285 :ひゅうが:2013/12/08(日) 14:45:08

大陸日本世界ネタSS――第1次大戦時の日本(番外編) 「進撃の北里研~ウィルスを駆逐せよ~」

――日本帝国。極東に存在する亜大陸群国家は、世界有数の荒い海によって大陸から隔絶されている。
古代の竜骨が存在していない船舶では気まぐれに荒れる海を渡りきることに大きな困難が伴い、また大航海時代以降の船舶でも船団を維持しつつ渡りきるには大変な努力が必要とされた。
だが、そのことは日本大陸が疫病から無縁であったことを意味しない。
なぜなら日本大陸は北方まわりや南方まわりであるのなら渡航が比較的には容易であり、しばしば漂着者という形で疫病禍を逃れた人々が漂着。
数次のアウトブレイク(感染爆発)を経験していたためである。
この点日本大陸の住人は南北両米大陸よりも幸運であった。近代に入る頃には世界で流行していたさまざまな伝染病の流行を経験し、免疫を持っていたのであるから。
これによりコロンブスの新大陸到達に伴い北米を襲った天然痘禍の類は日本大陸においては生じていない。

さて、明治以降の日本において喫緊の課題となったのは、都市型伝染病の防止であった。
とりわけ江戸時代後期を通じて日本人を悩ませ続けたコレラ、そして工業化の進展に伴い急増していた結核は国家の重大事として対策が急がれることになった。
すなわち、上下水道の整備によるコレラ菌繁殖環境の撲滅と国民の衛生環境改善である。
とはいえ、富国強兵殖産興業の掛け声のもとでしばしば人材の使い捨てが横行し、地方行政機関においてはその必要性を認識していなかった向きも大きく、明治初期において対策は限定的なものにとどまった。

しかし、明治18年には帝国政府は対策に乗り出し、各地の道庁や県庁から「保険署」を独立させて政府直轄とし、強力な行政指導権を付与することで公衆衛生の向上に取り組みはじめた。
同時に、文部省とも協力して国民の啓蒙活動の一環として伝染病対策の必要性を広報。
折しも明治23年に北里柴三郎らが帰国し、北里研究所や伝染病研究所といった研究機関が設けられはじめていた時期に重なり、この時期に公衆衛生の道に飛び込んだ人々はのちに大きな成果を上げていくことになる。


【理研と北里研】

日本における科学技術の発達は、理化学研究所の存在を外して語ることはできない。
当初は国立で、のちに半官半民という形となり財閥群や政府の資金提供により研究を行っていたこの機関は、特許権だけでなく自ら事業を行うことで利益を上げ、そしてさらに研究を行うというサイクルを確立していた。
研究所内部だけでは研究できないような周辺研究などは、外部の研究機関、たとえば大学や私立研究所との共同で行われることになっており、これは現在でいう産学連携の走りである。


286 :ひゅうが:2013/12/08(日) 14:45:53

そんな理研は、血清療法によって日本人初のノーベル賞を共同受賞した北里を放ってはおかなかった。(註:史実では療法確立者であると確認がとられず欧米学者の単独受賞)
彼のもとで設立された北里研究所は、潤沢な予算のもとで大きな成果を上げていく。

たとえば、北里の師であるコッホのアイデアを応用し、ウシ型結核菌の50代にも及ぶ継代培養により偶然作り出されたBCG(無毒化結核菌ワクチン)の開発は人類初の結核ワクチンとして世界を驚愕させた。
これに続けとばかりに理研は同年、結核治療の初の特効薬となるストレプトマイシンの発見と製造プラントの建設を発表。
世界が懐疑的にみる中で北里の招きによって来日したコッホ調査団がその効果を認める報告書を提出したことにより、世界の医療従事者は歓喜に包まれた。
1894年、日清戦争時の脚気予防策の中から、ビタミン欠乏症を指摘しこれを実証するなど北里研の進撃は続く。

だが、後世に最も大きな影響を与えたのは、「細胞寄生型抗原物質仮説」の提唱であろう。
いわゆるウィルス仮説である。
提唱時には一笑に付された仮説であったのだが、タバコモザイクウィルスの結晶化に伴い存在が実証されたこの仮説は、世界の防疫史に大きな影響を与えたのである。
なぜなら、1918年に人類は史上初の「ウィルスによるパンデミック」を経験することになったからである。


