806 :ひゅうが:2013/11/05(火) 21:30:40

※ SHIMAZU強いネタw wiki風です。

ネタ――「第6軍」

――第6軍は日本の軍のひとつ。略号は「隼人」
所属師団は第60師団(熊本)第61師団(大分)第62師団(都城)第63師団(鹿児島)第64独立機甲旅団(霧島)。
九州南部を所管する第6軍管区(熊本)を所管範囲としている。
その勇猛さから「隼人の後ろ築地」と称され、日露戦争における旅順要塞攻防戦、第1次世界大戦におけるリエージュ会戦の活躍で名高い。
また、201X年現在では重機甲軍団として戦時における機動力の主力をつとめる。

【概要】

前身は明治維新後に設けられた南紫(熊本)鎮台府。
肥前鍋島藩軍と薩摩島津藩軍の郷土部隊を中核としており、当初は鎮台兵として5万名が配されていた。
しかし、明治9年政変により西郷隆盛と大久保利通の対立が表面化すると九州警備のために大増員がなされ、熊本鎮台府のもとで4個師団12万名が急きょ編成された。
この後北方警備と不平士族移民が行われたことにより、鹿児島に第63師団が編成されるのは明治14年を待たねばならず、北方の第5軍第53師団(十勝)や第54師団(札幌)など薩摩藩出身者との対抗意識につながっているともいわれる。


【略史】

明治・大正期

1894年、日清戦争では山東半島に上陸し威海衛攻略戦と天津会戦、北京会戦に参加。
1904年、日露戦争では当初第3方面軍に参加し旅順要塞攻略戦に参加。
大火力の投射後に塹壕陣地へ切り込む「筑紫の抜刀隊」で一躍その名を知られる。その後沙河会戦、奉天会戦、哈爾浜会戦のいずれにも参加。ハバロフスク攻略戦には参加しなかったものの、停戦直前の斉斉哈爾会戦では第3軍団最左翼をつとめシベリア軍団の後方に回り込むなどその名をとどろかせた。
1917年、第一次世界大戦に伴う欧州派遣においては遣欧軍集団の第1陣としてブレストへ上陸。1918年にはアミアン突破戦、リール会戦、低地地方突破戦のいずれでも主力をつとめた。
停戦目前のリエージュ会戦においてはドイツ陸軍近衛師団と激突。
アルデンヌ攻防戦と呼ばれる一連の戦いにおいて双方損耗率50パーセント以上というすさまじい戦いを繰り広げ、英国観戦武官をして「シマヅ・ザ・グレート・サムライ」という賛辞を贈られたことで欧州にもその勇名をとどろかす。
1918年5月21日の停戦時点において第6軍はドイツ軍前線を突破し、第63師団前衛はライン川まであと8キロ(ケルン近郊)地点まで前進していた。
その後は停戦監視のためにベルギー領内に駐留していたが、1920年の第一次ソ連・ポーランド戦争の勃発に伴い宿敵であったドイツ近衛師団とともにダンツィヒ絶対防衛戦に参加している。
1921年復員。
 

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最終更新:2014年01月21日 21:58