日本大陸ネタSS――第一次世界大戦時の日本(最終回) 「死の勝利」

――「見よ、白い雲があらわれてそのうえには人の子のような方が乗っておられ、その頭には金の冠を、その手には鋭い鎌を持っておられた。
すると別の天使が神殿から出てきて、かのお方に大声で叫んだ。
『鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時がきました。地上の穀物は実っています』」
ヨハネによる黙示録第14章


――アメリカかぜ、またの名をH5N1型インフルエンザ感染症。
この感染症は、世界史に特筆すべき影響を残すことになった。
ローマ帝国を衰退に向かわせた天然痘や、モンゴル帝国が西欧にもたらしたペストと同様に。
最終的に全世界で7900万もの死者を出すことになったこの疫病は、第1次世界大戦の帰趨を決したのである。

【カイザーシュラハトとZ作戦】

1918年2月、東部戦線から兵力を西へ転じたドイツ軍は大方の予想を覆し予想より3週間も早く攻勢を開始した。
ミヒャエル作戦――後世に「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」と呼ばれるドイツ陸軍最後の賭けである。
しかし、ほぼ同時に遣欧総軍もその総力を挙げた大突破作戦を実行に移していた。
「Z作戦」と呼ばれるベルギー大突破作戦である。
この作戦の根幹は、ドイツ軍が西部戦線に集結しつつある状態の中で手薄なベルギーを突破しドイツ軍主力の後方を遮断、200万の大兵力を巨大な包囲下に置くというものであった。
ドイツ側の攻勢目標がフランス野戦軍の撃滅ではなくフランス首都パリの奪取による講和強要にあることを見抜いていたペタン大将の献策によってフランス側は、予備兵力として続々と海を渡りつつあったアメリカ軍をあてて後方の備えとし自軍は「金床」としてパリ前面で耐え抜くという構想を抱いていたのである。
この構想のもとでアメリカ軍は初期においては50万名、最終的には100万名を投じて鉄壁の後方支援をなし、ドイツ軍の衝力が消え去ったその瞬間に勝利を決定づけるために投入予定であった。
というのも、当時アメリカ軍が建設したばかりの陸軍戦力は中国大陸からシベリアへ向けて派兵されていたために欧州へ送られることになった「新陸軍」は欧州基準で見ればまだまだひよっこもいいところであったためである。

だが、この方針が本国を焦らせ、さらには日本軍への対抗意識からある悲劇を生んでしまう。
当時のアメリカ合衆国では1か月あたり10万ともいわれる大兵力輸送を大西洋はともかくとして太平洋方面でも補給路を維持しつつ続けるには船舶が不足していた。
戦時体制突入からわずか数か月で予定を早めて輸送船を大量建造することはできないのである。
そのため自然と船舶一隻あたりの搭載兵員は膨れ上がり、さらには軍事組織が手続にパンク状態に陥ったことからニューヨーク港などの大規模港湾では陸軍兵力がとどめ置かれ衛生状態が悪化していった。
最悪なことに、その中のひとつにはある港湾都市があった。
サウスカロライナ州チャールストン。この地で前年から奇妙な重症に陥る風邪のような症状が流行していたことは、当時の連邦政府はまだ知らなかったのである。

そして、悪化した衛生状態から「現代の奴隷船」と呼ばれつつも派兵は行われ、連合軍は彼らをパリ周辺へ配しはじめていた。
日本軍が主要な補給港とする港をブレストからルアーブルへと移してまで行われた受け入れ態勢は盤石であったが、それでもその時までに魔の手は忍び寄っていたのであった。

ともあれ、ドイツ軍の攻勢開始を受けて連合軍最高司令部では攻勢中止か否かの判断が行われるも、それは否決された。
ベルギー方面が手薄になりつつあるのは事実であるし、米軍もこの時点で40万ほどの兵力を蓄積することができていた。
ならば予定を早めて持久戦を開始しよう。日本側の物資備蓄はすでに完了しているのだから、と。
フォシュ元帥いわく「賽は投げられた。本決戦はこの大戦のルビコンとなろう。」と。
そしてそれは正しかった。


