862 :ひゅうが:2013/12/05(木) 21:47:40

大陸日本ネタSS――第1次大戦時の日本 番外編「さながら水が岩を穿つ如く A.D1916-1917」

――1916年2月にヴェルダン要塞攻防戦の開始を待ちドイツに対し宣戦を布告したロシア帝国であったが、俗に「タンネンベルグ包囲殲滅戦」と呼ばれる後手の一撃により、ポーランド平原においてロシア軍主力50万あまりが包囲殲滅されてしまう。
ドイツ側が東部戦線へ増派を行い攻勢の中止を決断したために辛くもフランス側の勝利に終わったこのヴェルダン攻防戦だったが、結果的にはこれがフランス側の運命を決してしまった。
なぜならば、この会戦の指揮をとったのが俗に「アジアかぶれ」といわれた元駐日・駐清ドイツ大使館付き武官、エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン元帥であったためである。
彼は、義和団事件における北京籠城戦と、従軍していた日露戦争の経験から塹壕戦に対抗する新戦術を開発していたのだ。

「浸透突破戦術」

よく訓練された少数部隊に自由行動を許し、塹壕線の脆弱点を各個に突破し後続部隊が塹壕を制圧し前進するという方法である。
これまでは「面で押す」文字通りの「戦線」や「戦列」が重視されていたことに対し、こちらはむしろ小隊や分隊などの迅速な「浸透」と「機動」こそが重視される。

同様の戦法は南北戦争時にすでに実施されていたのだが、大々的にこれを実施したのは日本陸軍による旅順攻防戦が最初となる。
この戦いにおいて日本陸軍は、小規模部隊による塹壕陣地への襲撃と突破を大火力による「直接支援」のもと繰り返し、岩の脆弱点をぬって水が大地を押し割るように要塞を攻略していった。
基本的な戦術展開は、あまりにも鮮やかに決せられたために旧来の運動戦の一環としてしか理解されていなかった哈爾浜会戦でも同様である。
そのあまりの大火力に幻惑される向きが大きかった諸外国の将帥にあって、英国のキッチナー元帥やフランスのペタン中将同様にその真価を彼は見抜いていたのだ。
そして、彼はその戦訓を存分に発揮できる立場にあった。
不幸にも1915年3月にロシアへ参戦を働きかけに向かった途上で遭難死し装備以外を整えられなかったキッチナー元帥や、フランス軍全体を統合して改革できる立場になかったペタン中将とは違い、彼には目の前にそびえる西部戦線の大損害と、ロシア軍と睨みあう100万の大兵力が存在していたのである。


初期の運動戦において大戦果を挙げており国家総動員体制を主導するヒンデンブルグ参謀総長とルーデンドルフ次長に疎まれながらもファルケンファインは予備役兵や新兵だらけの東部において実に1年もの間訓練を実行。彼らを用いて鮮やかな包囲殲滅戦を成功させたのである。
これが可能であったのは、当時の連合軍内部で「指揮権問題」といわれる連合軍の統一指揮問題が生じていたこと、すなわち兵站線の構築と日本型浸透強襲戦術による突破を企図する日本側に対し、あくまでも連合軍の補完戦力として英仏軍間の結節点で持久させよう、あるいは仏軍の予備兵力としようとしたフランス軍の認識の違いに、仏国内の事情もあわさって連合軍同士の世論が険悪な情勢となっていたことがドイツ軍に知られていたこと。
加えて中国大陸で米常備軍20万と睨みあう日本軍に対処するために拘置されていたロシア軍が、いざ日本軍参戦となると即座に侵攻に移るのではないかという危惧があったため東部戦線から容易に兵力を動かせなかったためである。

日露戦争の痛手から立ち直り切っていないロシア軍は、この大損害に耐え切れなかった。
結果、1916年の冬季に入るまでにドイツ軍は戦線をウクライナ中部まで拡張。
戦線は俗にドニエプル・リガ線といわれる南はドニエプル川河口のオデッサとロシア領ラトビアのリガ前面にまで押し出され、この線においてドイツ軍は越冬に入った。

これを受け、ドイツ軍首脳部は全軍における浸透強襲戦術の採用を決定。
ヴェルダン攻防戦で目標を達成できなかったヒンデンブルグ元帥をウクライナ戦線に左遷する一方でファルケンハインに西部戦線を含めた全軍の統一指揮をゆだねることとなったのである。


863 :ひゅうが:2013/12/05(木) 21:48:35

1917年1月、この年の寒さは特に厳しく、とりわけロシアの寒さは空恐ろしいものだった。
第1次世界大戦においてはこの気候が大きな作用をもたらした。
極寒のため、ロシア中部においては記録的な冷夏となっており、さらには穀倉地帯であるウクライナの過半が占領下におかれたこともあってロシア国内では飢餓が発生しつつあったのである。
飢餓は革命の母であり、戦争は暴力の父である。
かくて、ロシア革命発生の要件は整った。
そもそも中立を守っていたはずのロシアがドイツに殴り掛かったのは1916年夏の日本軍の欧州戦線参戦を見込み火事場泥棒に走ったロシア政府の見込みの甘さによるものであったし、皇帝をはじめ多くの人々がそれに反対していたことは周知の事実であったからだ。
しかし、大戦勃発に伴いフランス資本による投資が滞り控えめに言って大恐慌状態にあったロシア資本家集団はフランス人からの悲鳴と甘い見通しから政府を動かしてしまった。
東がだめならば西で…というわけである。
だが、あては完全に外れた。
ロシアは失血しつつあり、それを止める手段はもはや休戦しかなかった。
だが、それよりも一歩「彼ら」は早かった。
ロシア2月革命の勃発である。

飢餓に彩られた革命は、なんとか民主共和派による統制を回復したものの、結局ケレンスキー率いる臨時政府は飢えを完全にはおさえこめず(日本人からもらっても、ロシア人は米を食べないし薪すら不足しつつあったのだ)結局1917年9月、アメリカに亡命していたレーニンの帰国によってソヴィエト政府による独裁体制が樹立された。
そして独ソ休戦協定、通称「ブレストリトフスク条約」によってドイツ軍は東部戦線から解放された。
100万の経験豊かな精鋭部隊が、西部戦線へ向かったのである。

――この時点で、1917年8月にようやく「連合軍最高司令部」が設立されることで可能となった欧州派兵によって欧州へ送られた日本陸軍遣欧総軍50万名は続々と英仏海峡を渡りルアーブルからリール前面への集結を開始していた。

かくて、第1次世界大戦最後の激戦、「ツイン・ウロボロス(双子の蛇)」と称される状況は開始されたのであった。


864 :ひゅうが:2013/12/05(木) 21:51:01

【あとがき】――というわけで、ドイツ軍大突破成功の言い訳でした。
史実とは東西逆転現象が起こっていますが(汗
とりあえず浸透強襲の発案者をとられたヴォローシロフ氏に合掌…というか日露を経て生きているのかな(爆)?


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最終更新:2014年03月02日 10:26