206 :ひゅうが:2013/11/30(土) 23:45:10
いろいろ戦艦関係で苦悩しましたので、気分を変えて一本投下します。

大陸日本ネタSS――「日露戦争後の日本とその周辺~そして対立要因~」

【戦後処理――日本領環太平洋圏の完成】

日露戦争、国費117億円(当時の国家予算の5年分)を浪費した大戦争は日本帝国の圧倒的勝利によって終結した。
57億円を現金または領土の買戻しと引き換えにした対ロ債権(即金で37億円、残るは5年分割である)として、残る80億円を獲得した東清鉄道満州支線(満鉄)や遼東半島租借権の債権国(主として英米蘭墺の四か国)への開放と利権類の売却、そして国内での臨時増税でまかなった結果として日本国内としては持ち出しの方が多い結果となっている。

しかし、得たものは膨大だった。レナ川・アルダン川線以東のカムチャッカ・オホーツク海沿岸部は日本本土防衛の外郭地帯として割譲。
売却したとはいえ使用権も有する満鉄には副理事のうち2人を送り込めることになり、駐留英米蘭軍(以後、満州駐留諸国連合軍)に防備を丸投げする形で大陸情勢には一定のコミットメントができるようになった。
これは満州地方が列強諸国承認のもとで事実上の中立地帯化したことを意味しており、日本にとって念願の「ユーラシア大陸との間の縦深緩衝地帯」が完成したことを意味していた。

この、「日本領環太平洋圏(パシフィック=ジャパン・エリア)」と呼ばれる地域は、北は、新須賀(アラスカ)・神坂(カムチャッカ)州の永久凍土地帯、西は海南島南方から香港沖のプラタス諸島(東沙諸島)。東と旧スペイン領であった太平洋諸島およびミッドウェー諸島。その東端であるフェニックス諸島エンダーバリ島とミッドウェー諸島レイサン島は日付変更線の向こうに位置する。
太平洋諸島買収時にどさくさにまぎれて領有していた世界有数の燐鉱山を有していたナウル利権を同盟国大英帝国と分け合った結果広がった領土であったが、この結果として日本は後世米国をして「日付変更線の長城(グレート・ウォール・オブ・デイト=ライン)」と呼ばれる海上のラインを完成させたのであった。


207 :ひゅうが:2013/11/30(土) 23:45:44

こうして海上および陸上における防衛線を完成させた日本であったが、国境を接する諸国との関係は良好なものだった。
清国については利権の独占をはからずに満州からすんなり足ぬけを行ったこともあり、北洋大臣李鴻章をはじめとする清国上層部や北清事変で列強の横暴にあきあきしていた民間知識人層の好意的反応を勝ち取っていた。
彼らの中には、のちに辛亥革命を主導する人々も存在しており、多くのアジア植民地の人々同様日本帝国と協力しての植民地状態打破を夢見ていたのだが、この時点でその夢が少なくとも短期的には不可能であるとは考えていなかったためである。
清国内部では、これを受けて「双竜の平和」と元朝のフビライ時代を評価する風潮が起こったほどだった。
いわく、高麗の姦計によって争いはしたものの両国は互いを認め合い、双竜として互いを尊重することで繁栄を手にした。
秘密結社の跳梁と四つのハーン家同士の結束が崩れたことにより明にとって代わられはしたが、最期の時まで竜はもう1頭の竜を見捨てずに友好関係を保ったではないか。我々もその精神にならおう云々。
日本人からすれば微苦笑する話であったが、そうした風潮は長く尾を引くこととなるのである。

ロシア帝国との間ではほとぼりが冷めたころに、新たに獲得した日本領神坂州における兵力配備制限を日露戦争の結果手にしていた東シベリアの兵力配備制限の引き換えとして「日露協商」が秘密条約として成立。
結果、敗戦国として厳しい視線をあびていた哈爾浜やハバロフスクなどへの警備用兵力の展開やウラジオストクの再開発が進むなど比較的良好な反応を得ている。
何より、大消費地であり大生産地である日本本土という巨大な「壁」が太平洋への「道」となったことはロシア極東にとって福音であった。
敗戦後とはいえ、ロシア革命後に極東に相当のロシア資産が存在していたことは、こうした理由によるものだった。
何しろ、ロシアの流通網は日本のそれとほとんど一体化しつつあったのであるから。
そして極東のそうした状況との乖離は、革命という変事にあって2つの地域で正反対の結論を導き出す下地となったのである。

