681 :ひゅうが:2013/12/04(水) 12:25:53

大陸日本世界ネタSS――第1次大戦前の日本 幕間「革命成る~孫文による統一~」

――混迷の大陸

1913年、辛亥革命後初の国政選挙が実施され、内閣首班であった宋教仁とその一派が圧倒的多数となって与党となった。
とはいっても国民政党としての国民党にすべてが包括される形となっていたために実質的には党内与党が決定されたといった方がいいのだが、それでも影響は大きかった。
なぜならば、大総統袁世凱や孫文が主張していたように、「中華をまとめるには強力な政府と指導者による指導が必要である」という意見に対し宋は「自治権を有した省を集め、外交や国防、全国的な内務の一部を政府がつかさどる連省政府こそが相応である。中央からの支配のみでは効率的な国政運営はできない」という連省政府構想を主張。
これが真新しい考えとして初の選挙に参加した人々の支持を集めたのである。

だが、袁世凱や孫文としては想定外もいいところだった。
彼らは名実ともに首相となった宋を妨害する一方で説得を試み、初の議会は混乱含みとなってしまう。
孫文は政府の職にはつかずに本拠地の南部上海周辺へと「隠遁」するも誰もそんなことを信じる者はいない。
政争の場となった北京(南京から遷都を実施)では、宋が説得を受け付けないと知った袁世凱がとりあえずは国政を彼に任せる一方で国民党の非主流派となった中央集権派と取引をはじめていた。
そしてそれは、1914年、宋が度重なる暗殺未遂を避けるように選んだ初の外遊先として日本帝国へ訪問している途上での突然の解任劇へと繋がるのである。
歴史家は、もしこの時点で宋が彼らの支持者が計画していたように逆にカウンタークーデターを実施できていればあるいは違った未来があったかもしれないと述べている。

北京政府は北洋軍閥による独裁的な色を呈していった。
義勇軍という形で中華民国政府に支援を実施していたアメリカ合衆国も困惑するほどにそれは急速であり、かつ反動的なものとなっていた。
彼らは、退位表明後も紫禁城に引き続き居住を許されていた宣統帝溥儀を強引に退去させてアメリカの機嫌をとる一方、「この大陸をまとめるには強力な政府と指導者が必要」と繰り返して述べた。
山東半島利権や北京・南京連絡鉄道の敷設権についての要求をドイツ帝国が出してくるとそれを理由にしてさらなる支援を要請。政府権限の強化についても理解を求めていったのである。

「袁世凱は皇帝になるつもりだ」

南京の孫文からそんな言葉が届けられるにおよび、米国政界は混乱する。
彼らが支援したのは民主共和政を求める革命であるはずで、一人の男を皇帝にするためではないからだ。


682 :ひゅうが:2013/12/04(水) 12:26:27

対処方針を巡って彼らが混乱する中、1914年6月、欧州でひとつの変事が起こる。

サラエヴォ事件。

オーストリア皇太子暗殺「未遂」事件である。
幸運にも増員されていた警備によって即死こそ免れたものの、欧州の王室外交に極東の日本帝国までもが関与しての戦争回避の努力の結果は流動的となっており介入の余裕はなくなりつつあった。
これを見た袁世凱は1915年初春、中華民国の国号を中華帝国と改め自ら皇帝へと即位する。
当然ながら内外問わず批判の多い即位であった。
即位式に招待された駐在「大使」が苦虫をかみつぶしたような顔をしながら式典を見守っている姿は歴史教科書で有名であろう。
袁世凱が期待していた「近隣の君主制国家による支持」は得られず、日本帝国は完全な無視を決め込んでいた。
得意満面でいた彼の顔が青ざめた時、すでに彼の味方はほとんど残っていなかったのである。
そして――焦った一部の中小財閥により資金を提供されていた一派は動き出す。
即位式わずか10日後、1915年1月13日、北洋軍閥内部も含めた政府内部での即位反対意見を説得しようとしていた袁世凱は、護衛武官の手引きによって接近してきた襲撃者に襲われ暗殺される。
北洋軍閥が即座に民国臨時政府の樹立を宣言する一方で、孫文の一派も民国正当政府を宣言し南京で決起。
これにより各地の軍も独自の行動を開始することとなった。
そして米国が押っ取り刀で南京の「正当政府」を支持し、フィリピン駐留軍から3万名を義勇軍の第一波として派遣するにおよび、人々は気付いた。
誰が袁世凱を殺させたのかを。

実際、からくも襲撃から生き残った袁の侍従武官が信用ならない北京から英国大使館へ駆け込み襲撃者が「義勇軍」に訓練を受けていた上海人であると証言してから疑いは「限りなくクロに近い灰色」となる。
事実はまたしても民間の独走であったのだが、これによりタフト政権はさらなる窮地に陥ることとなる。
大戦勃発に伴って日本軍はドイツ領山東半島へ向けて大軍を発進させており、彼らが引くことは議会はもとより正義の進軍というスローガンにあてられた民衆が許さない。
結果として彼らはそれまで支援していた北京の民国政府ではなく「民主主義の闘士である孫文」を支援せざるを得なくなってしまった。
タフト政権は20万規模の兵を用いた「民主防衛軍」の派遣を議会にはかり、認可を得た。
こうなれば、孫文による統一を少しでも後押しするしかない。

孫文は「北伐」を宣言。
彼が暗殺に関与したのかという疑いの目を振り切るかのように、軍事的な「第二革命」に狂奔するのである。
そしてこの混乱は1918年の北京政府との妥協によって終結。
こうして暫定的に設けられた「中華民国臨時政府」は、大総統である孫文の権力基盤を外国軍に頼るという不安定な権力基盤ながらも一定の命脈を保つことになる。


683 :ひゅうが:2013/12/04(水) 12:28:16

【あとがき】――というわけで一本。
第1次大戦の前に介入してしまったせいで、火事場泥棒に走らざるを得なくなってしまったタフト政権に合掌…
しかし軍閥抗争じみた内戦は削減できたし孫文先生が統一したし問題ないよね(棒読み)!
まぁ、それも米軍撤退や赤い浸透とかが始まるまでですが(ボソッ)

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最終更新:2014年02月23日 01:18