73 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16:11:51

日本大陸世界ネタSS――第1次世界大戦時の日本 「遣欧総軍」

【日本軍、西へ】

――西暦1917年6月、フランス北部へ集結を完了した遣欧総軍は、陸上戦闘部隊のみで28個師団および5個独立混成旅団と5個軍団級砲兵団で成り立っていた。
しめて52万3000名。日露戦争時の満州総軍の前線部隊にほぼ匹敵する数である。
加えて、兵站を担うべく日本海軍から艦艇122隻および輸送船約1200隻が臨時に「欧州方面海上護衛司令部」とともに抽出され指揮下に入っていた。
また本土からは鉄道師団が工兵旅団を複数追加されたうえで「臨時鉄道軍団」として派遣されており、帝鉄出身技術者とともに無数の機関車と貨車が欧州入りしている。
彼らは兵站基地となる英国南部までの海上補給路と、英仏海峡を渡ってからの輸送網を維持することに細心の注意を払っていた。

連絡将校たちが驚いたのは、火砲の大きさではなくその数と足回りだった。
火砲1万2340門。数は実に日露戦争時の5倍となり、さらにはその足回りはほとんどすべてがゴム製タイヤを履いている。
あわせて持ち込まれた牽引車両は初期的な戦車のような装甲トラクターであった。
中には280ミリ以上の巨大な榴弾砲をけん引するための大型蒸気トラクターすらあったほどだ。
これら火砲だけではなく、歩兵の装備も日露戦争時とは大きく様変わりしていた。
小銃こそ日露戦争時のそれの改良型ボルトアクションライフルであったが、それだけではなく分隊あたり1丁の散弾銃および擲弾発射機、そして携行可能な短機関銃を装備していたのだ。
小隊ごとにいたっては、歩兵運用が可能なロケット砲(さすがにこれは2~3名で運用するが)すら持っている。
大隊にいたっては無線電話による通信機能すら有しており、有線電話を加えれば文字通り手足のように戦場を駆け巡ることが可能となっていた。
なるほどこれでは補給がなければ作戦不可能なはずであった。

これらを指揮していたのは、元帥陸軍大将乃木希典。旅順攻略や哈爾浜会戦で名高い猛将であるが、彼は自らをお飾りと称して実際の指揮権は陸軍部隊を束ねる秋山好古大将に任せていたという。(これは薩摩人に特有の総大将のスタイルである。)
秋山は、海軍部隊の指揮官であった広瀬武雄大将が弟を通じた知己であるという関係を持っており、またフランス留学経験を持つ騎兵出身でありながらも火力戦と歩兵戦に造詣が深いという異色の将官でもあった。
そのため、当初は派遣前後のゴタゴタもあって険悪な仲となりかけた連合軍総司令部にあって流ちょうなフランス語で少しばかり下品な冗談を飛ばしてたちまち多くの外国武官の心を掴んだという。
いかにプライドの高いフランス人とはいえ、英雄には英雄の遇し方がある。
その点において、フォシュ元帥からも敬意を払われた彼らの起用は正解だったといえよう。


同年8月3日、ドイツ軍は「士気は低い」とみて新たに出現した日本軍めがけて攻勢を開始。
日英両軍の結節点にあたるソンム・オイセ河間に向けてドイツ第5軍が殺到した。
しかし、川に挟まれた地形であったうえ、臨時鉄道軍によって敷設を完了していた軍用軌道を用いて輸送された大量の火砲の餌食となり衝力は失われてしまう。
それでも攻勢を強めるドイツ側だったが、ヴェルダンで日本軍に救われたペタン大将率いるフランス第8軍が戦場に駆けつけることで日本側の士気は劇的に向上。
最終的にはわずかな損害でドイツ側の攻勢を頓挫させることに成功したのである。
連合軍側にとって久しぶりの大勝利であった。
折しも、ロシア方面においてケレンスキー率いるロシア軍が攻勢に転じていたためにドイツ軍は東部方面において大反攻を実施しつつあり、西部戦線においては小康状態が訪れつつあった。(それでも中部方面において第2次ランス会戦という激戦が惹起している)
しかし、10月のロシア10月革命(赤い十月事件)によってロシア臨時政府が倒れソ連が成立。
12月にはブレストリトフスク条約が締結され東部戦線が消滅するという緊張感の中で、連合軍は1918年を迎えることになるのである。


