624 :ひゅうが:2013/12/03(火) 23:16:31

「私たちははじめてパリに入ったわけではありません。たまたま戦っていた日本軍から停戦成立を聞いただけでした。
いや、もう死ぬかと思いましたよ。それまであの音に聞こえた島津と白兵戦になろうかとスコップを研いでいたんですから。
でも日独間は交戦状態でしたからね。誰かがなるだけ運のいいやつをといったらしく、私が選ばれたわけです。

(中略)

停戦成立わずか30時間で現地に入れたのはすごかったですね。
日本軍の徹底した兵站重視路線は知っていましたがこれほどとは。火力戦を実施するにはあれほどの輸送網が必要なんですね。
パリは、もう地獄のようでした。
同僚となった日本の人――ノギ中佐がマスクとアルコールを大量に用意していて助かりましたよ。
私たちは、言葉が通じない軍同士で絵を使ってあれやこれやをはじめました。
そのうちに、死んだ人の肖像画を描かされはじめました。
みんなね、すごい顔をしているんですよ。
でも、そんなことはかけないじゃないですか。だから私は、下手だ下手だと言われ続けた人物画を描いていた経験からいくつか顔のパターンを思い出しながら描いたんです。
少しオーバーになったり凛々しすぎることもありましたが(笑)

ですが、泣いて喜ぶんですよ。
あの、今まで塹壕で殺しあっていたフランス人の遺族が、ゴーグルごしにぼろぼろ涙を流して。
何度も何度も手をとって。
日本軍の人たちも、病に苦しんでいた当のアメリカ軍の黒人兵たちも、英国兵たちも、みなが遺族をなぐさめるべく努力していました。
葬式では軍楽隊が演奏し、あの手この手で手品をしたり。
今でこそ、パリ以外のフランス人はアメリカ軍を文字通りの疫病神扱いしていますが――あそこでは誰もが被害者で、誰もがその看取り手だったんですよ。」

アドルフ・ヒトラー(当時曹長としてライン戦線に参加。その後連絡要員としてパリに入った。)


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最終更新:2014年03月02日 10:29