【アメリカかぜ】

北里研はそれが起きたとき、フランス国内に研究者を派遣しており遣欧総軍の防疫給水部に数名の研究者が存在していた。
そのため、初期のアメリカかぜの死者をみて「これはただの風邪ではない」と判断した。
そして、とりもなおさず新鮮な血液を培養すると、血中で信じられないものを見つける。
糸状の病原菌と思われるものが「溶けて消えていく」のである。
これこそ、インフルエンザウィルスが培養初期において形成する糸状体であった。
試験の結果、菌類を取り除いた清澄液からも抗原性が確認されたことから彼らは確信した。
これこそ、「ウィルス」だと。
結晶化の努力が払われるが、一方で公衆衛生担当者であった彼らは後世に残る英断を下した。
糸状体が溶けていく様子を光学顕微鏡につないだフィルムに残すことにしたのである。
そして取りも直さず本国と英国の学会に緊急報告として提供したのだ。
懐疑的になる人々が多い中、本国の北里は即座に動いた。
持てる伝手を総動員して「抗原を持った血清」を複数手段で輸送させ(中には大西洋横断飛行船すらあった)入手。
1918年4月には人海戦術で結晶化に成功したのである。
理研において実験段階であった透過型電子顕微鏡を用いての観察もあり、病原体は特定。
BCGの大量生産用に用いられていた鶏卵を用いた培養法の確立へと対策は進行していく。

このプロセスは、後世のインフルエンザ対策の基本となった。
さらには現地に研究者を残していたこともあって、医療従事者の感染による壊滅が与える文字通り破滅的な影響――通称「パリ・レポート」が作成され、2名の殉職者を出しながらも北里研はパンデミック対策のノウハウを手に入れた。
そして北里研は、理研に協力を仰ぐ。

「医療従事者の分だけでも弱毒化ワクチンを製造したい。これは国家の一大事である。」

時の児玉源太郎内閣の後押しもあって、この方針は了承された。
結果、1918年9月末までに日本帝国は3000万人分の弱毒化ワクチンを製造。
翌年3月までに日本国内をほぼすべてカバーするだけの大量培養に成功していたのであった。
停戦成立時には各国の医療従事者に向けてのワクチン大量供給の方針が発表されており、同時にインフルエンザの予防方針が次々に発表されていった。

「マスクの着用による飛沫感染の防止、湿度の維持によるウィルス増殖の阻止、栄養供給の徹底、腋下の冷却と浸透圧調整飲料液の服用」

量産が開始されつつあったアスピリンやインドメタシンなどの消炎鎮痛剤と胃壁保護薬の同時服用などの対策もあわせて提言されていた。
世界は唖然としてこの動きを見守っていたが、まずは遣欧総軍が、続いて日本国内が戦時下のごとく準備に狂奔し続けるにおよび、まずは英国が、続いて仏独がという形で準備を整えていった。


287 :ひゅうが:2013/12/08(日) 14:46:35

疫病が断続的に流行する「死都パリ」において連合軍と同盟軍双方の医療担当者が会合を持ち、つづいて比較的安全なヴェルサイユにおいて連続的に停戦講和交渉とともに感染拡大防止と治療計画が話し合われはじめた。
戦後の「ヴェルサイユ体制」はこのときにはじまったとさえいえるだろう。

――結果として、アメリカかぜの感染拡大は一定規模阻止できた。
三波におよぶ全世界的な流行により7800万人(異説あり。全世界26億のうち9億人が感染)を超える死者が出たものの、アジア植民地や戦乱で混乱に陥っていた中華民国を除けば医療機関の崩壊による感染対処不可能といった事態は阻止され得、致死率10パーセントといわれるウィルスに対し実質的な致死率は列強諸国において5パーセントから7パーセント程度に抑え得たのである。

感染拡大の源が北米東部にあったことがわかることでアメリカ合衆国包囲網ともいえる「ヴェルサイユ体制」が成立したことはある意味当然であろう。
感染対策は、当時のウィルソン大統領が執務不能に陥っていたこともありアメリカにおいて後手後手に回り、中国大陸派遣軍やシベリア干渉軍により持ち込まれた病原体がアジア各地に拡大する結果となってしまったのだから――

288 :ひゅうが:2013/12/08(日) 14:48:36 【あとがき】――というわけで投下いたしました。
北里さんはもっと評価されてもいいと思うんだ…(ひょっとしたら本当にノーベル賞を受賞していたかもしれない人でしたし)


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最終更新:2014年03月02日 10:29