597 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:11:12

大陸日本ネタSS――「ウィーン輪舞曲―ある20年の物語―」

――西暦1914(大正4)年6月28日、この日、世界は変わった。

「新世紀の幸先、はなはだ悪し。」

この14年前に夏目漱石がロンドンで女帝の葬列を見やりながら感じたように、20世紀は大量殺戮の世紀となろうとしていたのである。
そしてその端緒として一人の生命が供物としてささげられようとしていた。
オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンド大公。
彼は決して望んでこの地位にあったわけではなかった。

彼の甥にあたる存在であった皇太子は偉大すぎる父親、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の存在に押し負けるかのように情婦と自殺をするというスキャンダルを起こしており、また帝国の前途は控えめにいっても好ましからざるものであることはすでに明白になりつつあったからだ。

800年の歴史を誇る名門ハプスブルグ家。
かつては双頭の鷲の旗のもと欧州の過半と新大陸を含めた世界の4分の1を支配した大帝国も、今は民族自決や市民社会の台頭によって支配のタガがゆるんでいた。
産業革命に乗り遅れ、国民国家の形成に失敗しつつあったことも致命的だった。
しかも彼らは、よりにもよって火薬庫も同然なバルカン半島で領土問題と民族問題を抱えていた。
そしてこの日、よりにもよってその対象であったセルビアの青年が軍事演習の視察に訪れたオーストリア皇太子に対し懐に隠し持った拳銃を向け、5発の弾丸を発射したのである。

他の列強に乗り遅れた老帝国に対し、新興独立国であるセルビアの青年が皇太子暗殺という挙に出た。
この一事に、誰もが戦争を予感した。
しかものちに明らかになるように当時の欧州世界は複雑な同盟関係を結んでおり、一か国が戦争に参加すれば他の列強が連鎖的に参戦し欧州全土を巻き込んだ世界大戦が勃発しかねない危険な状況にあったのだ。

だが――この後6か月間、戦争は発生しなかった。
なぜなら、この時、今ではない「どこか」の歴史を生きた者たちが悲劇の阻止に立ち上がっていたためである。

彼女の名は今は伏せる。
ただ、極東の亜大陸島嶼国家の闇にうごめく(笑)秘密結社に身をおいていることは記しておこう。
彼女は、一人の女性を核として世界大戦の悲劇――というよりはある夫婦の悲劇を阻止しようとしていたのであった。

皇妃エリーザベト。
シシィと呼ばれたオーストリア・ハンガリー帝国の皇后である。
本来ならばすでに歴史の表舞台から退場していたはずの女性は、この世界においては健在であったのだ――


時をさかのぼること16年――1898年9月10日、スイスのレマン湖畔。
この日、「旅行の皇妃」エリーザベトは無政府主義者の手によって暗殺されるはずだった。
だが。
「危ない!!」
完ぺきなエスターライヒ・ドイツ語だった。
エリーザベトは突き飛ばされ、次の瞬間奇妙な格好をした女性が刃物を持った目つきの悪い労働者風の男を投げ飛ばしていた。
女性が着ている装束が、極東の帝国においてワフクやハカマということをこの後でエリーザベトは知ることになる。


598 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:11:45

東洋の妙齢の貴婦人が「欧州の宝玉」と呼ばれたエリーザベトの命を救った。
この一事は欧州社交界の話題となり、女性は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の個人的な招きを受けることになる。
姑の陰湿な嫌がらせに神経を参らせて年の3分の2を旅の空を生きたエリーザベトへ向け、一日一通以上の割合で手紙を書くほどの愛妻家であった夫は公人としてだけでなく個人としても妻の命の恩人に礼を言おうとしたのだ。

そして在位半世紀を数えようとしていた皇帝は驚く。
東洋の神秘というべきか、女性は成人をとっくに迎えていながら欧州人からみれば少女といってもいい。しかも極東の皇室に連なる一族の出身らしくどこか神秘的な雰囲気を持っていながら欧州社交界でも通用する完ぺきな礼儀作法を身に着けていたのだ。
愛する妻が再び旅の空へ向かうことを止められないことを悲しみつつ、皇帝は、欧州に自立して生きるためにやってきたというかの女性に懇願した。

「愛する妻の旅先での支えになってはもらえないだろうか。」

エリーザベト自身も女性を気に入っており、この話は承諾される。
そして、皇帝自身も想像さえしなかったことだったが、このことは彼に数十年越しの安らぎをもたらすことになったのだった。