74 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16:12:25

【大派兵――米軍参戦】

1918年1月はアメリカにおいてツィンメルマン電報と呼ばれる一通の電報の内容が暴露されることによって慌ただしく幕を開けた。
折しも中国大陸において孫文が米軍(軍事組織として再建されたばかりであったが最新の装備で身を固めていた)の助けを借りて北伐を成功させ、さらにはロシア革命からチェコ軍団を救出するという名目で米軍先遣隊が満州経由でシベリアに入ったばかりのころである。
メキシコ駐在ドイツ大使館からメキシコ政府に向けて送られた参戦要請とされるこの文章は、現在では本物であったということがわかっていたものの当時はその真実性に疑問がもたれていた。というのも、その当時の外務大臣はすでにツィンメルマンではなく休戦派のゲオルク・ミヒャエリスであったためである。
彼は米国かオランダを仲介にした和平を望んでいるとされていたため、それはそうとしても現在は関係ないと思われたのだ。
だが、内容は衝撃的だった。

「メキシコの対米戦争実施要請、見返りに米墨戦争で奪われた西海岸三州の割譲」

それだけでもアメリカ国民の中に根付いたぬぐい難い反メキシコ感情から反独感情が高まることは避けられなかった。
さらにはドイツ潜水艦によってニューヨーク近海においてアメリカ船籍の客船「コロンビア」が撃沈され多数の犠牲者が出た(これは旧称をブリタニックというタイタニック号の姉妹船でアメリカに売却されていた)こともあり、時のウィルソン大統領は俗に「大派兵法」と呼ばれる法案を議会に提出。
中国大陸で進行しつつある自由を守るための戦いをヨーロッパにおいても行う許可を求めた。
しかし審議は難航。
中国大陸からシベリアにかけてか、それとも欧州か、主戦力派兵を行うのをどちらにするのかでおおもめにもめていたのである。
前者は、列強諸国特に日本が全力で欧州に取り組んでいる間に可能な限りの勢力拡張を成し遂げるチャンスであったし、後者はウィルソンの好む「道義的責任」においてフランスを助けるというより直接的なものとなっていた。
そのため大統領は両方を望んでいたのであるが、それには500万ともいわれる動員が必要となると野党は批判していたのだ。
結局は1918年2月に法案が成立し、中国大陸派兵用に用意されていた兵力が練兵の末に1918年4月に海を渡り始めるのであるが、準備期間の短さと兵站活動見積もりの失敗から悲劇に終わるとはだれも予想だにしなかった。

この年、南部の一部において奇妙な風邪のような症状が断続的に流行しており、それがニューヨーク近郊においても発生しつつあったことなど、誰も気にも留めなかったのだ。


75 :ひゅうが:2013/12/07(土) 16:16:07

【あとがき】――というわけで投下いたしました。
フランスも頑張ってますよ!おや?アメリカのようすが――というお話です。
ちなみに史実では作中電報はあまりにアレなので偽電文とみられていましたが、当のドイツ外務大臣がふんぞり返って「アメリカの参戦をしないように望む(キリッ)!」といって認めちゃうという大ポカをやらかしてます。
もともとは英国人による暗号解読の結果なのですが、今回の世界ではアジアで好き勝手をする米軍を掣肘するために使われたと考えました。
しかし、史実では運よく手に入れられたコピーとか、その暗号が古いままだったという幸運は今回はありません。
ですので疑惑の電文どまりとなります。


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修正回:0(アップロード)
修正者:Call50
備考:誤字・空欄等を修正。

修正回:1
修正者:
修正内容:
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最終更新:2014年03月02日 10:26