140 :ひゅうが:2013/11/06(水) 22:49:03

※ 日本道路公団かく戦えり(1000年を超える事業的な意味で)ネタですw

ネタ――「道馬司府」wiki風

――道馬司府(みちましふ みちうまのつかさ どうばじふ)は古代日本における官庁のひとつ。その名の通り街道網の整備維持と朝廷が使用する馬匹類の生産を担当した。
律令官制に記された官庁であり、平時における官制上は令外官(りょうげのかん=律令に記されていない臨時の官庁)である鎮守府や幕府に優越していたため交通や牛馬の流通に多大な影響を近代まで保った。

【概要】

日本における街道網の整備は、紀元前12世紀頃の馬部民(うまべのたみ)と呼ばれるスキタイ系騎馬部族の伝来とほぼ同時に開始された。
日本書紀において綏靖天皇5年記に「外つ国の馬民、常世神の荒御霊(脱皮する虫を示す、つまりイナゴや低温)より逃れ来たりて助けを求む」とあるので、中国大陸における大飢饉(極度の低温)と殷王朝末期の混乱を逃れて渡来したものと思われる。
彼らの残した馬司型小型円墳の壁画には彼らが日本大陸に土着し、農耕と牧畜に従事しつつ街道網の整備を行っていたことが記されているためこのころすでに基本的な性格は決まっていた模様である。
また大和地方および九州地方から木を埋め込んだ道路が作られており、かつこれが直線を基本としていることから道路建設の初期は軍事目的が主であったと思われる。
その後、大和朝廷直轄の事業として優先的に力がそそがれた模様で、厩舎跡と古代街道の支線はほぼ同時代に増築が繰り返されたことが考古学的に明らかになっている。


141 :ひゅうが:2013/11/06(水) 22:49:52

【古代】

伝説によれば厩戸皇子(聖徳太子)のもとでそれまで軍が行っていた街道整備と地方官が行っていた街道整備を統合し設けられたとされているが、白村江の戦い以後に地方政権から軍事力となる馬匹の管轄権を取り上げる改革の一環であったとすれば一抹の史実を示しているともいえる。
現存する最古の律令となる近江令においては太政官のもと前身となる「路馬局」が設けられ、正三品以上(大納言以上)が担当するなど初期からその地位は非常に高かった模様である。
大宝律令においては、兵部省や馬事寮に存在していた馬の管轄権も一体化し、「道馬司」が設置。
道路建設と厩舎の維持のために独自に道路周辺で商業を行える特権を付与され、これに伴い道路規格も決定された。
「大道(幅員215メートル以上)」「中道(215メートル未満165メートル以上)」「小道(165メートル未満105メートル以上)」を基本とし、令制国と地方をまたいだ直線道路を整備しつつ各国ごとに所定の馬匹を用意することが任務とされ、またこの頃から石畳式や素焼きレンガ・堅土式の舗装が行われるようになった。
国や地方をまたいで商売が可能な道馬司は道路整備を行いつつも急速に発展し、朝廷の財源としても大きな役割を果たしていく。
そのため養老律令においては太政官の中でも別格の扱いとして「道馬司府」として独立。
左右両大臣または太政大臣の指揮を受け、かつ摂関政治における貴族・朝廷共通の財源として扱われることになった。
この際の財源の扱いについては律令の解釈である「令解」で何度も改訂が行われており、武家政権時代においては幕府などと何度も定書が交わされれている。


【中世から消滅まで】

街道筋での商売権を独占していたため座や市の上部組織となり、大いに発展した。
しかし武装を制限されていたために絶対的なものとはいえず、各地の武士たちとの関係を保ちつつ街道整備にのみ専従する半ば独立機関として扱われるほかは自ら武士団へと資金を提供することで自らの安全を確保した。
鎌倉時代は不輸不入の特権を保証され、御家人とではなく幕府と直接の関係を持つ。
南北朝時代においては中立を堅持したために両朝合一においてはその仲立ちをつとめたことが神皇正統記に記されている。
室町時代においてもこの体制は堅持されたものの、応仁の乱後の戦国時代には焼き討ちや各地の出先機関が占拠されることも多くなった。
こうした中で、織田信長は自ら港湾都市における商業への参入権や多額の資金と引き換えに楽市楽座の導入に成功し、以降豊臣政権下でも関係は良好に推移した。
日明戦役(朝鮮半島出兵)においては畿内に設けられていた官庁機関と牧場を九州に一時移転し、同時に古代時代の再建という形で各地に厩舎が建設。
徳川幕府の時代においては「馬扱御免状」を発行され、京都所司代よりも上位の幕府監督下におかれた。
のちの産業革命まで日本の街道を通る牛馬は「道馬司府」に使用料を払うか、馬を買う必要があった。
日本初の鉄道となる東海道馬車鉄道や、蒸気鉄道横浜線は道馬司府の資金提供によって建設されている。
明治2年、組織は太政官に統合されることで消滅。
しかしその機構は現在の内務省に引き継がれており、その名残を各地の「月(築)祭り(つきまつり=道路整備の様子を示す祭り)」や「馬追い祭り(一定以上の品質の馬を作るための検査の様子を示す祭り)」にとどめている。


142 :ひゅうが:2013/11/06(水) 22:51:34

【あとがき】――というわけで、日本大陸における街道整備を担ったプロ集団のお話でしたw
彼らが延々と整備を行った道路網は近代化において大いに役に立ったことでしょうw


144 :ひゅうが:2013/11/06(水) 23:02:36

この大陸日本で「道間(みちま)」とか「月辺(つきべ つきなべ)」さんとつく人は間違いなく先祖にこうした技術者かその関係者がいるでしょうw
なお、元がスキタイ系ですので、金髪に人も多いとかw


153 :ひゅうが:2013/11/06(水) 23:15:32

>>149
「敷く道は 南冥薩摩を打ち出でて 北辰蝦夷地に勘察(カムチャッカ)へ伸ぶ」という狂歌がうたわれ、それが彼らの誇りとなっていますw
職人になると日本人って長持ちしますよねw


156 :ひゅうが:2013/11/06(水) 23:21:52

なお、徳川幕府の時代では街道修復にお金をだし、ついでに自分のところの町まで道を引いてもらうというのが流行。
大口出資者は石碑に名前が記されたり、街道に自分の名前がついたりするという「名誉」がありました。
また、参勤交代などの時には藩の行列が街道筋の宿を格安利用できたり、官庁差し回しの馬車で送ってもらえたりということも。
追加料金でどんどん豪華になったり快適になったりしますw

ちなみにこの世界で鉄道網は、道中の滞在日数圧縮のためにむしろ歓迎されたとかw


157 :名無しさん:2013/11/06(水) 23:25:29

つまりアレですか
道頓堀みたいな感じになると

158 :ひゅうが:2013/11/06(水) 23:29:05

>>157
はい。たとえば「日光仁兵衛街道」(日光街道から伸びた支線で仁兵衛さんがほぼ全額出資)とかw

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最終更新:2014年01月29日 21:04