女性は長い歴史の中で語り伝えられていたという日本の貴族社会で生じた悲喜こもごもの話、ことに嫁姑の間に生ずるあれこれやそれに対する夫の苦悩などをまるで見てきたかのように語り、エリーザベトの傷ついた、ともすれば意地っ張りな心を少しずつ解きほぐしていったのだ。
そして女性は、雇い主と雇われの身分差を超えてしばしば近況報告の手紙に夫である皇帝の奮起を「控えめに」要望する。
半ば以上におせっかいであったのだが、息子を心中という悲劇で失っていた夫婦にとりそれは何よりの良薬となった。

結果、エリーザベトの旅とウィーン暮らしの日にちの比率は逆転。
すでに年老いた姑が己の否を認めて久しいこともあり、二人は数日間の激しい喧嘩の末に、まるでそこにいるのが自然であるかのようにすとんとおさまった。


事態を知ってハラハラする極東の某秘密結社をよそに、オーストリア国民はこの「語られざるおせっかい」の結果を歓迎した。
こうした風潮は、1901年に皇太子フランツ・フェルディナンドが再び日本を表敬訪問するにおよびさらに高まり、時ならぬ日本ブームがウィーンで起こるほどだった。
そしてその後も、女性は控えめに皇后の身近くに侍った。

――彼女は、その立場から欧州社交界を通じてある種の「王室外交ルート」をこの世界の日本に切り開いていったのである。


――そしてもう一方で密かに歴史は書き換えられていた。
こんどの舞台は、新興国であるドイツ帝国。
何が起こったのかはこの称号と名前を見れば自明であろう。

「摂政皇太子 ウィルヘルム・プロイセン」

病身から恢復したものの政務の補佐役を必要とした皇帝フリードリヒ3世が、皇太子であるのちの皇帝ウィルヘルム2世に授けた称号である。
彼は、英独間で対立する侍医団にしびれを切らしたドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクによって強引に呼び寄せられたある東洋人の医師の手によって延命に成功したのである。

彼は、咽頭ガンだった。

切除をいとった侍医団に対し、ドイツ語でアウストラという名の医師はこの世界では初となるある手法を提示する。
ラジウム療法。のちに、放射線治療と称されるこの方法は、7年後にウィルヘルム・レントゲン博士によってX線が発見され物理的定量がなされることにより実用化される治療法を先取りしたのだ。

「特殊な電離作用を有する電子線を用いて癌細胞を死滅させる」というコンセプト、そして放射線の特性自体が医師によって最初に提示されていることは特筆されるべきだろう。
そしてその医師と、くだんの女性はつながりがあった。

この結果、末期の数年間は微妙であったものの1912年に皇帝が亡くなるまでの間にドイツ政府の中に対英協調派というべき人々が大きな影響を発揮し得たことは、のちに大きな意味を持つことになる。


599 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:12:31

ここまで記せばもうわかるだろう。
極東の帝国は、全力を挙げて欧州における大戦の阻止に動いたのである。
きっかけは、やはりくだんの女性だった。

「偶然にも」皇太子のサラエヴォ視察には護衛が増員されており、1発をのぞいて彼らは見事に自らの身を盾にして即死を防いでいたのである。
最悪の事態は「とりあえず」避けられた。
そしてその陰の立役者が彼女であることがオーストリア国民にどこからか知れると、彼らは過剰な報復反応を慎み事態の推移を見守る余裕を持ち始めた。
そしてそんな様子を見た彼女は宮内省を通じ、時の大正天皇に訴えたのだ。

「欧州で王室同士が日露の戦以上のおおいくさを起こすことは阻止するべきである」と。

これに、日露戦争の結果陸軍が半壊状態であるにもかかわらず欧州大戦ともなれば大規模派兵を要求されるであろう日本政府は一定の理解を示す。

「塹壕線につっこませるのが白人ではもったいないという理由で阿呆どもに使い潰されてはたまらない。」

これは某秘密結社の某人物の言である。
彼らは、第一次世界大戦を可能であれば阻止し、かつ勃発したらしたで戦争回避に動いていたというアリバイ作りのために動き始めた。
そうした理由をつけていれば、用意が整うまで陸兵を無駄に欧州で草生す屍にせずに済むであろう。
誰だって、乗り気ではない相手を強引に塹壕線に突っ込ませるのには気がひける筈だ。
そしてもっとも高く、強力な陸海軍の参戦というカードを売りつける。
これが某結社のもくろみだった。


