707 :598:2013/12/04(水) 17:59:08

>>598です
みなさま色々とありがとうございます。
調子に乗って大陸版パリ講和会議も書いてみました。

「これはどういうことだね諸君!」

1919年1月。大戦の終結から約4ヶ月後、大戦後を話しあうために開かれたパリ講和会議において、 フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーは【虎】の異名に相応しい眼力で連合国の首相達を睨みつけていた

「どうと言われましても、講和案としては妥当だと思われますが」
「うむ、連合国への賠償金(ドイツ側に配慮してアメリカ風邪への見舞金と対策金と記載)として皇帝の私財国庫から一括で40億金マルク。分割で200億金マルク。そしてドイツの持つ植民地利益の割合提供、さらにヴィルヘルム2世の退位。国同士の個別保証や、潜水艦による被害保証などは個別となるが、落とし所としては悪くなかろう。」

だが睨みつけられた二人、西園寺公望元首相とイギリスの デビッド・ロイド・ジョージ首相は、そういってジョルジョの眼力をスルリと躱わした。
それがまたジョルジュの怒りに火を注ぐことになる。

「ふざけるな! この程度の賠償の為に我が国は多くの血を流したというのか!何かも足りぬ、最低でもライン川左岸を占領する程度の事はせねば、野蛮なボッシュ共が何をしだすかわからんだろう!」

そういって恰幅の良い体躯を怒りに震わせるジョルジュを、残る二国の代表は冷めた目で見ながらこう突き放す。

「犠牲になったのは貴国の兵士だけではありません。それにこれは引き分けた戦争の講和条約です。これ以上の譲歩をドイツに求めるのは戦後体制に悪影響を与えかねません」
「そもそも休戦交渉を行ったのは貴国ではないか。勝利を自ら手放しておいて講和の席で勝者の権利を主張するのがフランス人の流儀かね?これ以上の保証を望むなら、あの疫病神の植民地人共にたかるのだな!」

そう、どのように言い繕おうが大戦は勝者なく終わった。勝者がいないのだからドイツが敗者であるかのような無理な要求はできない。まして引き分けた戦いとして考えるなら、ドイツ側の講和案は十分すぎるほどに譲歩されたものだった…しかし


708 :598:2013/12/04(水) 18:01:51

『それは国土が戦火に晒されなかった貴様らだから言える言葉だ!』

大戦初期からドイツに蹂躙され、トドメにアメリカ風邪のパンデミックの被害にまであったフランスにとって、この講話内容はとても納得できるものではなかった。
本来であればアメリカからも相応の賠償金を取ることでドイツの不足分と出来たかもしれないが、今回の一件をウィルソンと民主党に擦り付けるために、講和会議に合わせて弾劾を行っている彼らにまっとうに支払う気があるとはとても思えなかった

「ともかく…受け入れることはできない。講和案はこちらから提出する」

そう言って頭を垂れて椅子にもたれ掛かったジョルジュを見て、二国の代表はドイツ外相との話を詰めるために席をたつのだった。

パリ講和会議。後にヴェルサイユ体制と言われる戦後体制における仏・独の立場の差は、大戦末期における戦後構想の差であったと言われる。
すなわちほぼ負けが確定的となり、如何に被害少なく負けるかという戦中外交の中で奇跡の引き分けを得たドイツと、アメリカの参戦によって勝ちが揺るがないと考え、戦勝国として戦中外交を行った中で屈辱の引き分けとなってしまったフランス。この構図がそのまま反映されたのだと

かくて後に「赤きフランス誕生の母」と一部で揶揄される講和会議はフランスとの交渉紛糾数多く繰り返しながらも、なんとか1919年内に締結され、人々は晴れて戦後を生きだすのである。

以上です。
>>598,599 も含めて転載その他ご自由にお願いします。

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最終更新:2014年01月26日 16:33