664 :yukikaze:2014/05/03(土) 02:52:25
日ソ同盟ルート。中華動乱第二幕投下。

1950年10月1日。
東トルキスタンと福建の地は、大規模な砲声と爆音によって支配されることになる。
24時間の猶予期間が過ぎたことにより、日本軍とソ連軍は予定通り攻撃を開始。無謀にも日ソにたてついた中華民国を叩き潰すべく軍事行動を開始した。
これに対し中華民国は、国際社会に「日ソの侵略行為」と口汚くののしると共に、彼らが上陸して一月の間に必死の思いで構築した防衛陣に籠って防衛作戦に出たのだが、結論から言えば資材と労力の無駄でしかなかった。
確かにアメリカから派遣されていた軍事顧問により作成されたボックス陣地は、理論上はなかなかの堅陣であった。
陣地の配置図等を調査した日ソの工兵部隊の人間は、その合理性に応分の評価をし、「適切な資材を用い且つまともな軍隊が防衛兵力として存在し、更に並みの軍隊が相手だったら、この防衛陣によって敵軍は消滅していたであろう」と感想を述べている。
そしてアメリカ人にとって不幸なことに、このボックス陣地は上記3要件すべてが当てはまらなかったのである。
資材については後方担当の人間や軍高官がネコババしており、前線に来たのは劣悪な資材のみ。
まともな軍隊については、蒋介石子飼いの部隊はまだしも、地方軍閥系列の部隊は練度が最悪であり、更に蒋介石が子飼いの部隊を予備戦力として維持しようとしたため、必然的に前線に送られるのは地方軍閥の部隊。
そして最後に、彼らの相手となるのが、頭のネジが狂っているんじゃないかと言われるくらい、大火力を信奉することに定評のある、ソ連軍と日本軍。
猛烈な火力により強度不足な陣地は次々と吹き飛び、練度不足と恐怖にかられた部隊ががむしゃらに放った砲火を日ソの歴戦の強者たちは、余裕の鼻歌を歌いつつ、応射して粉砕。
堪らず壊走する部隊を自慢の機甲部隊で追い抜きつつ、敵の防御陣地をわずか一日で突破したのである。
最低でも1週間は持つと判断していたアメリカの軍事顧問にとっては想定外の事態であり、彼らは慌てて予備戦力として保持していた蒋介石子飼いの部隊を出撃させて、その勢いを止めようとした。
本来ならば敵軍の消耗を待ってからの打撃戦力だったのだが、事態はそんなことを言う余裕を失っていたのだ。

蒋介石子飼いの部隊は、蒋介石が自慢するに足る部隊であった。
アメリカの装備に身を固め、アメリカ式の訓練を施された部隊は、確かに精鋭と言えるだけの士気と練度を誇っていた。少なくとも1940年のフランス軍や、1941年の北アフリカのイタリア軍となら、十二分に圧倒出来たかもしれないし、もしかすれば1945年の急造された武装SSにすら互角以上に戦えたかもしれない。
それ相応の運を持ち合わせていれば、アルデンヌで無様な失敗をしたアメリカ第一軍をも手玉に取れたであろう。
だが・・・中華民国軍の将校は、満足いくレベルにまでに機械化された部隊の機動力を駆使して、機動防御戦闘を展開しようとしたのだが、彼らは重要なファクターを理解していなかった。
第一に、高度に機械化された部隊は、その代償として兵站の負担が半端ではないのだが、兵站という概念の本質をまるで理解していなかった彼らは、そうした点を軽視していたこと。
第二に、ドイツの電撃戦や、日本やソ連の二重包囲戦が成功できたのは、彼らが航空優勢を確立できていたという事実について全く無知であったこと。
最後に、日ソは、中華民国やアメリカよりもはるかに洗練された機動防御戦を展開したドイツと、数年前まで本気でどつきあっていたということである。
出撃から数日後、意気揚々と出撃した蔣介石自慢の部隊が、日ソの戦闘爆撃機や攻撃機からの洗礼を受け、ただでさえ貧弱な兵站が吹き飛ばされたことで稼働率を大幅に下げ、満身創痍となった所で、日ソ自慢の機甲部隊によって包囲殲滅されたのは、ある意味当然の結果であった。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず」というのは、古代中国の偉大な軍事研究家の名言ではあるが、残念なことに彼の後継者たちは、彼の名言と真逆なことをし、そして滅びていったのである。

665 :yukikaze:2014/05/03(土) 02:54:40
日本とソ連が攻勢を発起して1月後、福建と東トルキスタンでまともに活動している中華民国軍は皆無になった。
大多数の将兵は、戦死するか捕虜になるかの運命をたどりるのだが、彼らはまだ幸運であった。
一部の部隊などは、これまでの暴虐の数々から怒り心頭に達していた地元住民によって、むごたらしい拷問を加えられた上、木に吊るされる羽目になった。
日本やソ連の憲兵隊が、中華民国軍を保護するために慌てて現地に向かうなどという笑えない話すらあったのだから、彼らがいかに地元住民に憎まれていたかよくわかる。
どれだけ中華民国が日ソの暴虐を訴え、アメリカのイエロージャーナリズムがそれを煽り立てる発言をしても、これが現実であった。

こうした状況に置かれては、蒋介石に打つ手は何もなかった。
彼が権力を握っていられるのは、アメリカとの太いパイプがあった事と、当時の中華大陸内で最大の軍事力を持っていたからだ。そして権力の源泉の内片方を彼は失ってしまったのだ。
彼は、特使として派遣していた自分の妻に悲鳴のような電文を打ち、アメリカからの大規模な支援と、アメリカ軍の派遣を求めるよう依頼すると共に、東トルキスタン及び福建の国境地帯に、手当たり次第部隊を送り込んで日ソの侵攻に備えていた。
彼にしてみては、日ソが国境から一歩でも出たら、彼らの侵略行為の証明になると思っていたのだが、日ソ指導者は彼のそんな浅知恵を鼻で笑うかのように、国境付近で全軍を停止させ、世界に向けて宣言をする。

「横暴な盗賊は無事に追い払った。我らはここで進撃を止めるが、次に盗賊が友人の家に入りこんだら、今度こそ盗賊のねぐらにまで入り込んで叩きのめす」

完璧なる勝利宣言であった。ここに中華動乱の第一幕はひとまずの終結を迎えたのだが、あいにくとそのまま終焉を迎えることはなかった。このまま終わることを望まない存在がいたからである。
彼らがちょっかいを出すことによって、大陸は混乱と混沌に支配されることになる。

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最終更新:2021年04月15日 11:47