370 :ひゅうが:2013/11/04(月) 12:28:41

ネタ――大陸日本海軍計画 その1-ユトランド沖海戦

【前史】

日本帝国海軍は日露戦争終了時には20隻の主力戦闘艦を(拿捕含む)保有し、極東アジアにおいては最強の一角を占める大海軍を作り上げていた。と同時に、日清日露戦争の戦訓を受けて革新的な戦艦の建造にも着手していた。
のちに「薩摩」型と呼ばれるその艦は主砲に31センチ砲連装4基を背負い式に搭載し、巡航用にタービン機関を装備、さらに衝角を廃止するなど革新的な機構を多く備えておりこれの完成をもって日本海軍はまず満足するはずだった。
しかし、大英帝国はその先をいった。

ドレッドノートショック。

全タービン機関を搭載し副砲を廃止、主砲の公算統制射撃に特化した高速戦艦ドレッドノートの誕生は世界の海軍に衝撃を与え、これまでの戦艦を旧式化させてしまったのだ。
「薩摩」型を建造していた日本海軍や「ミシシッピ」型を建造中であったアメリカ海軍などは比較的その傷が浅かったものの、各国海軍は血眼になって追随を図った。
何しろ、それまで大英帝国が営々と築き上げていた大海軍は彼ら自身の手で旧式化したのだ。「今なら追いつける」というわけだ。
とりわけ国力伸長著しいドイツ帝国は大規模な艦隊法を制定し一大艦隊の建造を開始した。
そして二国標準主義をとる大英帝国はこれを座視せず追随。
建艦競争は必然的に性能の著しい向上を生んでいく。10年を経たずして主力となった弩級戦艦が旧式化していくという恐るべき事態は世界の海軍を再び戦慄させるに十分であった。

当然のことながら、いまだ最新鋭戦艦の建造という点では技術の不足を感じていた日本海軍も友邦からの技術導入を決定。
(この過程でドイツ上層部主導の軍艦発注に関する陰謀、通称『シーメンス事件』が発生しこれを仕掛けたドイツ皇帝ウィルヘルム2世への日本人の敵愾心をかきたてた)
日露戦争を前に大量発注を行った大英帝国に向け、主力艦建造と図面の購入を依頼する。
独自に発注案を練り上げていた日本帝国海軍艦政本部は主砲として30.5センチ3連装ないしは36センチ連装砲を主張。
喧々諤々の議論の末にこれが受け入れられ、また日露戦争の戦訓から大仰角で飛来する主砲弾への対処のため装甲をある程度重視(あくまでも英国基準に比べてであるが)した「高速戦艦」というべき艦種が誕生した。
これが日本初の超弩級戦艦「金剛」型である。

日本海軍はこの「金剛」型4隻と、これをもとにして速力をおさえ、代償として36センチ砲3連装砲塔を搭載した「扶桑」型4隻をもって「薩摩」型と「河内」型の4隻と戦隊を組む「四四四艦隊」を当面の軍備の主力として計画した。
もちろん、「扶桑」型を超える次期主力艦の建造も計画しておりそのために新型艦載砲の試験も開始されていた。
将来的にはこれらに加え、新型戦艦4隻、新型巡洋戦艦4隻を追加することで「八八艦隊」を整備することがこの時点(大正3年)での海軍の目標であった。

こうして順調に滑り出していた日本海軍の艦隊計画であったが、それは思わぬ形でつまずくことになる。
そう。第一次世界大戦である。


372 :ひゅうが:2013/11/04(月) 12:29:35

【ジェットランド・ショック】

第一次世界大戦において、日本海軍は中国大陸に展開するドイツ軍を排除する一方、日英同盟に則りその主力艦の半数以上を欧州へ派遣した。
開戦時において「金剛」型は大半が就役するか艤装中で、「扶桑」型は2番艦「山城」までが就役しており、日本海軍はこのうち「金剛」型2隻と「扶桑」を装甲巡洋艦4隻、前弩級戦艦3隻とともに欧州へ派遣したのである。
その成果はまずドッカーバンク海戦で発揮され、強力な36センチ砲と英国基準以上の装甲を有する「金剛」型はドイツ巡洋戦艦を半ば一方的に叩き潰す結果を生んでいた。

驚喜した英国海軍はさらなる派遣を要請。
1916年時点において「金剛」型全艦と「扶桑」「山城」の計6隻が欧州に展開していた。
これは陸兵の大規模派遣のかわりに行われたといわれており、日露戦争の痛手から陸軍が再編成を果たし訓練を修了させた1917年には50万に達する遣欧軍団が海を押し渡ったのであるがひとまずこれは置いておく。