さまざまな思惑のもと方針が承認されたことで、女性と外務省、そして彼女たちが作り上げたネットワークは動き出した。
まずは事件に対し同情的なセルビア市民もいることを全力で広報。
オーストリア軍の動員を最小限にとどめ、さらには日本政府を通じてロシア側にも積極的中立宣言を発せさせた。
緊張が高まりつつあった独仏国境間においては英国だけでなくオランダ王室を通じて独仏間の高官の協議を主催することで大動員のエスカレーション(加速度的増加)にブレーキをかけた。

そして、彼女は年の離れた友人であり、もうひとりの母でもあったエリーザベトにも伏して願った。

「この願いがかなえられたのなら、お暇をいただきます。どうか戦争を止めるようお力をお貸しください。」

このとき、女性はエリーザベトがいかなる返答をしたとしても自らで直訴の責任をとるべく自裁用の守り刀を懐に差していたという。
即座にその決意を察した皇后に否はない。
欧州の宝玉は老いてなお美しいその微笑を悲痛に変えて、欧州諸国の王室に訴えたのだ。

世の男は女性の涙には勝てない。
まして、青春のアイドル相手には。
この頃、シシィにあこがれて歓声を送ったかつての上流階級の青年たちは、国家の中核を担う存在となっていた。

かくて、大戦への道は阻止できたかにみえた。


だが――1914年10月25日、皇太子危篤が世界に再び衝撃を与える。
同じく、11月14日。セルビア政府、オーストリア政府からの暗殺未遂計画犯の処罰要求を正式に拒絶。
セルビア議会の強硬派による「再びオーストリアのくびきの下に戻れというのか」という感情的な要求を彼らは阻止できなかったのだ。

「裁判によって決せられる」

という無難な解答であったのだが、その裁判所自体がセルビア国内で勃興しつつあった民族主義者による釈放要求に迎合しつつある中でそれは実質的な要求拒否であった。

そして、12月5日、オーストリア帝国は大動員を開始。
12月14日、ドイツ帝国はウィルヘルム2世の命により大動員を開始。
12月16日、積極的中立をうたいつつもロシア帝国が大動員を開始。
12月17日、フランスおよびイギリスも大動員を開始。
12月18日、オーストリア帝国はセルビア政府に対し最後通牒を発す。
10日後の12月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告――同日中に列強諸国はこれに追随し――

第一次世界大戦、勃発。

悲劇は、避けられなかった。


600 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:13:03

3年後――1917年2月8日、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は愛する妻にみとられて世を去った。
その際、枕元には妻の「友」であり「娘」である彼らの「恩人」が呼び寄せられていた。
女性は詰まる声でこう言ったという。

「ご夫妻の最後の時に、心安らかな世界をお渡しできずに申し訳ありません。」

皇帝は答えた。

「この20年は、君がくれたものだ。私たちは天に召されても、あなたから受けた恩は忘れない。最後の審判が終わったときにはあなたを私たちの娘として迎えたい。」

女性は肩を震わせながら涙したという。

この2年後、大戦の終結と新たなるオーストリア――ドナウ連邦の発足を見届けたかのようにエリーザベトも世を去った。
喪主となったハプスブルグ家当主カール大公の隣では、花輪を持った「彼女」が続いていた。
以後、彼女の消息はぷっつりと途絶えた。

そして、2度目の大戦が終わった頃、ウィーンで一冊の本が出版された。
「シシィ~ある皇妃とその夫の物語~」と題されたその本の冒頭の献辞は、ウィーンっ子の記憶を刺激し、またたくまにベストセラーを記録するに至る。

――「私の愛する『もうふたりの』両親に捧ぐ。」


601 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:13:37

【あとがき】――というわけで、ちょっとした時間犯罪のお話でした。
楽しんでいただければ幸いです。


604 :ひゅうが:2013/11/21(木) 21:29:01

>>602
特にモデルはありません。
強いて言えば、誰でもない人?
前世では某歌劇団のファンだったためにこの時代に詳しくなった人ということになりますか。
ほかの転生者が技術や科学に力を発揮する中で、これこそ自分の生きる道と思って驀進したというべきでしょうかね?
 

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最終更新:2014年01月31日 21:49