385 :ひゅうが:2013/12/01(日) 23:54:57

大陸日本ネタSS――第1次世界大戦前の日本 その2~辛亥革命の波紋~

【革命のち曇天】

1912年、孫中山――孫文は日本へ渡航。都合3度目の渡航であった。

1度目は1895年、日清戦争直後。このときは日本の状況視察のためである。このとき中国における革命支援を求めたのであるが、日本側の反応ははかばかしくなかった。
日本政府としては清朝の自己改革が成立すればそれでよく、そうでなくとも日本周辺にちょっかいを出してこなければよかったのだから。
むしろ日本側は清国内部で盛り上がりつつあった体制刷新運動「洋務運動」への強力すら検討している始末だった。孫文の抜本的な革命案はそんな状況下にあって危険思想であったのだ。
それに立憲国家として、共和制への強制移行は日本側には受け入れられないことでもあった。彼は落胆の中で亡命先の香港へ戻らざるを得なかった。

2度目は1905年。日露戦争の勝利に沸く中での来日だった。このとき孫文は日華同盟によるアジアの団結を訴えた。
しかし、光緒変法の失敗――これは清国守旧派により「日本と大清ならびに欧米諸国の合邦」が企てられているというありもしない流言に踊らされた物だった――と、それに伴う反動的な状況に日本人が期待を失っていたこと、そして日露戦争の裏側で行われていた露清密約の発覚によって日本人の対清感情は最悪に近く、日本側の反応は「丁重な拒否」となった。

ここで孫文はあきらめきれなかった。
そこで――歴史が動いた。
担保にしたのは、中華の未来。そしてそれに強制的に巻き込まれる隣国の未来だった。
彼は、世界第2の大国アメリカ合衆国の経済界にささやいたのだ。

「大英帝国と日本帝国主導での中国進出は門戸開放の精神に反するのではないか。
私は民主国家であるアメリカの精神で新たな中華を作りたい。専制国家からアジアを解放するべきだ――」

「大英帝国が日本をパートナーとするなら、それに対抗する勢力がアジアには必要だ。それこそが新たなる中華だ。4億の民と日本よりはるかに広大な領土、そしてアジアのどこにも接する地理条件、まさに真の大陸国家。これこそ合衆国のパートナーにふさわしいのではないか。」

こうした言葉は、「大風呂敷」とあだ名される孫文の面目躍如であった。
本人は使えるものは何でも使うという一種のプラグマティスト(功利主義者)であったのだが、問題はこうしたスローガンがある種の正義感の持ち主を動かすことをよく知っており、動かされた側は完ぺきにそれを信じ切ってしまったことにある。

「政府がやらぬなら自分たちが。」

そうした動きはほかならぬ大英帝国がボーア戦争で使った手段そのものである。
ならば、セシル・ローズが極東にいてもおかしくはあるまい。何より、自分たちはアジアを民主主義の光で照らすのだ、と。
かくて、孫文は膨大な資金と、中華系アメリカ移民という兵力供給源を得た。
協力者たちは州軍すら動かして訓練を積ませ、かつ潤沢な資金で彼らを武装した。
そして、フィリピン経由でそれを中華南部へと送り届けたのである。


386 :ひゅうが:2013/12/01(日) 23:55:32

かくて――辛亥革命は発生した。
この段階となって孫文は日本政府に再び接触しに訪れたのだ。こうささやくために。

「バスに乗り遅れるな」

米英日の三国を手玉に取った見事な策術である。
民間財閥がやらかした事態にタフト政権は頭を抱えるものの、これに便乗せよとの空気と革命への共感が合衆国を包む。
一方の日本は日英同盟のもとで中立を守るが、それでも周辺事態に無関心ではいられず新中華民国と新たなる満州に関する協定を結ぶ必要を感じていた。
まさに、計画通り。

だが、彼の、そして彼を支援した人々の誤算は、孫文が革命成就のために利用した野心家である清朝の実力者 袁世凱が予想を超えた野心を持っていたことにあった。
彼を掣肘する形で内閣首班となっていた革命軍の首脳 黄興が暗殺未遂にあい意識不明の重体となったこと。
そしてその裏で袁世凱が策動し、自ら皇帝への即位を画策していたことは予想外というほかなかったのだ。
以後、孫文は北京中枢で新たに内閣首班となった宋教仁(孫文は議院内閣制と連邦主義を主張する彼とも対立していたが)とともに対立を深めていく。

他方、この状況に日英同盟が不干渉を貫いたのに対し、タフト政権は1912年4月より「共和義勇軍(米国有志が送った義勇軍の名)に続け」との世論におされる形で支援を開始。
袁世凱が満州の「中華からの分離」に反対しこれに孫文も消極的に同意したこともあり、意図せずにではあるが中国新政府を支援するアメリカとそれ以外という構図が成立してしまう。
政争を繰り返しながら日本へも支援を求める孫文への冷淡な反応――ことに立憲制への否定的な意見がクローズアップされたことによる――もあり、日本国内の対米感情もまた硬化を開始。
さらには、中華民国の成立を受けて権益拡大の動きを開始したドイツへの反感もあいまって対米関係の急速な悪化へと繋がっていった。

タフト政権も列強が監視する満州においてはおとなしくしていたものの、上海後方の孫文らの拠点に対する公然たる支援は行っておりそれがさらに日本側の態度を硬化させる。
中央たる北京で政争を繰り広げる新政府に、どちらを支援すればよいのか判断しかねた対応は最悪の形で対日関係を悪化させていったのだ。

彼らは「日本を掣肘し自分たちにも門戸を開かせる」という意見をいれたために隣国の革命を支援すれば、それに足をとられ、かといって世論は足抜けを望まないという悪循環に陥ってしまったのだった。
こうした状況は、大戦中の1915年に業を煮やした革命軍の一派が「ある外国勢力に使嗾されての」中華帝国皇帝 袁世凱暗殺という暴挙に出たことによって頂点に達することになる。
そして、それは第一次世界大戦におけるアメリカの行動を決定的な局面で制約してのけたのであった。


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最終更新:2014年02月23日 01:17