27 :yukikaze:2014/04/29(火) 19:20:26
前スレ第三帝国様の綺麗なソ連年表にある中華動乱ネタ。

第二次大戦が終結して5年後の1950年6月25日。
この日、ウイグルスタン共和国と福建共和国の国境で大規模な砲火と共に中華民国軍の大部隊が両国国境を突破した。
後の中華動乱の勃発である。

この中華動乱が勃発した直接の原因は、1949年に奉天軍閥との手打ちにより曲がりなりにも大陸統一を果たした蒋介石が、自らの権威を高める為に、1920年代のゴタゴタのさなか独立していた、ウイグルと福建を征服するものであったのだが、裏の原因は、日ソ同盟に危機感を覚えていたアメリカが、彼らに楔を打ち込むために、アジアに親米の大国を欲していたことが大きかった。
この時期のアメリカが、いかに中華民国に期待していたかというと、マーシャルプランのおよそ2割近くを支援に継ぎ込み、更に第二次大戦で余剰になった兵器を大量に譲渡し短期間のうちにアメリカ式の機械化部隊を揃えることに成功している。

もっとも、額面上は急速に軍拡が進んでいたのだが、その実力はというと、蒋介石直属部隊の半数が練度的にそれなりに満足できる(約15個師団)のだが、それ以外は兵器はともかく練度は駄目で、地方軍閥系部隊になると治安維持部隊にすら向かない有様であった。
更に言えば、兵器面も小火器やトラック類、大砲は満足いくレベルなのだが、戦車は97式やT-34と比べると「凡庸駄作(アメリカ兵談)」なシャーマンであり、航空機も、ムスタングもコルセアも影も形もなく、「頑丈と安さが取り柄」なP-40Qアドバンスドホークであった。

要は「人海戦術と砲撃で押し切れる相手には強いが、まともな機甲部隊と空軍が出てくれば終り」な有様なのだが、額面上の強化に酔った蔣介石や中華民国上層部は、それほど強力な軍備を持たない両国を鎧袖一触に倒せると判断し、宣戦布告なしに攻撃を仕掛けたのである。
これが・・・蔣介石だけでなく西側諸国のアリジゴクとなることに気付かずに・・・

103 :yukikaze:2014/04/29(火) 23:47:42
続きが出たんでサクサク投下。

中華民国やアメリカが戦いを望んでいた理由は上述した。
しかしここで疑問が出てくる。彼らはソ連や日本が出てくる危険性を理解していなかったのかと。
結論から言えば、理解はしていたが軽視していたと言える。
何故か? 理由は当時のアメリカが有していた核信仰論に他ならない。
1945年にロスアラモスで生み出された原子爆弾は、主にソ連と日本への恫喝手段として、ミュンヘンとニュルンベルクに叩きつけられ、ドイツ無条件降伏の一因ともなった。
そしてアメリカは「核爆弾さえあればいかなる国も凌駕できる」として、核爆弾の量産に狂奔。アメリカの通常軍備を歪めながらも、この時期においては世界最大の核保有国となっている。
この時代、アメリカが、外交的常識をどこかに置き忘れたような高圧的な外交を行った理由は、ひとえに核の威力に目がくらんでいた結果でしかなかった。
こうした状況において、アメリカがまともな外交を執り行う可能性はゼロに近かった。
無論、ソ連や日本の動きを警鐘する向きもあったのだが、日ソを目の敵にする国務省の1派とアラスカに戦略空軍をおいた空軍の強気な発言とバイアスのかかった分析により黙殺されている。
彼らはこのツケを痛烈に取り立てられることになるのだが、それは後にしよう。

