967 :ひゅうが:2013/11/23(土) 22:49:24

ネタを一本投下します。

大陸日本ネタSS――「巨鳥とノートに愛を込めて~または倉崎社長は心配するのをやめて(ry~」

Rシリーズ。
第一次世界大戦において行われたロンドン夜間爆撃作戦においてドイツ空軍が投入した巨人爆撃機である。
よく分かる人々にはツェッペリン・シュターケンR-Ⅵや雑想ノートの機体といった方が早いかもしれない。
全長22メートル全幅42メートル…
ライト兄弟からわずか10年あまりで人類はこうした怪物を作り出したのだ。

技術者たちの努力の成果はともかくとしてこうした巨人爆撃機による襲撃は最末期において数十機がまとまって襲撃を行った場合を除きいやがらせ以上の効果を上げなかった。
だが、大戦後となるとこの巨人爆撃機たちは新たな注目を浴び始めることになる。

「巨人旅客機」

こうした新たな需要が喚起され、ことに大陸国家において盛んに大型旅客機の開発が行われていったのである。
もともとが旅客飛行船会社であったツェッペリンは、本業の飛行船建造のかたわらで戦後の世界においてある国からの共同開発要望を受けることになった。

倉崎・二宮航空機製作所。

数年前までは敵国として西部戦線で激闘を演じ、そしてすぐに東部戦線において「ヴィスワ河の奇跡」を演出した友軍であるという奇妙に「欧州的な」関係の一員となっていた極東の帝国における航空機開発のホープである。
彼らは、領内南部の台湾や海南島から採掘されたボーキサイトからアルミニウムを製錬し、これを用いたジュラルミン製飛行機を作り出そうとしていたのだ。

「我々は、太平洋を越えて飛行する大型旅客機を作りたいのです。」

倉崎社長自らがベルリンのシュターケン工場へ足を運んで伯爵を口説き落としてまで行われた技術提携は、日英独間で作り上げられようとしていた新たな関係のひとつの成果であったのかもしれない。
のちに、イタリアから高名な設計技術者カプローニ伯が、英国からロールスロイス社やバンドレーページ社も参加して行われる技術提携は、可変ピッチプロペラや層流翼、沈頭鋲構造といった数々の成果を生んでいき航空機の歴史に燦然と輝く傑作を生み出し続けた。
とりわけ、20年代半ばにデビューしたユンカース・倉崎「G38」大型旅客機はベストセラーとなり、欧亜連絡航空路の花形として戦間期の空に君臨したことは今でもよく知られていることだろう。

だがこの「技術者たちの天国」において開発されたのは名機ばかりではない。
彼らはとんでもない機体を数多く生み出しており、そのたびに三国の当局者の胃を思い切り荒れさせているのである。

名機「G38」の開発のもとになった機体は、あまりにとんでもないものであったのだ。
何しろ、巨人機とうたわれた全幅44メートルの「G38」は「それ」の縮小版なのだから。

――倉崎 試作旅客機「大鵬」

それがこの機体の名前だった。
全長95メートル、全幅はなんと141メートル!
全翼機型の機体から双胴の胴体が伸び、そしてその後部で水平尾翼と垂直尾翼が串型に胴体を貫いている。
当初は900馬力、のちには1600馬力の発動機20機を搭載し前後に10枚ずつのプロペラを駆動することで、この怪物は空を飛ぶことができた。

なぜこのような巨人機が作られたのか?
それは、倉崎社長の「太平洋を越えて飛行する」という言葉が大きく影響している。
つまり、無着陸で大洋を飛ぶだけの大量の燃料が求められたのである。
しかも、倉崎社長はこの機体の航続距離をさらに伸ばす方法すら実現していた。
空中給油。
この場合は、ツェッペリン社お得意の大型飛行船を用いた空中給油である。
計画では、実際に「飛行船よりもはやい空の超特急」として就役したときには太平洋上で空中給油を行い、そのまま北米大陸の飛行場へと向かう予定であったという。

確かにこの頃にはアメリカが空中空母として飛行船に航空機を搭載していたが、倉崎社長は「わざわざ飛行船に積むのなら燃料の方がよろしい」として強引にこの方式を作り出していた。