フランスとの関係は、最高とはいえないもののロシア以上英国未満程度に友好的となっていた。
海南島という領土を得た日本人たちは南シナ海に日英共同で警備艦隊を派遣していたが、これにフランス海軍も加わっていたのだ。
それに、旧幕府時代以来それなりの友好関係を保っていたこと、そして領土や利権面で日本人は必要以上に強欲ではなく、また19世紀以来のジャポニズムの流れもあって民間での感触は悪いものではなかったためである。
ただし、上層部は話は別であった。彼らにとり日本は、不倶戴天の敵英国の強力な番犬――転じてアジアの門を守るケルベロスであり巨竜であったためだ。
そのため彼らは、米英戦争以来、最悪の一歩手前という対英状態にあった米国との連携を密かに深めつつあった。


208 :ひゅうが:2013/11/30(土) 23:46:20

大英帝国との関係は発展こそすれ、後退することはなかった。
何と言っても遼東半島の租借権が売却され、イギリス中国艦隊司令部が旅順に設けられたことやその支隊が佐世保鎮守府に「仮泊」という名の駐留を実施し、これらの補給物資や整備に日本本土のドック群や工場が協力することになってから、陸海軍の間では日英同盟こそが英国のアジア太平洋戦略の要であるという認識を確固たるものにしていた。
近隣に発展しつつある友好的な列強がいることは、アフリカであれほど苦労した英国の負担をほとんどなきものにしていたのだった。
これと比例するかのように、海南島やシンガポールには日本海軍の艦船が展開するようになっていたし、インド洋では日の丸をつけた商船隊と日英の海軍がひんぱんに見受けられるようになっていた。
「サムライ」が高貴な君主を守る忠義に厚く勇猛な戦士を示す形容詞として英語に登場するようになったことからも両国の初期の蜜月を象徴していたといえるだろう。
ただし、インドなどの英国植民地の対日感情は微妙なものとなっていた。有色人種の希望の星というには日本人たちはあまりに多様でかつ異質であったためだった。
腕っぷしの強いよくわからない連中という意識は、日本が留学生を受け入れはじめてから次第に好転していくのだがそれはまだこの時期ではない。

オランダとの関係は、英国との仲が蜜月といわれるのに対し長年連れ添った夫婦のようであるとさえ言われた。
維新後はオランダの準王族(公爵家)と日本の九条東家の姫君との間で婚姻が成立していることにも象徴されるように、江戸時代以来の友好関係は鎖国を解除してからさらに強化されていたのである。
その象徴として、日本の動物園にはスマトラ虎やインドゾウが、オランダの動物園には剣牙虎が贈られており、両国の大使館の紋章にあしらわれるほどとなっていた。
この関係は、日本から得た満州利権がインドネシアの上げる利権を短期的に上回り始めたことによってさらに好意的なものとなっていた。
開国後に日本人が目にした蘭領インドネシアにおける本国赴任官僚の現地人虐待などの懸案はあったものの、それもまた成熟した関係にあって時たま起こる問題で時間が解決してくれるだろうと両国民が認識していたという。

アメリカとの関係は、この時点においては良好であった。
日本領新須賀という形で北米大陸に領土を保有し、両国共通の合意によってハワイ王国を中立国として保障しているとはいえ、満州利権の関係から米国は日本の港湾地帯を利用して太平洋の各地へ出かけていくことができていたし、海軍の拠点も米領サモアのパンゴパンゴ港と米領クリスマス島そしてフィリピンのキャビデ軍港が得られておりさして航行困難というわけでもない。英国のようにさらに関係を深められればこれらの些細な問題もたちどころに解決できるというのがアメリカ海軍の意見だった。
それに、満州というフロンティアを惜しげもなく(アメリカ的金銭感覚からすれば)差し出していたことが彼らを好意的にさせていた。
それに、まだ開拓時代の(しばしば一方的であるとはいえ)古きよき良心の残る当時のアメリカ人の感覚からすればこの極東のサムライ達は西部におけるレンジャー同様に尊重されるべき存在であった。
一方、経済界や一部政界にとってみれば微妙な存在であったことは疑いない。
なにしろ、ペリー来航時に彼らは日本周辺に植民地を設けて一番乗りをすることを目指していたためだ。
少なくとも政府内部の一派や南北戦争後肥大化をはじめていた北部の大財閥はそのつもりだった。彼らにしてみれば、ボニン諸島(小笠原諸島)や琉球諸島を手に入れそこない、ミッドウェーとハワイまでもがこれに続いていた。
神に祝福された大地アメリカなみの豊かな土地を占有し続け、神に選ばれた白人を黄色人種が逆に支配する日本などという国は「わが国が率先して領導しなければならない」はずであったのだった。まさしく、北米で変質したキリスト教的思想とフロンティア論の恐るべき合体であった。
対して、ペリー提督を端緒として米国内部に広がった対日宥和派はまったく逆であった。

