22 :ひゅうが:2013/11/03(日) 14:57:23

日本大陸SS――「関ヶ原の戦い概説」

――西暦1600(慶長5)年、欧州では日の沈まぬ帝国を率いたフェリペ2世が没し、その後を継いだ22歳のフェリペ3世が強大な帝国をいかに維持するかという苦闘をはじめていた頃、はるか極東太平洋でもひとつの歴史的な事件が発生していた。
世界最小の大陸、あるいは亜大陸群国家とも称される日本において、ある絶対君主が死去しそれに伴う権力交代劇が生じていたのである。
といっても、神聖ローマ帝国のように爛熟した組織や慣習にある意味縛られた平和裏のものではなく、一代で築かれた帝国の常としてそれは流血と硝煙に彩られた凄絶な大合戦によってであったが。

幸いというべきか、アレクサンドロスの帝国が後継者(ディアドコイ)によって分割されたときとは異なり、皇帝(天皇)にかわり政治を取り仕切っていた太閤豊臣秀吉の後継者は主に2人に絞られていた。
一人は、政権の中枢を担う大老であり、また東海一の弓取りとして名高い徳川家康。
もう一人はまだ幼児である豊臣秀頼、というよりは文官団の筆頭である石田三成。
彼らは、それぞれが用いることができるあらゆる手段をもって、本州と称される日本大陸本土の中央部、関ケ原に兵を集めた。

隣接する中国大陸よりも面積こそ小さいものの、この亜大陸群が養うことができた人口は当時のどの世界を見ても傑出した大兵力を集中することに成功していた。
その数、およそ90万名。
動員兵力はのちに日露戦争までの300年の間破られることはなかった。まさに天下分け目の戦いと呼ばれるのがふさわしい。
家康率いる東軍はその数50万。対する石田三成はその数40万。
しかし東軍である家康方は本州中央部の中山道を通して進撃する息子の秀忠隊およそ10万が信州に足止めされており(旧武田家家臣団による街道連絡網の破壊もその一因であった)遅参。
実質的には兵力は東西同等であった。
また、東軍は明征伐で猛威を振るった焙烙火矢(多連装ロケット砲の元祖)や大鉄砲などの装備の数や兵の質こそ西軍の石田方に勝っているものの、東軍の武器庫であった小田原兵糧庫に存在していた備蓄硝煙の量は家康の予想以上に少なく、もうひとつの会津兵糧庫は今まさに籠城中であるため使用できない。
このため、大坂の巨大な兵糧庫を有し金の積み出し港を抑えており近江国友や大阪の武器工廠をおさえている西軍が、時間がたつごとに圧倒的な優位を確立することが予想された。

対する西軍も優位とはいえない。文官団筆頭である石田三成は総大将として家康と同じく大老であった毛利輝元を担ぎ出していたものの指揮系統の統一に失敗しており、また三成自身の作戦指揮能力とその人望にもいささかの困難があった。
また、量産に成功していた大砲群はあっても、その運用に必要とされた馬匹群はその生産地である関東と信州ごと東軍がおさえていた。
かつては京都と尾張に存在していた豊臣政権の道馬司府――律令体制下で設けられた五街道整備とその間の交通維持のため馬と牛を飼育した幕府や鎮守府将軍を補佐する機関――も明出兵のために九州大宰府へ移転されている。
つまりは、補給担当能力に大いに不安があるのである。
西軍が関ケ原に陣を敷いたのは、こうした兵站能力の不足と指揮上の不安が理由であった。


23 :ひゅうが:2013/11/03(日) 14:57:54

こうした状況下、9月15日、両軍は美濃国関ケ原に陣取った。
数十キロ先には、古代に歌にうたわれた不破の関がある要衝の地である。
東軍はここを突破できれば近江沿岸の軍需工廠群を制圧し首都京都に入城できる。
一方の西軍はここを守り抜ければ濃尾平野をその支配下とすることができ長期自給体制を確立、国力面で互角以上となることができる。
さらには双方とも、勝てばこの国最高の権威となる朝廷を通じ、負けた方を朝敵とし錦の御旗のもとで討伐する名分がたつ。
いずれの陣営も自ら朝廷にとってかわり新たな王朝を興す意思を持っていなかったということに日本の戦国時代の特徴を見て取ることができるといえよう。


