960 :ひゅうが:2013/12/06(金) 22:11:41

大陸日本世界ネタSS――幕間「不毛なる半年」

――日本帝国遣欧総軍。
この名の組織は1916年12月に設置され、そして1922年10月に遣欧軍と名を改めるまで存続した。
「総軍」と名がついているのは、その名の通り「陸海軍を統括して指揮する権限を有する」ためである。
いわば、第二の大本営である。
総軍と名のついた組織はこれ以前も日露戦争時の満州総軍という形で存在していたものの、こちらは連合艦隊が独立組織として存在していたために権限としてはこちらが上であった。
連合軍同士の統合作戦計画の承認こそ「連合国軍最高司令部」と東京の大本営の権限であったものの、その範囲内においては独自の作戦行動権が付与されている。
高度に独立性の高い司令部が設けられたのは、1916年初頭から半年余り続いた「指揮権問題」の結果である。

これは、フランスのフォシュ元帥により「日本軍は東京から遠く欧州で軍勢を指揮するのは不可能である。そのためパリの連合軍司令部の指揮下におく」という提案がなされたために惹起された問題である。
英国軍の同盟国として参戦するという形であった日本軍であったものの、その英国軍の運用は連合軍連絡会議によって決定されており独自の作戦指揮権を有していた。
そのため英仏間の統合作戦においては方針を巡る対立がみられており、フランス軍はそのあまりの大きな損失により自由に作戦を行う余裕を急速に失いつつあったのである。
たぶんに日本側の遠距離派兵の足元をみた要求であったが、それは偽りもないフランス側の切実な要望であったのだ。

特に、先遣隊として欧州へ派遣されていた日本陸軍第14軍所属の3個師団(通称四国軍団)がヴェルダン要塞攻防戦で連合軍司令部の命令で投入され、3日間の近接肉弾戦の果てに損耗率63.1パーセントに達する大損害の末にヴェルダン要塞主郭奪還を成功させていたことは敗北と停滞に苦しむフランス側に大きな希望を与えていた。
時のフランス第8軍指揮官エギーユ・ペタン中将が「日本軍50万あらば、われらベルリンまで進撃せん」と述べたほどだ。

だが、彼らは見落としていた。
これほどの損害が発生してなお自軍指揮下に置くという通達をすることはどういうことを意味しているのかを。
フランス側は感覚がマヒしていたのだが、機動戦と浸透突破戦を重視する日本師団を固定陣地固守と奪還に投入したことは歩兵の肉弾戦という消耗戦を生み出していた。
何しろ、先遣隊の火砲は彼らの充足率でいってわずか17パーセント。
フランス軍68個師団で発生した反乱によりヴェルダン要塞が陥落寸前となるという非常事態により「連合軍司令部下での錬成中であった」という編成上の臨時配置(まだ総軍が編成されていないため)であったために権限を拡大解釈して無理に投入された結果に日本陸海軍は怒り心頭に発していたのだ。

グレーゾーンぎりぎりを潜り抜けることで欧州でも証明された日本軍の精強さは、その代償に「しりぬぐいをさせてなお肉弾戦に投入させられるかもしれない」という深刻な危機感を日本側に植え付けていたのだった。
そしてフランスにとっての希望はあまりにまばゆく、手を延ばさざるを得ない状況に彼らは追い込まれていたのだった。


961 :ひゅうが:2013/12/06(金) 22:12:11

こうして1916年3月の連絡会議において、喜色満面で交渉に臨んだフランス軍首脳と渋い顔の英国軍首脳は、日本側から最後通告じみた要求を受けることになった。

「独自の作戦立案・指揮権および命令拒否権の要求」

すなわち――連合軍司令部および連絡会議への不信任通告であった。
当然ながら会議は紛糾。
しかしあきらめきれないフランス参謀本部のリークによってことはパリ市民の知ることとなり、過激な一部新聞社による扇情的かつ時代を反映した人種差別的な言説が公館に流布される。
それが逆輸入される形で日本国内の世論も沸騰。
設置予定となっていた遣欧総軍の編成作業はその指揮命令系統や付与権限から作り直しを余儀なくされることとなってしまったのであった。

この内紛は、当時中国問題で対立を深めていたアメリカのジャーナリズムを刺激し、ドイツ国内でも嘲り混じりに語られるほどとなっていた。
こうした状況を憂慮した日英同盟の首脳陣は、連合軍空中分解の危機を回避すべく「遣欧総軍隷下部隊」である遣欧艦隊に前弩級戦艦8隻と弩級戦艦2隻、さらには最新鋭の扶桑型戦艦2隻を追加する措置に出る。
これにより、日本海軍は総勢20隻に達する主力艦を欧州へ配したことになる。
その結果として「ユトランド沖海戦」における血戦とドイツ海上戦力の壊滅――そして日本側主力艦の過半喪失と引き換えの「ユトランド沖のZ旗」の伝説誕生による不動の名声という事態に陥るのだが、これはひとまず置いておこう。
1916年10月、連絡会議は、結局「新規連合軍参加国と旧来の連合国軍加盟国の統一指揮を実施する」ための「連合国軍最高司令部」の設置で合意。
これにより日本側は「遣欧総軍」の編成を行うことができたのであった。


戦史家リデル・ハートはこの半年間を「きわめて不毛な宝石のとりあい」と評した。
1917年1月には遣欧総軍参加部隊は続々と海を渡り、集結地となる英国南部へと移動。
現地へと展開を開始した。
展開地は、1915年に壮絶な運動戦が展開されたフランス沿海部。
それまで英国大陸派遣軍が展開していた場所である。
結局、フランス軍と日本軍の間に英国軍が入ったあたりは日本側の「また兵をとられてはかなわない」という感情が透けて見えるようであった。


962 :ひゅうが:2013/12/06(金) 22:15:18

【あとがき】――というわけで、遣欧総軍派遣までのゴタゴタでした。
史実でもこの時期に発生したフランス軍68個師団の反乱は、ドイツ側の余裕に加え時期のずれから最悪の形でヴェルダン戦にかかってしまいました。
そのため、手元にあった日本軍師団までもが投入されることになってしまったのですがそれが引き金を引いたという形です。


970 :ひゅうが:2013/12/06(金) 22:32:59

史実に置いて1917年4月に発生した反乱ですが、ここでは緒戦で大きく押し込まれていたことと日露戦争の戦訓を受けて双方機関銃と重火器を大幅強化していたこと、
そして英国軍が仏軍式一斉突撃を徹底拒否していたために増大した被害によってさらに早まっています。
これに付け込んでヴェルダン要塞戦が惹起されたと本稿では想定しました。

なお、日本側が投入されたのは、火力をフランス側のそれで補う計画によるものでしたが、日本側のそれが浸透突破した精鋭部隊に追随して火力も移動し通常部隊とともに迅速に前進するものであるのに対し、
フランス側のそれは威力こそ大きいものの固定式の後方陣地から動かないもの。
しかも浸透突破したあとの戦線へ向けては浸透ではなく一斉突撃を志向していたために対処の余裕を与えてしまい、せっかく作りだした突破点は包囲殲滅される前に死にもの狂いで前進と敵兵力拘置を行う羽目になりました。
そうしてやっとこさ突撃準備が整って実行された時には、日本側は壊滅どころか消滅寸前であったという感じです。

「ドクトリンの差が生み出した悲劇」と総括できましょうね。

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最終更新:2014年03月02日 10:31