724 :ひゅうが:2013/12/04(水) 20:20:04

大陸日本世界ネタSS――第1次世界大戦時の日本 「1915年の足止め」

【日米対峙】

第1次世界大戦勃発時、日本帝国は動員令を発していなかった。
ただし海軍のみが即応態勢を維持しており、建造中の新型戦艦群や高速補給艦群は新たに施行された「改正工場法」に則り4交代24時間体制での建造に切り替えられた。
また、軍需工場では動員を見越して女性の大量募集が行われ、それまでは進んでいたとはいえ限定的だった女性の社会進出が加速していった。
その反動のように女子教育がともすればいきすぎなくらいに性差についての教育が増えていき「男らしく女らしく問題」といわれる大正時代の社会問題をクローズアップしていくのであるがこれについてはひとまず置いておく。
こうした銃後の状況を前に、日本陸軍では1914年中盤から予備役や後備役、あるいは徴兵前の人々に向けて軍事教練を開始し動員に備えていたのである。
とはいっても日露戦争時のように「くるものがきた」といった風のものではなく「できるならこないでほしい」という風潮が社会には漂っていたといえる。
日本人一般からすれば「守るべき対象で次代の命を紡ぐ女性たちの手を借りてまで遠く欧州へ行かねばならぬのだろうか。行くなら自分たちだけでよい。」というある種古風な感覚があったのだ。
ともあれ、ぴりぴりした緊張感の中で盛んな外交交渉の裏での準備は進んでいった。
この点、「早く戦争を!」と復讐戦を叫んだフランスや、感情的になっているセルビア・オーストリアとは対照的である。


【英国の準備】

開戦までの半年の間、日本の顧客となったのは同盟国イギリスであった。
日露戦争の戦訓を受けて装備改革を行っていた大英帝国は、半年の期間をフル活用して機関銃や自動車、さらには新型火砲群を自国の軍に導入していったのである。
これは日露戦争の哈爾浜会戦を英印軍司令官として非公式に観戦していたキッチナー陸軍元帥の強い後押しによるもので、彼曰く

「我々はワーテルローのネイ元帥のように破滅へ向かって突撃するところだった。しかも突撃した先にあるのはポートアーサー(旅順)要塞という最悪の状況で。
要塞攻略戦に必要なものはきらびやかな近衛騎兵やレッドコートではない。
ただ大量の火砲と機関銃、そしてつるはしとスコップと鉄条網であるのだ。」

けだし卓見である。
英国は日本政府の「開戦は避けられないかもしれない」という言葉を受けて議会で徴兵法をはじめとする戦時諸法を可決。
やりすぎだという声に日本の例を挙げて大戦争の準備に邁進していったのである。
なおこのとき、局外中立を宣言していたアメリカ合衆国もドイツ向けに大量の物資を供給しており、中でもヘリウム輸送船拿捕事件は開戦の最後の一押しとなったといわれていることを付け加えておく。


【日米妥結せず】

こうして準備を行った日本であったが、1915年1月に彼らは動けなかった。
なぜならば、近隣の中国大陸においては袁世凱暗殺と孫文による北伐が開始されており、それに伴いアメリカ軍20万(最終的に45万)が展開していたためである。
開戦初頭での山東半島攻略作戦に投入予定であった第5方面軍(第5・第6軍)をもって北京へ進撃されることを恐れ、また英国から満州の治安維持を要請されていた日本軍を警戒したためでもあったが、日本側はこれを警戒せざるを得なくなっていたのである。