西軍は、9月14日までの間に関ケ原を囲む山岳部を押さえることに成功していた。
さらには大坂から近いという立地をいかして東軍を鶴翼という鶴が翼を広げたような陣形で半包囲する状態におくことにも成功していた。
これは、西軍が誇る大砲群や焙烙火矢の弾着観測を行う上でも射程延伸の上でも圧倒的に優位を確立することである。
さらには織田信長が確立した野戦築城戦法を応用し中央部に塹壕が掘られ、とどめに斜線陣が山岳部の砲兵陣地と十字砲火が成立するよう慎重に配慮がなされ、とどめに西軍の数少ない胸甲騎馬鉄砲部隊が乱入できるように手筈が整えられていた。
光学観測情報は鏡反射信号(発光信号)だけでなく旗振り信号と伝令で本陣へ伝えられ、それにあわせて全軍が動くべく各軍内にも伝令と信号担当が控えるという念の入れようで、これほどの観測体制と連絡体制はさすが明出兵で辣腕をふるった三成であるともいえよう。
だが、この濃密な連絡網こそが三成の命運を決してしまう。

この時点で家康は西軍諸将への調略を成功させつつあり、中立を試みる諸将へもその手を伸ばしつつあったのだ。
そのやりとりは関ケ原への対陣中も、当の石田三成が整備した連絡網を通して行われていた。
そして、周到な家康はすでに関ケ原周辺の地形と詳細な観測データを手に入れていたのである。
これは、射撃に必要となる標高および地質や気象情報などをはるか以前から収集していたことを示しており、このことがのちに大きな意味を持つ。

9月15日払暁
関ケ原は霧で覆われた。
中央高地と近畿の山々から下へ降りてくる冷気と琵琶湖からの暖かな湿気が出会い生まれるこの地方独特の光景である。
しかしこの日の特に霧は濃かった。
霧の中で両軍は偵察からの情報を頼りとして互いの布陣を整える。
この地方は首都京都に近く、古代以来整備が続けられていた街道も支線が数多く存在する。
また、不破の関周辺の放牧地兼練兵場でもあったため大軍の展開は比較的スムーズに進行したといえるだろう。
拍子木と太鼓を用いて歩調をあわせ、各軍は先頭に鉄砲足軽を置き隊列を組む。
朝日が昇り切る頃、両軍は互いを視認する。
近い。
大砲の射程ぎりぎりである。
家康の入念な調査がなければ濃霧が晴れると同時に東軍は西軍の一斉射撃に倒れていたはずだった。
さらに大砲を撃つ側も、一度の砲撃を実施すれば再装填中に騎馬部隊による突撃を受けるという距離である。
中・遠距離での砲撃戦という手段はこれで失われた。


24 :ひゅうが:2013/11/03(日) 14:58:45

2時間あまり両軍は対峙する。
家康軍はどういうわけか自軍が大量保有する焙烙火矢部隊を中央部に集めていない。
射程において大砲に勝る焙烙火矢部隊は左右両翼にて西軍の砲兵陣地を睨む。
そして西軍松尾山には、小早川秀秋率いる決戦部隊となる鉄砲騎馬部隊が存在していた。