中華民国がトルキスタン及び福建に攻め込んだのを受けて、日本とソ連は直ちに国連に安保理の開催を求め、中華民国の即時撤退を求めた。
だが、アメリカ政府は「これは中国の内政問題であり国連が関与すべき事案ではない」として拒否権を発動。英仏もそれに追従し、安保理は機能不全に陥ることになる。
ここまではアメリカの思惑通りであったのだが、ここからは誤算の連続であった。
第一の誤算は、国際連合の機能不全を見るや、日ソが共同でトルキスタンと福建に対して相互防衛条約に基づき、援軍を派兵することを宣言したのである。
この事態にアメリカは「紛争に介入することで事態を悪化させることは慎むべきである」として日ソを批判するが、「話し合いで紛争を止めさせようとしたのを邪魔したのはどの国か」と一蹴され、国際的に赤っ恥をかくことになった。
第二の誤算は、彼らの核の優位性が根底から覆ったことであった。
まず、ソ連側は、首都モスクワに新たに対空ミサイル部隊が設置されたことを宣言し、西側諸国の記者も含めてデモンストレーションを公開したのである。
この史実ガイドラインの配備の大幅な前倒しによって、B-36の神通力は瞬く間に失うことになる。
日本側からのしっぺ返しはさらに痛烈なものであり、声明から2日後に、種子島基地から大型ロケット「天照(史実R-7)」の打ち上げに成功し、世界史上初の人工衛星による観測を執り行ったのである。
後の機密情報指定解除により、日本は1948年にはロケット打ち上げに成功しており、この時期には偵察衛星運用まで行っていたことが明らかになっているのだが、それでもなおこの打ち上げ成功の事実にアメリカは「アマテラスショック」と呼ばれる打撃を受けることになる。
それはそうだろう。何しろ日本は大陸間弾道弾を保有してしまったのだ。
相手側は対空ミサイルによる防御壁があるのに対し、こちら側には何もなし。
狂乱するなというのが無茶な話であろう。

105 :yukikaze:2014/04/29(火) 23:56:34
そして極めつけが、中華民国軍の無能であった。
確かに開戦序盤は物量に任せて快進撃をしたものの、トルキスタンでは砂漠地帯の行軍による車両の故障率頻発と、伸びつつある補給路をトルキスタン軍のゲリラによって襲撃され、領土は拡大するもその侵攻は鈍りがちとなり、福建においても山岳地帯でのゲリラ戦によって、思うように軍を進められない有様であった。
にも拘らず、事態を理解しない上層部は、無茶な進撃を支持する傍ら、アメリカから供給された豊富な資源を懐に入れてサイドビジネスに勤しむということをしでかし、酷いものになると、前線部隊に補給品を売りつけるという有様であった。
それでも開戦1ヶ月後には、両国の国土の半分近くを制圧できたのだが、彼らの進撃もここまでであった。

1950年8月15日。中央アジア軍管区より派兵された第40軍(戦車師団1 自動車化狙撃師団3)を中核とする部隊がトルキスタン西方に出現。同時に福建共和国の商港であるアモイに、日本陸軍大陸派遣軍2個軍団(機甲師団1 機械化歩兵師団3)が到着することになる。
日ソ超大国が本腰を入れたのは誰の目にも明らかであった。
無論、中華民国が単独でこの両国に勝てると思う者も誰もいなかった。
後知恵論から言うと、中華民国はここで全力で開戦前の国境に自主的に下がって、日ソ両国との交渉を執り行うべきだったのだが、アメリカの力を過信していた事と、自身の経緯低下を嫌う蒋介石は、現状ラインから下がることなど考えもしなかった。
結果、中華民国に出来る事と言えば、アメリカに泣きつくことと、全世界に対して日ソの暴虐を訴える事であったが前者はともかく、後者については、日ソが中華民国の蛮行を余すことなく公開した事によって、逆に自分達の侵略者としての悪評を決定づけるだけになってしまった。

こうした状況を尻目に、日ソ両国は続々と部隊を集結させ、いつでも総攻撃に移れる体制を取ると、中華民国に最後通告を与えることになる。

「今から24時間後に部隊を撤退させ、今回の侵略行為のけじめをつけろ。しない場合は実力行使で分からせる」

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最終更新:2021年04月15日 11:45