「無理に植民地を拡大し軋轢を作るよりも、彼らに惜しみなく与えよう。彼らは文明人だ。そして足りることを知っている。我々が好意を向ければそれと同じくらいの好意で返してくれる。そしてそれはアジアにおいて我々がかの国を得る以上の大きな力となるだろう。」

こう述べたのは時の大統領マッキンリーであったという。
そしてこの路線は、米国の三大政党のうちの二つ、すなわち共和党の半分と進歩党のほぼ全体の基本路線となった。
片や、民主党は対日強硬派である。
こうした状況は、のちの世界史に大きな影響を、すなわち「政権交代ごとに極端に変わる対日政策」としてあらわれることになるのである。


209 :ひゅうが:2013/11/30(土) 23:46:58

ドイツ帝国は微妙であった。
彼らにしてみれば、日露戦争で開放された満州利権に自分たちだけが関与できなかった。
また、アフリカにおいてもウィルヘルム2世の拡大路線を邪魔し、太平洋諸島の買収も成立できなかった。
ドイツ財界の植民地閥というべき人々、そして反ビスマルク派であった対外拡張論者たちにとってではあるが日本人は憎むべき敵というわけだった。
ウィルヘルム2世個人にとってみれば日本人は猿に近いが、それでもそれなりに信頼には足る存在であったようである。
事実、日独間で政府高官の往来があった際にはウィルヘルム2世は極東問題について彼自らが出張って真剣な討議を行ったという。
「新たな国を作っていく気概と、伝統の両立を成し遂げた」と彼はよく言及し、一方的にではあるがシンパシーを感じていたといわれるのだ。
だが惜しむらくは彼は少し空気が読めず、また彼の取り巻きとなっていた拡張論者たちにしばしば独断専行をゆるしてしまったのだった。
「だから言ったではないか!彼らを無視することはない。丁重に扱えば中立すら引き出し得たのに!!」とは、第一次大戦時にウィルヘルム2世が述べたあまりに有名な言葉であった。
しかも、政府を主導する旧ビスマルク派とウィルヘルム2世派の間では「とりあえず青島の戦力を増強する」という結果となってしまった。そのことが日本側をさらに刺激する。
彼らの意図はまったく裏目に出ていたのである。


【海軍「再整備」と緊張】

以上のように、日本周辺に敵対的といえる勢力はそれほど存在していなかった。
だが、目下の大問題としては山東半島の青島に居座るドイツ艦隊と極東のドイツ軍、次点の問題としては太平洋を西進してくるアメリカ海軍という戦略的な問題が存在している。
ゆえに、日本政府は「海軍の戦力維持」を目論む。

日本側としては、当時26隻の戦艦・装甲巡洋艦を保有する海軍の戦力を維持し、とりあえずは対策をと考えたのだ。
だが、ここでひとつ問題があった。
英国において誕生したドレッドノート級戦艦の存在である。
日本側としても同様のコンセプトをもって薩摩型戦艦を建造していたものの、現状の主力戦艦が旧式化したことは事実である。
そのため、「現状の主力艦を代替する」ために英国に金剛型巡洋戦艦を発注する一方で、現状とほぼ同数の戦艦部隊へ15年をかけて弩級艦を建造しすべて入れ替えることを考えたのである。
折しも、グレート・ホワイトフリートが日本本土へ来航しており、セオドア・ローズヴェルト政権下でさらに強力な戦艦を建造する「3年計画」が審議され始めていたためこの方針は正しいと思われた。
だがこれが米国の一部を刺激。結果として英独建艦競争に匹敵する「八八八艦隊」と「三年計画艦隊」の建艦競争は発生してしまったのであった。

――以上のように、日露戦争後の平和の中で静かに対決への胎動は開始されていたのであった。


210 :ひゅうが:2013/11/30(土) 23:48:34

【あとがき】――というわけで、歴史的な経緯から想定を再開いたしました。
第一次世界大戦までの日本の動きを見てみるつもりです。
なお、日露戦争の結果については、わかる!の人氏の内容を参考とさせていただきました。


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修正回:0(アップロード)
修正者:Call50
備考:誤字・空欄等を修正。

修正回:1
修正者:
修正内容:
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最終更新:2014年02月23日 01:16