霧が薄くなってきた午前9時、ついに、井伊直正率いる部隊が西軍に向けて射撃。
ここに戦端が開かれた。
初手は双方ともに鉄砲足軽による射撃戦とその間をぬっての歩兵戦であった。
これは双方が双方とも自軍の大砲射程内へ敵を引きずり込もうとする機動であったのだが、お互いにそれを意図していることを察知し即座に後方への浸透を図る方針へと変更。
結果として中央軍同士は正面から激突することになった。
このとき、西軍側面を固める小早川秀秋隊は動かない。
すでに内応が図られていたこともあったが、東軍の中央後部、徳川家康隊前面(桃配山斜面)には見せつけるかのように焙烙火矢を満載した「火中車」が斜面にずらりと並べられており仮に西軍が関の藤川を渡河したのならそのさ中に一斉射撃を加える態勢をとっていた。
しかもその下、十九女湖畔には最精鋭本田忠勝隊が待機しており、小早川隊が中央翼に向けて射撃を行ったのなら即座に松尾山方面へ突撃する態勢がとられている。
内応などなくとも動きにくい情勢である。
さらには東軍の後方である南宮山に陣取る毛利秀元隊には様々な理由(宰相殿の手弁当)によって積極性がなく、結果的に西軍は西国諸大名部隊ではなく自らの主力部隊のみで戦わざるを得なくなっていた。

戦闘開始から2時間が経過しても、戦闘は中央軍中翼同士の潰しあいに終始していた。
方陣を組み野戦騎馬部隊の突撃に耐える足軽部隊(スペインのテルシオというよりはワーテルローの英国擲弾兵に構図としては近い)と、平押しを図る鉄砲・槍足軽部隊、そして後方へ回り込もうとする騎馬部隊という構図である。
双方ともに層が厚く、さらには両軍入り乱れた乱戦状態となっていたため虎の子の大砲による一斉散弾攻撃は不可能となっている。

ここで家康が動いた。
鏑火矢と呼ばれる風向き・弾道観測用の火矢を松尾山に向け発射。続いて、大砲の空砲射撃を実施したのである。
さらには本陣をゆっくり左に旋回させ、それに呼応するように旗本部隊が関の藤川前面へと移動の構えを見せた。
「裏切りなくば、本陣もろとも小早川率いる西軍右翼を食い破る。」その意思を示したのである。
東軍がほとんどの重火力をここに集中していたことがここで生きた。


25 :ひゅうが:2013/11/03(日) 14:59:20

ここに至り、小早川秀秋は内応を決断。
歴史に残る裏切りの結果、大砲斉射とともに松尾山を駆け下りた西軍虎の子の騎馬鉄砲部隊は西軍に対しその威力を発揮する。
続いて、がら空きとなった西軍右翼に向け家康本陣と「火中車」部隊が前進。
混乱する西軍中央部が情報飽和状態となり指揮能力を喪失する中悠々と布陣を整えた。
そして、一斉射撃。
総数10万ともいわれる大量の焙烙火矢と1万の大砲が一斉に叩き込まれた西軍中央は大混乱に陥り統一的な指揮能力を喪失した。
そして家康率いる主力が渡河を開始するに至り、西軍は壊乱。
小早川隊の進軍と呼応し福島正則隊と本田忠勝隊が西軍左翼へ向け騎馬突撃を敢行。
東軍が有する大量の騎馬鉄砲部隊と騎馬部隊の突撃を受け西軍中央部の宇喜多隊は全滅。
指揮官である石田三成も重傷を負い、伊吹山方面へ逃亡するに至り、勝敗は決した。

なお、この後西軍島津隊は渡河直後の家康本陣へ向け一斉突撃を敢行し「敵陣中央突破での退却」を成功させていることを付記しておく。


――かくて、9月15日午後3時までに勝敗は決した。
東軍は大勝し、のちの江戸幕府へつながっていくのである・・・。

26 :ひゅうが:2013/11/03(日) 15:01:18

【あとがき】――火力戦関ヶ原をコンセプトに書いてみました。
なお織田豊臣政権が弾薬庫へ備蓄する分だけ大量に硝煙を買いまくったために金が欧州に流入し、価格革命とスペイン帝国のデフォルトを誘発したことをここに付記しておきます。

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最終更新:2014年01月26日 16:29