509 :yukikaze:2013/12/03(火) 00:17:43

懲りずに投下。英国戦艦史その3

「海軍祭」と呼ばれた時期は、正に日米海軍にとって威信をかけた時代でもあった。
一時はサウスダコダ級とレキシントン級の「量産」によって、優位を築いたかに見えたアメリカ海軍であったが、それも日本海軍が実質5万トンクラスの化物である紀伊型戦艦を8隻も建造したことによって、劣勢へと追い込まれてしまう。
無論、こうしたある種不毛な建艦競争は、日米双方の財務官僚の毛根と胃に大ダメージを与えることになるのだが、双方とも好景気に沸いており、そうした風潮も建艦競争の追い風へとなっていた。

こうした動きに、イギリスは鼻から付き合うつもりはなかった。いや付き合えなかったというのが正しいであろうか。
第一次大戦の終結により、欧州一強になったイギリスは、そうであるが故に、内戦の続くロシアや政治的に不安定であるが故に紛争の絶えない東欧諸国の調停に時間と予算を費やさざるを得ず、更に大戦によってほころびが生じつつあった帝国内部の再編にも本腰を入れねばならなかった。
故に欧州では最大最強だったイギリス海軍の戦力再編は、必然的に後回しにせざるを得なかった。
イギリスが各国の有力政治家や財務官僚との根回しを完璧に終わらせたのち、ロンドン海軍軍縮条約締結に動いたのは、偏に恐竜的進化を遂げつつある日米海軍を掣肘する為であった。

かくしてイギリスの粘り腰によって成立したロンドン海軍軍縮条約であるが、この中身を一言で言えば現状維持であった。
そして日英米は、それぞれ戦艦戦力を今後10年以内にそれぞれ80万トンにまで抑え、戦艦の上限も最大45,000t、隻数も最大20隻にまですることと決められたのである。
戦艦隻数を大幅に減らされることになるアメリカは猛反発したものの、コロラド以前の艦は問題が多かった事と、これらの削減ペースが日英より幾分ゆるかった事と、何より大恐慌の荒波によって何が何でも軍縮条約を結びたい国内勢力の声の前に、しぶしぶながら調印することになる。

かくして英国は日米両海軍に付けられた差を留めることに成功するとともに、合法的に新型戦艦建造を行うことができるという外交的大勝利を収めることになる。
しかしながら、この絶好の機会を英国は最大限利用することは出来なかった。
直後、彼らは苦い薬を飲むことになる。

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最終更新:2014年02月06日 21:42