉虫」である。こうなったら、全力で応援して何としても実験場に戻ってきてもらわねばと一同が心を一つにして応援を開始した。社員一丸となって応援するその姿も映像として撮られて、映画のワンシーンとして登場することになる。

そんな社員の不安と期待のなか「玉虫」は飛行を続ける。
順調に進み続けていき高度も300メートルを維持し続けていた。対岸に近付き旋回を開始したときにそれは起こった。
何とエンジンが不調を起こしプロペラの回転数が落ちだしたのだ。滑空を開始しゆっくりと高度を下げ始める「玉虫」テストパイロットはだましだまし旋回を終了させたあと、エンジンを何度もふかし、何とか復旧を試みていた。徐々にエンジンの回転数が不安定ながらも持ち直し高度が上昇したり下降したりしながら進んでいった。徐々に近づいてくる「玉虫」を固唾をのんで見守る社員。
ようやっと、「玉虫」が実験場の人々の目に映るようになったところで、エンジンが停止してしまう。
滑空状態になった「玉虫」パイロットが懸命に操縦するも徐々に高度が下がっていきあわや水面に着水する寸前になってしまっていた。そんな状態で着陸してくるのだから社員一同大慌てで退避を開始、そのまま実験場に「玉虫」は突っ込んでしまった。
あらかじめ、安全装置として網を用意していたことが幸いし「玉虫」網に引っ掛かり停止した。パイロットも幸い軽傷ですんだ。

この実験の内容が公開され、世界中は驚愕の嵐であった。スミソニアンやカーチスなどはライトフライヤー号のことで争っているあいだに極東のサルに先を越されたためにアメリカ国民から総スカンを食らう羽目になってしまった。この結果、ライト兄弟の特許申請を認め航空機の特許関係でアメリカと日本で訴訟問題になっていったのは余談である。
欧州でもこのことは快挙として報じられ日本人がある種異常な人種として認識されることとなった。アジアでもこのことは白人優位の社会に一石を投じたとして有色人種の希望としてながく語られることとなる。

そして、夢幻会の会合では
「やりやがったあのおっさん。」
「新聞使って印象操作までしたのにすべてぱあじゃねーか」
「確かにライト兄弟のあとなら開発してもいいと言ったが。ここまでするとは思わなかった。自重しろあのおっさんは」
との言葉がでたとか出ないとか。

その後、公式には日本初となる飛行実験を行った地として琵琶湖は脚光を浴び倉崎の飛行実験上後はその後も観光地として残された。後年、飛行実験場跡地で大学生やアマチュア
飛行機を作成するグループによる、通称「鳥人間コンテスト」公式名称「全国アマチュア飛行機コンテスト 二宮忠八杯」が夏の名物番組として暑い夏を提供するのは余談である。

終わり。


530 :倉崎ネタの人:2013/11/13(水) 22:29:46

以上になります。ネタSSですので細かい突っ込みは考証はしないでください。

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最終更新:2014年01月18日 10:56