こうして欧州でその存在感を見せつけていた日本海軍であったのだが、思わぬ大誤算が生じてしまう。
「ジェットランド決戦」あるいは「鉄血海戦」と称される英国本国艦隊とドイツ大海艦隊の壮絶な殴り合いが発生したためである。
この海戦は、イギリス中南部諸都市への艦砲射撃を企図したドイツ大海艦隊の出撃を英国グランドフリートが暗号解読により感知。これを撃滅しようと出撃したことにより生じた。
ドイツ側の針路は、艦砲射撃とそれを受けて出撃してくるであろう英国艦隊の撃滅という二重の目標(皇帝ウィルヘルム2世の横やりともいわれる)のため北海中央部へとられており、英国艦隊もこれを北海中央部で待ち受けるべく幾分南よりの針路をとっていた。
折しも5月31日は北海中央部に濃霧が発生しており
(註:史実である。これによりビーティー艦隊は北よりに変針し史実でのユトランド沖海戦が勃発する)
ジェリコー艦隊との合流を果たし戦艦56巡洋戦艦18を有する巨大艦隊に膨れ上がった英国グランドフリートは
(註:史実では海軍本部のミスによりドイツ側の出撃時間を9時間早く想定していたため合流に失敗している)
濃霧の中でドイツ大海艦隊と遭遇。なし崩し的に乱戦に突入してしまったのである。

開戦後10分もたたずに双方の戦艦部隊(本隊)旗艦同士が相打ちになり轟沈するという混乱状態に陥った。
ドイツ側はその優れた指揮能力をもってすぐさま第1戦隊司令シュミット少将へ指揮権を委譲しグランドフリート本隊へ向けて突撃できたのに対し、英国側はその指揮システム上の欠陥
(無線通信機器の情報飽和に対処できなかったことや測距儀があろうことか煙突後方にあったためただでさえ射撃統制が難しかった)から第1・第2戦艦戦隊間の連絡がうまくいかず隊列中央部への突入を許してしまう。
この状況をみてこれまで無傷で生き残っていた双方の巡洋戦艦部隊は互いに突撃を敢行。
後世「ビーティーチャージ」といわれる英国ビーティー中将の突撃はドイツ巡洋戦艦部隊との中距離砲戦に発展し双方が砲塔天蓋を叩き割られて轟沈し続けるという壮絶な死闘へと繋がった。


373 :ひゅうが:2013/11/04(月) 12:30:06

大混乱の中至近距離で巨弾を吐き出す本隊に対し、巡洋戦艦たちは遠距離から38センチや36センチというドイツ艦隊に勝る大重量砲弾を送り込みこれらを粉砕。
しかしそのあまりに脆弱な装甲から一撃で轟沈させられていった。
この、英国的に言うなら「ハッチパッチポッチ(ごった煮のツギハギ)」状態で日本海軍遣欧艦隊が辛うじて統制を回復できたのは英国側が殴り合いに夢中になっていたからに過ぎない。

遣欧艦隊司令 広瀬武雄中将は旗艦「扶桑」と「山城」をもってドイツ艦隊本隊の前で敵前大回頭を実施。
その砲撃を一身に受けつつ計24門の36センチ砲を五月雨式に突入してくるドイツ戦艦群に向けた。
その結果、この時点で生存していたドイツ第3戦艦隊司令モーフェ少将を旗艦「ドイッチェラント」ごと葬ることに成功し、自らも多数の直撃弾を受けるも辛うじて生存することに成功したのである。

このとき、轟沈と炎上の炎が薄くなってきた霧の海を照らし出す中で、自らの大破炎上する炎に浮かび上がった旭日旗と(半ばハッタリ混じりで掲げられた)Zの旗は英国艦隊残存艦艇の士気を天井知らずにまで叩き上げた。
第5戦艦戦隊司令 エヴァン・トマス少将は「トーゴーとネルソンに、ヒロセに続け!!」と無線と艦橋に向けて絶叫し、ドイツ艦隊では「トーゴーだ!トーゴーがいる!」という声が上がったという。
この時点で指揮能力を有していた最高位にあったトマス少将を中心として指揮系統の再編がなされた結果、海戦開始後2時間半が経過した頃にはグランドフリートは残存艦艇の再統制に成功。
ドイツ艦隊残存艦に対し効果的な攻撃態勢を作りはじめた。
対するドイツ艦隊も第4戦艦隊司令フォン・リヒテンフェルス少将が重傷状態から回復し統制を回復。
第2ラウンドを開始する。

互いの駆逐艦群が肉薄雷撃を仕掛け、さらなる被害拡大や実質的に戦闘力を喪失していた戦艦群が海底に送り込まれるという救いようのない状態が続くも、この一連の戦いの中でドイツ艦隊はついにその指揮能力を喪失。
残存艦艇は撤収を開始した。
一方の英国側も傷は深く、これにあわせて撤収を開始。
さんざんに撃たれた「扶桑」は広瀬中将らの退艦後30分を待たずに沈没していった。

このユトランド沖海戦の結果失われた主力艦は、戦艦22、巡洋戦艦13
うち日本海軍は「比叡」轟沈「榛名」(修復不能判定)「金剛」「霧島」いずれも大破。
「山城」中破。
まさしく血戦というに相応しい。
この海戦の結果、「巡洋戦艦は装甲が薄いと脆い」「指揮統制系統の混乱は致命的」という認識が生まれ、日本海軍は失った主力艦の補充とさらなる拡大を意図した八八八艦隊計画を開始するのである。


374 :ひゅうが:2013/11/04(月) 12:31:45

【あとがき】――八八艦隊モノ書こうとしたらなぜかユトランド沖海戦書いてた。
解せぬ…
あと題名は「ユトランド沖海戦」に修正でお願いいたします。
 

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最終更新:2014年01月24日 21:47