868 :yukikaze:2014/05/12(月) 01:07:44

1951年1月。北京郊外にある国際空港に一人の男が降り立った。
出迎えに来た中華民国上層部は、それこそ靴の裏をも舐めんばかりに媚びを振ろうとするが、男はコーンパイプをくわえたまま、つまらなさそうに右手を振って追い散らした。
男にしてみればこの国の上層部などただの負け犬。
彼がこれまで住んでいたホテルのボーイにも劣る連中である。
ペットにじゃれつかれるのは構わないが、負け犬にまとわりつかれるのは彼の美意識に反した。
媚び諂うような笑みと、それとは反対に屈辱に怒りを覚えている目の色に、男は何の感慨もわかずに大使館が用意していた車にさっさと乗りこむと、今日から彼の王宮となるホテルに向かうよう指示を出した。
もっとも、男にしてみれば、このようなみすぼらしい王宮など仮の宿でしかなく、すぐにでも終わらせて白い館の王宮の玉座に座る気満々であったが。
国際連合停戦監視団総司令官。フィリピン軍元帥ダクラス=マッカーサーにとって、中国の仕事は踏み台以外の何物でもなかったのである。

フィリピン軍元帥ダグラス=マッカーサーがこの地に来るまでには紆余曲折がある。
元々彼は、親子二代且つ最年少で陸軍参謀総長になるというエリート中のエリートであったのだが、ルーズベルトとの折り合いが悪く陸軍を退役。
その後、大量の権益を持ち、更には第一次大戦において義勇軍師団長を務めた経験から知日派であった経歴を買われて、フィリピン軍元帥に就任をしていた。
本来ならばこの地でひっそりと消えていく運命にあった彼に脚光が当たったのは、第二次大戦に参戦したアメリカ軍のあまりもの体たらくによるものであった。

869 :yukikaze:2014/05/12(月) 01:11:00
アメリカ軍は弱かった。まあ参戦したのが1943年の冬であり、碌な準備期間もなしに欧州反攻作戦に参加したのだから当たり前なのだが、ケチの付き始めはノルマンディー上陸作戦であった。
この時、勇んで上陸をしたアメリカ軍であったが、体調不良のルントシュテッド元帥に代り、西部方面軍司令官になったロンメル元帥の乾坤一擲の賭けによって、上陸直後の混乱を利用され、ロンメル自慢の機甲部隊によって文字通り叩き出されることになる。
シチリアからマルセイユに強襲上陸した日本軍2個軍団の存在がなければ、戦争の帰趨さえも失わせたと言われる大敗に、アメリカの威信は見事に打ち砕かれたのだが、それに止めを刺したのが、1945年1月の「ドイツ陸軍最後の攻勢」と言われるバルジの戦いであった。
このバルジの戦いは、アメリカ軍に大被害を与えることで、アメリカの継戦能力をなくすことを主眼に置くという、実にヒトラーらしい発想だが、野戦軍撃滅という目標は、ドイツ陸軍の好みに合致しており、また、補給についても辛うじて許容範囲内に収まっていた事から、ドイツ陸軍上層部も全面的に同意している。
かくしてグデーリアン元帥(この作戦に伴い昇進)率いるドイツ陸軍3個軍の攻勢は、彼らの努力とアメリカ軍の油断により戦略的な奇襲効果を発揮。アメリカ軍は10個師団を壊滅するという最悪の結末を迎えることになる。

この2つの敗北によりアメリカ軍の評価は地に落ちた。
アメリカ軍総司令官であったマーシャル元帥は即座に更迭され、アメリカ軍の独立指揮権も、実質的にイギリス陸軍の指揮下に置かれかねない情勢にまで追い込まれた。
これについては日本の苦言により事なきを得たが、連合国軍においてアメリカ軍は「金と補給物資以外は役立たず」であるという評価が公然と語られるまでになり、アメリカ国内におけるルーズベルトの戦争指導能力についても「歴代最低」とまで言われるほどであった。
万策尽きたルーズベルトは、最後の切り札としてマッカーサーに就任を依頼したのだが、これがどれだけ嫌だったのかというと、最後まで側近に「マッカーサーではなく陸軍参謀総長のアイクでは駄目なのか」と問いかけ、どうしても無理であることを理解した時、苦虫を百万匹噛み潰したような顔で、散々毒づいたほどであった。
無論、マッカーサーにしてみれば、自分に屈辱を与えたルーズベルトに対してこれ以上ない程しっぺ返しを与える機会を逃すはずはなく、最終的にはありとあらゆる権限を獲得した後、ヨーロッパへと向かったのである。