182 :ひゅうが:2013/12/07(土) 23:11:50

日本遣欧総軍陸軍部隊指揮官であった秋山好古はこの時に固辞していた元帥杖を受け取ることとなっており、こう述べたという。

「行くぞな。ブリュッセルへ。」

その言葉通り、2月17日、遣欧総軍28個師団は一斉に攻勢を開始。
この日のために欧州へ運び込まれた通称「陸の連合艦隊」の一斉砲撃が航空機による弾着観測のもと開始され、海上からはユトランド沖の復讐を果たさんと派遣された扶桑型戦艦の「伊勢」「日向」と金剛型の生き残りの「金剛」「霧島」が支援砲撃を開始。
わずか半日の戦闘でドイツ軍前線を突破すると、まるで1915年のドイツ軍のたどった道を逆走するかのようにベルギーへ向けて全力疾走を開始したのである。

奇しくもそれは、タンネンベルグでドイツ軍が行ったような見事な「後手からの一撃(バックハンドブロウ)」であった。
ドイツ軍150万が集中するパリ前面に対し、フランス沿海部からベルギー方面に展開していたのはわずか20万。ベルギー国内に15万が展開していたものの大半が予備部隊であった。
この日のために大量の自動車と「トラクター」を戦場に持ち込んでいた遣欧総軍は、それを自走砲や兵員輸送車として用いることでドイツ側の予想を超えた進撃速度を実現した。
海沿いに進撃することで河川を通じて補給を受けるという荒業を使って(この過程で少なからぬ輸送船が機雷の餌食となっり、戦艦「朝日」も沈没していた)まで行われた進撃はドイツ軍の虚をつき、彼らはあわててベルギー方面への増援を行おうとした。
だが、そこに待ったをかけたのは日英両軍による大規模航空攻撃だった。
ドイツ軍のお株を奪うかのように英本土から飛来した飛行船部隊に爆弾を搭載し、ベルギーとドイツ本国間の鉄道路線めがけて大量の爆弾を投下していったのだ。
五月雨式に行われた襲撃は少なからに損害を余儀なくされたのだがそれによって増援が不可能となったことは日英のまぎれもない勝利であった。

3月10日、ついに遣欧総軍はフランス・ベルギー国境を突破。
この時点ですでに北部のドイツ軍は総崩れとなっていたが、日本軍はパリ前面には旋回せずにベルギーのドイツ軍兵站基地を次々に攻略あるいは焼き払いつつベルギー首都ブリュッセルへ向かいつつあった。
ドイツ軍は仰天した。
彼らはドイツ軍の退路を断つことでフランス国内の独軍200万を日干しにする気なのだ。

慌てる政府や皇帝に対し、ドイツ軍最高司令官ファルケンハイン元帥はあくまでも冷静であった。

「逆に考えるんだ。我々がパリを落とせば戦争は終わる。ベルギー方面に増援を投入する前にパリ方面への攻勢を強化しよう。」

と。
まさに彼の知略を証明するような発言である。
もちろん連合軍側も負けてはおらず、パリ前面において「ジャンヌ・ダルク線」と呼ばれる堅固な陣地を築き、そこに持てる力を集中して鉄壁の防衛陣を築いていた。
主力となったのは、日本軍の大突破成功に意気上がるフランス軍および新進気鋭のアメリカ軍。
前線で進撃を続ける日本軍の側面支援を英国軍が行っている中で持てる力のほぼすべてがここに集中されていたのである。