725 :ひゅうが:2013/12/04(水) 20:20:38

当然ながらワシントンD.Cに桂前首相が飛んで中国問題を討議していたのだが、タフト大統領は門戸開放機会均等を述べるのみにとどまり、それ以上に山東半島利権を日本側が接収することを警戒していた。
さらに、満鉄利権を得ていたハリマン財閥に対抗する形で他財閥が満鉄から支線を伸ばし天津から北京への鉄道を敷設する許可を「孫文率いる正当政府に」求めていることが明るみに出ると、日本側は激しく動揺し会談は物別れに終わってしまう。
タフト政権は日英同盟を発展的解消し多国間安全保障条約を設け、そこに列強の大半を巻き込むことで戦争を抑止する「平和同盟構想」と、それに中国問題をからめる「12か国条約構想」を発表したのだが、タフトたち政治家はともかくとして、この「天恵」を精一杯利用しようとしていた人々、特に1901年恐慌で大打撃を受けた大陸間横断鉄道(特にノーザンパシフィック鉄道やグレートノーザン鉄道などのシアトルと関連の深い鉄道群)や地方鉄道経営陣、そして五大湖や西海岸の新興財閥群はまったくその気はなかったのである。
日露戦争の結果、陸軍は大量の余剰装備をため込んでおりその更新を行いつつ再び総動員準備を行わねばならない。
さらには欧州へ向けて派兵するために必要な補給線の確保と、大量の物資備蓄、そして受け入れ態勢の整備などはとても1年ではすまないだろう。
こうした都合に加えてアメリカの不透明な動きもあって、1915年中の派兵が不可能であることは英国側も理解していた。

こうして、1915年1月、日本政府は一定の対米警戒を続けることを理由として早期の陸軍派兵要請を丁寧に謝絶。
代わりに、外務省はトルコ政府との交渉によってトルコの局外中立宣言を出させることに成功し、ロシアとトルコ間の相互不可侵・安全保障条約調印という大金星を挙げることができた。
また、海軍については優先的に提供されることも決まり、予備役となっていた富士型戦艦6隻が現役復帰され新造の金剛型戦艦と扶桑型戦艦(艤装中)が派遣準備に入った。
シンガポール駐留の戦艦「朝日」など、すでに先遣隊としてジブラルタル向けて1915年1月20日にはスエズ運河を渡っている。
ともあれ、日本陸海軍は「欧州にいけない分を青島で取り返す」とばかりに極東のドイツ軍を排除すべく行動を開始したのであった。

726 :ひゅうが:2013/12/04(水) 20:21:12

【青島攻略】

1915年2月5日、日本陸軍は山東半島先端、青島に向けて攻撃を開始。
既に太平洋上で通商破壊戦のために行動しているドイツ東洋艦隊に向けて連合艦隊が出撃しており、青島は孤立していた。
遠目に北京政府軍が見守る中で日本陸軍は日露戦争時以上の大量の弾薬を投射して要塞を耕し、空では東洋初となる空中戦の果てに日本陸軍飛行船部隊が要塞上空から爆弾を投下していった。
結果、1か月を待たずに青島要塞は降伏。
2月26日に太平洋上において巡洋戦艦「ザール」が包囲され降伏したこともあり、日英同盟側は幸先のいいスタートを切ることができた。

だが、欧州においてはパリ前面で熾烈な機動戦が続いており、戦況は予断を許さなかった。
しかし日本本国を通じてロシア側に日本側北進の意思なしとの言葉が伝えられていたこともありロシア軍が急速動員を成功させたこともありパリ攻撃は頓挫。
さらにはANZAC軍団によるアントワープ強襲上陸作戦が失敗に終わった(1915年8月)こともあり、以後の日本は、大陸において米国軍や北伐軍と睨みあいつつ、先遣隊3個師団の派遣を除いて決定的な瞬間での欧州派遣をめざし力をためていくことになる。

しかしいざ1916年には派遣が決定されそうになったものの、ヴェルダン要塞攻防戦による恐るべき消耗の果てに半壊状態に陥っていた仏軍により補充兵力として自軍指揮下にいれようとしたため(英国軍のように自由に使えない兵力としてではなく自由に投入できる兵力を欲していたといわれる)同盟国としての独自指揮権を要求する日本側の折り合いはつかず、結局は派遣は1917年にまでずれ込むことになるのである。


727 :ひゅうが:2013/12/04(水) 20:22:44

【あとがき】――というわけで、投下しました。
史実でも英仏軍間では指揮権問題がありました(1918年にようやく解決)ので、どちらが上かでフランス軍が日本軍に妥協できるとは思わずこんな感じになりました。


728 :ひゅうが:2013/12/04(水) 20:25:24

ちなみに1916年中に派兵がならなかったために代償として海を渡った結果、ユトランド沖で連合艦隊は主力艦壊滅の憂き目にあってしまいます(泣)


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最終更新:2014年03月02日 10:25