480 :ひゅうが:2013/11/08(金) 22:29:30

※人は石垣人は掘的ななにかw

ネタ――「穴生衆(あのいしゅう)」wiki風

穴生衆(あのいしゅう)はかつて存在した日本の建設集団、江戸城天守閣の建築や江戸時代の河川修築など水に関する土木分野においてほぼ独占的に業務を行った。
現在の「帝国建設公業グループ」の前身である。

【概要】

室町時代以前は三河国天竜郡に土着した石工の一族であったとされる。
穴生家文書によれば始祖は忌部氏の一族で御陵建造に関わっていたが日本武尊に従って関東へ下向し野戦築城や架橋を行ったとされる伊秦人(いみのはたひと)である。
その後朝廷のもとで街道整備が組織化されるに従い、河川護岸に動員された月森人(つきもりひと)として働いていたことは確かなようで三河国国府文書延暦3年4月条に記録がみられる。
鎌倉時代には幕府御家人鵜飼氏のもとで天竜川沿岸の護岸工事と船橋建築を担当。
その後の徳川氏による抜擢につながっていく。
またこの頃から甲斐国や信濃国の金山と関わりはじめたようで、「大窪者」の記述が増えていくことから、要衝天竜川の交通維持を担当することによる安定的な財源をもとに鉱山開発を進めていたと思われる。
また、承久の乱においては中立を維持した道馬司府にかわり鎌倉幕府方として輸送網の維持を担当したとされ、「大功」を称賛する北条政子からの書状が現存する。
彼らが一躍脚光を浴びるのは、元寇における水城長城修築と大宰府防衛陣地の構築である。
この事業の統括を任された当時の伊(いみ)氏は、乱雑に見えながらも頑丈極まりない野面積の開発や、斜線陣を構成する土塁の急速築城という現代でいう野戦築城術を開発し上陸してきた元軍第一波を退ける原動力のひとつとなった。
その功績から「穴を以て日ノ本を生かせる者」と称され、自ら「穴生」と改姓した。
このときに日本中から集められた石工や大工などとのつながりができたとされる。

その後南北朝時代においては盛んに築かれた山城の石垣の建造に携わり、全国規模の組織化が同時に図られた。
そのため室町幕府においてはいわゆる「河原者」の中にあって、数少ない「悪党」ではない者として「花の御所」において士分の扱いをされていた。
しかし、第五代将軍足利義氏のときに比叡山延暦寺の防備に関わったとされ京の屋敷を没収され、応仁の乱の際には当主自ら奮戦するも本家一族が討死。
尾張家と美濃家、そして三河家に分裂し戦国時代を生きることになる。
このうち尾張家は織田信長の天下統一に貢献したが本能寺の変で撃ち滅ぼされ、美濃家は変後に三河家と合一(党首同士の婚姻による)。
以後、徳川家康の配下として豊臣政権下の数々の建築事業に携わった。
現存する大阪城の石垣や肥前名護屋城石造天守閣などは彼らの手によるものである。

江戸幕府においては当初は大久保長安のもとで、のちに徳川家光によって幕府普請組として河川修築と運河建造など「水が関わる工事」において御免状が発行されこれを独占的に行う許可を得た。
当初から「天下普請」にはかかわっていた模様で、各藩には「公儀御用」として彼らの使用が義務付けられ、また江戸城の築城は彼らが差配して行われた。
この頃には石垣の「金輪繋ぎ」が開発されており、日本国内で耐震石造建造物を作り上げることが可能となっており、これが江戸城天守など「現存38天守」を今に伝える原動力となっている。
また、利根川付け替えという天下の難工事においては3代58年にわたり携わり、これを成し遂げたことは日本土木史上に特筆されるだろう。
彼らの作り上げたもので最も難工事となったものは、その代々の事業となった天竜川治水事業であろう。
のちに「中央構造線堤防群」と呼ばれる全長3700キロに達する見事な石垣と土塁の帯はようやく第11代将軍徳川家斉の時代(文化元年 1804年)であった。
また、幕末期に建造が急がれた日高見島(北海道亜大陸)の「七つ星」と称される星形城塞群の建造に際しては一族を挙げて箱館(函館)へと赴任。
過酷な環境でこれらに加え千島列島の諸館や樺太大泊城と敷香城の築城を成功に導き、のちの北方の領土画定に大きな影響を残した。
明治2年、時の当主 穴生辰之助のもとで「帝国建設公業(国家の公業を担いその助けとなるという目標を示したとされる)株式会社」として組織は再編。
現在まで日本最大の土木系建築集団として今に至る。
特に大規模プロジェクトにおいてその技術力に定評があり、また歴史的経緯から文化財の修築についても力を注いでいる。
現在のグループ会長は穴生由理埜。

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最終更新:2014年01月29日 21:05