702 :ひゅうが:2013/11/22(金) 19:56:08

何やら煮詰まってきたので、ネタ設定を一本。

日本陸軍――3年式56糎列車砲

主砲:海軍38試(明治38年度試作)45口径56センチ砲を転用
台車:可変軌道台車へ搭載。(軌道幅は最低でも1200ミリ必要である)
全長:52メートル(弾薬車 射撃指揮車 軌道外作業車含む)
全幅:4.3メートル
重量:610トン(全車含む)
旋回角:70度(台車上部が左右に旋回。砲撃時にはリブで固定)
発射速度:最大1分に1発
最大射程:4万5200メートル(強装薬 長距離用徹甲弾時)
砲弾重量:2.7トン(対重べトン陣地用徹甲榴弾)
3トン(対塹壕用焼夷榴散弾)
【運用】:陸軍型F35型蒸気機関車(帝鉄運用型の輸送用蒸気機関車を購入)試製鉄道連隊式気動車(帝鉄運用型のものを急きょ改造)を用いて輸送。本車2両および補給車4編成、射撃指揮車2両および観測車1両(無線通信設備を備え弾着観測班との連絡をとりやすくなっていた)をもって1個列車砲連隊を編成した。
運用は、砲撃前に車体横の梁から衝撃吸収用の脚をX字型に展開し、付属の蒸気ハンマーを補助としてで陸上(または既設のコンクリートケーソン)に固定。しかる後に台車上部が旋回し目標へ向けて旋回、全力砲撃を行いしかる後に素早く撤収し陣地変換を実施することを考えていた。


【解説】:八八八艦隊計画を前に日本海軍が試作していた「大口径砲の限界に挑戦した」巨砲に陸軍が目をつけ、列車砲化した代物。
日本陸海軍は当初から沿岸防御用に列車砲による火力の集中を構想していた。
このために開発された35式30糎列車砲が旅順要塞攻略作戦をはじめとする日露戦争の各会戦で活躍したことを受け、日露戦争終結後すぐに陸海軍は火力のさらなる強化と機動的運用を可能とするために新型列車砲や陸上運用大口径砲の共同開発を開始した。

しかし重砲の機動化や艦船砲の長射程化が進んでいる現状を考慮し、要塞砲の固定砲台強化とは別に、戦時には山に掘られたトンネル群の中に格納しておき砲撃時にはそこから顔を出して砲撃を行い素早く陣地変換を行う「機動列車砲構想」における運用が主とされ、野戦において用いることは二次的に考慮されているのみであったことは特筆すべきであろう。
火力戦を経験した日本陸軍は、その陣地変換に苦労した経験から、現代でいうところの「自走榴弾砲」の親玉を欲していたのである。
この目的のために、次期列車砲はほぼ独立して運用できるように移動用車両と弾薬車、射撃指揮車、そして観測車による砲撃ユニットを形成し、要塞地帯などの観測班と連携し射撃を行えるように設計された。
さらに、主砲は艦載用に試験が進んでいたものを転用し共有化することでコストを削減している。
こうして設計が進んでいた新型列車砲群は3年式40糎~46糎列車砲という形で実用化されるのだが、このとき海軍の手で試験が行われていた試作大口径砲の転用構想が浮上。
次期主力艦への搭載上限が早々に50糎未満と決まったために余剰となっていた試験用の56糎砲9門(および予備部品群)は陸軍の手で列車砲や要塞砲に換装されることが決定した。

1913年10月に完成した1号車は、多少の手直しを要したものの比較的良好な性能を発揮。同じく改造された8両とともに東京湾要塞守備軍に配備された。
本来ならばこのまま陸軍の切り札として朽ち果てていく運命であった本車は、1914年に発生した第一次世界大戦でその運命を一変させる。
1917年の欧州派兵に伴い、もとが余剰車であった本車は欧州の半ば要塞化された塹壕線の奥深くの弾薬庫や陣地を攻略する切り札として投入されたのである。
もとから機動化を前提に作られていた本車は大攻勢において予想以上の威力を発揮し、射程をあきらめて(もっともこれは艦載砲であるため陸用としては長射程)大質量化が進んでいた砲弾をもってドイツ軍の陣地線を突き崩す成果を上げた。

停戦までの短い間であったが、本車は世界の火砲史に残る成果を上げたのである。
なお、戦後になるが本車は八八八艦隊計画の中断によって生じた設備と資材の余剰を活かし、米国が建造するであろう新型戦艦の日本本土来襲を警戒し、これを撃破すべく再設計が行われ砲身の再生産が行わるというある意味本末転倒な事態が発生している。
その成果がのちの第2次世界大戦においても発揮されるかどうかは神のみぞ知る――

タグ:

兵器
+ タグ編集
  • タグ:
  • 兵器

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年02月04日 23:31