183 :ひゅうが:2013/12/07(土) 23:12:30

【死の天使による終戦】

だが、4月1日、ブリュッセル陥落という慶事を「今日はエイプリルフールのはずだがな」と喜ぶ裏で奇妙な報告が連合軍最高司令部に入った。

「パリ市内で風邪の患者が激増中。アメリカ軍内でも同様の症状がみられる。」

それが、世界を震撼させる「アメリカかぜ」の第一報だった。
翌週には感染はパリ全域に拡大。
同時に、ジャンヌ・ダルク線においても感染が拡大し、フランス軍は緊急対策を実施し始める。
しかしながら、パリ市が持っていた補給系統に大きく依存していた防衛側は、この病気を「風邪」と認識していたこともあり早期収拾に失敗。
何より、派遣された米軍内部で感染が蔓延していたこともあり被害は拡大の一途をたどった。
4月20日にはブレスト港においても感染が爆発的に拡大。
ほぼ同時期にニューヨークや中立国であったスペインでも感染が確認されたがもはや遅かった。
港湾都市アントワープにおいて日独間で大会戦が発生しつつあったころには米軍派遣部隊35個師団のうち24個師団が戦闘能力を喪失。
フランス全軍の半分近くに感染が拡大していた。
これによって短期的には70個師団以上の戦闘力が前線からは失われるか本来のものではなくなっていた計算となる。

遣欧総軍がついにベルギー・ドイツ国境地帯へ入りドイツ近衛師団と死闘を演じていた5月半ばにはパリ市民のほとんどすべてが感染し北フランス一帯からスペイン全土が感染爆発に見舞われ、欧州諸国に向けて拡散が開始されていたのである。

5月19日、フランス国内に残っていた遣欧総軍防疫給水部は北里研究所との協力で病原体が「インフルエンザウィルス」であるとみられると発表。
コッホの原則に基づく証明を待たずに、新鮮な病原体を研究室培養することによって肉眼視認可能となった糸状の病原体が不可視化していく有名なフィルム映像を公開したことによって全世界の病原体研究者を混乱のるつぼに叩き込んでいた。
それは、大戦勃発直前に北里研が発表して一笑に付された「ウィルス人体感染説」の証明であったためである。
対策として提案されたのは、有精卵を用いたワクチン製造。
既に複数の病原体で実行に移されていたこの方法を用いれば、ワクチン製造の道のりは比較的容易であるとされた。
だが、それは現状の感染には何の役にも立たない。
彼らの「輸液と経口補水液の服用」は対症療法でしかないのである。
このときすでにパリ市の機能はマヒし、フランス政府も機能不全に陥っていた。
政府を動かそうにも、官僚たちが次々に倒れ実行に移せないのだ。
せいぜいが、日本軍が英国内に作っていた紙製マスク工場から緊急輸入を実施するくらいであった。
5月26日、ついにジャンヌ・ダルク線は破られた。
ドイツ軍の浸透強襲戦術は全軍に徹底されており、機能不全に陥りつつあったフランス軍は阻止についに失敗してしまったのであった。
この報告を受けたクレマンソー仏首相は天を仰ぎ、ドイツ軍司令官であったウィルヘルム皇太子に「パリの無防備都市宣言と休戦」を提案。

このとき遣欧総軍はドイツ国内に殺到してあと一歩でパリ方面へ向かう鉄道路線の通るケルンへ到達するというところまで前進していた。
ライン川という大河の存在を前に、秋山元帥は攻勢の中止を決断。
ドイツ軍は「薄氷の勝利」を手にすることになったのであった。

だが、パリへ入った先遣隊が見たのは、疫病に苦しむ市民の姿。
この現実を前にヴィルヘルム皇太子は救援医療の実施を提案。連合軍最高司令部もこれに同意し、武装を最低限に維持したままで歴史に残る「パリ緊急医療支援」が開始されることになったのである。

ここに――第一次世界大戦は終結した。


184 :ひゅうが:2013/12/07(土) 23:14:06

【あとがき】――というわけで第一次世界大戦ネタの最終回です。
ああ・・・やっと終わった。
駆け足ですが何とか語り終えることができました。
アメリカかぜ対策についてはまた今度に…


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修正回:0(アップロード)
修正者:Call50
備考:誤字・空欄等を修正。

修正回:1
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修正内容:
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最終更新:2014年03月02日 10:27