760 :ひゅうが:2013/11/10(日) 20:51:25

ネタ――大陸日本の明治維新――明治維新試論 「移行期間~公武政府への道~」

開国、そして日本の夜明け…
1854年の開国以後、欧米列強は争うように日本へと到達した。
ある種神がかり的であったといわれる孝明天皇の「御聖断」によって江戸幕府創立以来の制限国交論を一気に開国へと転化させることに成功した江戸幕府であったが、その後の方針を巡って関ケ原以来の親藩譜代大名――つまりは幕府中枢を構成する「年寄衆」と、鎖国の恩恵を受けつつ自ら殖産興業に成功しつつあった雄藩、そして巨大な既得権益層であった武士階級の内部でも対立が噴出した。
関東地方こそ、天下の副将軍として関東最強の名をほしいままにしていた水戸徳川家が中心となった「関東守護職」によって安寧が保たれていたものの、御聖断を受け新体制へ刷新の機運が高まりつつあった近畿地方においては、勃興しつつあった商工業関連資本を保有する薩摩島津氏、安芸毛利氏、土佐山内氏らの家中にあった下級武士たちが蠢動しつつあった。
そしてその裏にあっては、開国により独占的な権益を失うことになる長崎商人や大坂商人などの資本階級が諸外国資本と繋がってこれまた蠢動しつつあったのである。

あえて要約を試みるなら、幕府自らが抜本的な体制刷新の方針を支持しているのであるがその後の「日本」についていかなる体制を構築すべきであるのか悩み、その間隙をぬって各人が各人の最大の利益を享受せんとうごめいていたといえるだろう。
そんな中にあって、こうした状況を憂慮していたのは政権の頂点にいた人々と、傍流のそのまた下部にいて情勢を冷静に俯瞰しえた人々であった。
水戸徳川家、土佐の海援隊一派、幕府海防方といった人々がそれである。
彼らは、当時勃興しつつあった英国のジェントリに似た読書階級に属しており、江戸時代の安寧の中にあって発達した自由な学問の雰囲気の中で高度な学識を身に着けた人々であった。
8代将軍徳川吉宗によって宗教書をのぞけばほとんど自由になった洋書の和訳、そして蓄積されつつあった資本を用いた日本における「動力革命」(産業革命の前段階として交通から蒸気動力が用いられはじめたことからこの名がある)は、政治に関与する必要を失っていた武士階級の次男三男という「部屋住み」層と、沿海交易によって巨万の富を蓄積していた御用商人の「下請け」たちによって実質的に推進されていた。
そしてその際に作られたネットワークは、街道筋を幕府一元支配のもとにおくべく存続されていた道馬司府や沿海交通料金の価格競争によって驚くほど簡単になっていた「交通の自由」に支えられながら拡大。
重商主義華やかなりし田沼時代においてほぼ全土を網羅し当時に至っていたのだ。

このネットワークを通じ、盛んに議論が交わされる。
「日本はいかに進むべきか」そして「そもそも日本とは何ぞや?」
こうした議論には、これ以前の約1世紀の間に発達しつつあった歴史学や哲学の体系「国学」、そして西洋から輸入された哲学書や理学書を和訳する過程で発達した「蘭学」が大きな役割を果たした。
朝廷や幕府は伝統的に焚書を忌むべきこととしていたために出版禁止と版木没収はされても原本と自筆書写についてはこれが黙認されており、高名な学者は出版をもって、無名の志士たちはそれに付属する解釈書や小論集「同人誌」をもって日本中で意見を戦わせたのである。
たとえば、大坂の適塾と江戸の昌平坂学問所は互いに新たに出版する書籍を送りあい、批評と学問論争を行っていた。
こうしたやりとりは、アメリカ独立革命において大きな役割を果たした新聞の役割を担っていたといえるだろう。
当時の諸外国における教育が一部の階級に限られていたのに対し、当時の「私塾」と呼ばれる場所では身分制はまったく意味をなさず、いったん門をくぐれば百姓農民の類と幕閣の子弟が議論を戦わせ、公家の子弟が短歌や漢詩の指導を行うといった光景が日常化していたのである。
こうした環境の中にあって形成された自由な空気は、そこに出入りしていた下級武士の手によってネットワークに伝わり、のちの「大政奉還」、「五箇条の御誓文」といった大改革に結実していくのである。


761 :ひゅうが:2013/11/10(日) 20:55:19

こうした動きが開始されたのは、1855年、水戸の一橋慶喜と幕府軍艦奉行並勝海舟が大老井伊直弼らと連絡をとりはじめた時にはじまるといわれるが、驚くべきことにこの段階において有力な歴史研究の一派である「牛一講」(太田牛一を開祖とする戦国時代の戦術研究を中心とした一派)と政治批評を中心に活動していた「祇園講」(平家物語冒頭に由来する名前)が諮問機関として参加している。
のちに、この中には土佐勤王党や薩摩・長州の下級武士たちも参加。
雄藩たちが京都に設けられた「評議所」で泥仕合を行っている間にほとんど根回しを完了させてしまうのである。
土佐の坂本竜馬による献策を受けた幕府独断での「大政奉還」と「公武政府発足」という驚天動地に措置がそれであった。

焦ったのは、今こそ政権をと逸る雄藩たちの上層部や幕府軍を構成する人々であった。
すでに孝明天皇の信任にもとで設置されたこの政府は幕府と新政府の間の移行期間を担うものであったが、この後8年後の明治改元に伴う本格的な新政府発足までの間「薩英戦争」と「四国連合艦隊下関砲撃事件」といった苦難を日本は経験することになる。
最終的には幕府守旧派によるクーデターを幕府最後の将軍となった徳川慶喜と新編なった薩摩・長州・会津連合軍を中心とした官軍が一撃のもとに叩き潰すことで明治新政府は名実ともに日本唯一の統一政府として発足の時を迎えたのであった。

とかく議論が白熱しがちで、かつテロリズムが横行、外国からの圧力が加わるなど評判が悪い公武政府であったが、こうした「外科的一撃」によって最小限の混乱で維新を成功させたこと、そして諸外国による植民地化の危機の間付け入る隙を最小限にとどめたことは大いに評価に値する。
何より、日本の進むべき道を国民全体が考えるという意識が生まれ、共通の合意が成し遂げられたことは徳川慶喜をはじめとするこの公武政府を担った人々の狙い通りであったといえるのではないだろうか。
彼らは混乱の責任をとる形で身を引き、明治新政府は最良の形でその船出の時を迎えることができた。
この結果がすべてを物語っているといえるのではないだろうか…


762 :ひゅうが:2013/11/10(日) 20:56:12

【あとがき】――というわけで、幕末大陸日本の夢幻会のみなさんとその他の皆さんががんばったお話でした。
誤爆失礼しました…


767 :名無しさん:2013/11/10(日) 21:10:40

諸外国「少し前までそれ程纏まりが無かったと思ったら気づけば恐ろしい統一国家になっていた…一体どういうことなの……」


768 :ひゅうが:2013/11/10(日) 21:17:12

>>767
日本「欧州でいえば神君アウグストゥスの直系が存続しておられ、彼とカール大帝の子孫が改革を起こすべきと命じられたのですよ。」
ドイツ・フランス「「納得した。(てかそれどうやって逆らえるんだよ!?)」」


769 :名無しさん:2013/11/10(日) 21:19:17

誰も逆らえねえwwww


770 :名無しさん:2013/11/10(日) 21:19:35

逆らえるわけがありませんね~。


771 :名無しさん:2013/11/10(日) 21:19:38

なるほどwww

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最終更新:2014年01月29日 21:02