機体はジュラルミンの波板を今でいう「段ボール」のように組んだ波板構造。
エンジンは当初は航空用ディーゼルを搭載予定だったが、ゴム張りの防漏燃料タンクの実用化以後は大馬力ガソリンエンジンを搭載している。
さすがに引き込み脚は採用できなかったものの、それがかえって翼内の旅客用スペースを広くとることにつながっていたという。


968 :ひゅうが:2013/11/23(土) 22:50:00

1924年3月、世界恐慌前の好景気の中でデビューした本機を見た旅客担当者は言った。

「どこから飛ばすんだ?この怪物。」

確かに問題だった。
北米航路に就航しようにも、この巨人機は5000メートルに達する倉崎の社用滑走路を必要としていたし、アメリカ大陸においてそのような巨大滑走路を造ることはできなかった。
ワシントン会議後のぎくしゃくした日米関係にあって、軍用基地を使わせるわけにもいかない。
それに、この機体はあまりに多くの燃料を食った。
それよりは当時全盛期を迎えつつあったアメリカの旅客飛行船をというわけだ。
速度も問題だった。
当時の技術限界から、最大速度は飛行船に対して圧倒的な優位というわけにはいかなかった。
さらには保険の問題もある。
そのままで安定的に浮いていられる飛行船に対し、この手の巨人航空機にかけられる保険金は非常な高額になっていた。
かといって欧亜航路に投入しようにも、最短ルートは敵対関係のソ連や内戦中の中華民国を通っている。
南回りのインド洋ルートでは、すでに連絡基地網が整備されており、無着陸でなくともよくなってしまっている。
鳴りもの入りで開発された「大鵬」は、登場時にはすでに無用の長物になってしまっていたのだった。

だが、倉崎社長たちは転んでもただでは起きなかった。
巨人機であり、さらには低速であり広大な翼面積を有することをいかし、宣伝飛行やチャーター飛行に精を出したのだ。
技術力の誇示という点でも、宣伝面でも、この巨大な怪鳥のインパクトはあまりに巨大であった。
彼らはそれを、縮小版としてあらかじめ開発されていた「G38」のセールスに生かすつもりだった。

結果、1928年10月の、初の欧亜無着陸連絡飛行が新聞社主催で実現。
翌年には念願の太平洋横断飛行を実現し、アメリカ西海岸のミューロク乾湖に旅客を送り届けている。
この時点で「大鵬」は、興味を示した各国の王室から20機の発注を受けていた。
「G38」もベストセラーといえる成果を上げている。
だが、栄光もここまでだった。
1929年に発生した世界恐慌により、世界の旅客業界は、ことに高級旅客機の需要は激減。
震源地となったアメリカを目指した機体は需要そのものが消滅してしまったのだった。

結果、「大鵬」はわずか6機が「建造」されたのみで開発を放棄される。
以後、機体は陸軍航空隊に移管され、空中のテストベットとなった。

だが、そんな余生を送った機体に思わぬ栄光がやってくる。
1938年3月、初の宇宙空間到達を目指して行われた「シューティングスター計画」において、主役となったロケット飛行機を空に上げるための母機として本機が選ばれたのだ。
見た目が似ているために一般には「G38」改造の機体が使われたと思われがちであるが、記録フィルムに一瞬映っている機体の映像には、20枚の巨大なプロペラを回しながら空を飛ぶ「大鵬」の姿がしっかりおさめられている――

本機は技術的には、大馬力発動機や、空力的に洗練された沈頭鋲の実用化、超大型機の建造や運用にかかわる数々の問題を克服させ、第2次世界大戦における巨人爆撃機群運用の基礎となったことは評価されるべきだろう。
また、本機の試験中に全翼機であったためにレーダーに反応がほとんど映らず、のちのステルス全翼機の発想の源となったこともまた特筆されるべきだろう。

「飛ばしたいから飛ばしたんだ。」

商業的な失敗を意地の悪い記者に問われた倉崎社長はそんな言葉を残している。
現在はそれを「批判の多い大プロジェクトを強行する際の不退転の決意」を示すものとして肯定的に評価することが多いという。
だが、その後半部分は幸いにも歴史に残されていない。

「雑想ノートで見たから飛ばしたくなったんだ。後悔はしていないが反省はしている。」

どっとはらい。

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最終更新:2014年02月04日 23:33