870 :yukikaze:2014/05/12(月) 01:13:16
ヨーロッパに向かったマッカーサーは精力的に働いた。
彼は、フランスで見事な戦術機動戦を行ったものの、兵士を殴打したことで本国に左遷させられていたパットン中将をあっさり引き抜くと、彼を部隊再編の中核に据え、更に陸空において最新鋭兵器を次から次へとぶんどっては部隊に気前よく配備してのけた。
こうした目に見える改善と、闘志という点では絶対に不足のないパットンの荒療治により、打ちひしがれていたアメリカ陸軍の自信は見る間に回復してのけたのだが、マッカーサーは更にダメ押しを図った。

それこそ、完成したばかりの原爆の実戦使用であった。
彼はロスアラモスで新型爆弾が完成したことをかつての部下から仕入れると、ルーズベルトに代って大統領となったトルーマンに「要請」という名の強要を行っている。
この態度にトルーマンは激怒したのだが、空軍設立に野望を燃やすアーノルド大将や、戦略爆撃で戦争を終わらせることで自らの地位確立を狙うルメイ少将の後押しも得て、1945年8月にミュンヘンとニュルンベルクに原爆を投下。
両都市を完膚なきまでに壊滅させると、大混乱したドイツ軍相手に、再編なったアメリカ陸軍の猛攻をかけて、ドイツ南部をアメリカ軍の手で占領することに成功する。
アメリカ軍史上においても比類のない戦功であり、当時のアメリカメディアはマッカーサーに惜しみない賛辞を与えている。しかも原爆利用によりドイツの継戦意欲が完全に崩壊し、ドイツ軍が次々に降伏していく様を見せられれば、マッカーサーの決断力や先見の明が褒め称えられるのも無理はない事であった。
まさしくマッカーサーにとって得意の絶頂であったといえる。

871 :yukikaze:2014/05/12(月) 01:16:09
だが、マッカーサーの絶頂はそう長くは続かなかった。
事の発端は、前線部隊の指揮を任せたパットンの暴走にあった。
パットンは、いつものごとく前線部隊に快進撃を続けさせたのだが、この時東方から進撃してきたソ連軍に遭遇。
連絡の不備から双方ともにドイツ軍と勘違いして偶発的な戦闘に及んでしまう。
まあ同士討ちに関して言えば比較的あり得る事であり、本来ならばそれほど問題視されないのだが、事態を聞いたパットンが半ば確信的に前線部隊を動かして、ソ連軍を包囲殲滅したとなると話は違ってくる。
当然のことながらソ連は激怒し、連合国司令部に対して抗議と釈明を求めるのだが、パットンはのらりくらりと言い訳をし、最後には「コミーをぶちのめすのに何か問題はあるのか?」という発言まで飛び出してしまう。
この発言にソ連は怒り狂い、英日も呆れ果てるのだが、このパットンの行動をマッカーサーが擁護したことで、事態は1野戦軍司令官の進退問題ではすまない事態にまで発展することになる。
連合国側の不誠実な対応に、スターリンは直ちに前線部隊の警戒レベルを最大にまで上げることを命令。
第二次大戦終結と同時に、第三次世界大戦が勃発しかねない状況へと展開する。
この状況にマッカーサーは、ソ連軍に原爆を投下することで事態は簡単に打開できると考え、アメリカ政府に原爆輸送を要請したのだが、この現地軍の暴走にトルーマンは完全に激怒し、マッカーサーの更迭を命ずると共にアイゼンハワーを後任として事態の収拾をするよう硬く厳命したのである。
世論も「第二次大戦を終わらせた」ことに熱狂したのであって「第三次大戦を引き起こす」ことなぞ望んでもおらずマッカーサーの予想とは裏腹に解任を支持し、結局、大統領選挙どころか、アメリカ陸軍でも閑職以外与えられないという仕打ちを突きつけられるだけであった。
当然、誇り高いマッカーサーがそれを受け入れるはずはなく「老兵は死なずただ消え去るのみ」と言うと、再びフィリピンの地へと戻っていったのであった。

余談ではあるが、もはや完全に日ソ同盟に劣勢になっている時代、時のアメリカ大統領が「マックの言う事を聞いていればこんなことにはならなかった」と発言し、アメリカ国内でマッカーサーが神格化されることへと繋がっていくのだが、裏を返せば、アメリカの凋落がどうにもならなかった現れであると言える。

ここまでが停戦監視団総司令官に就任されるまでのマッカーサーの略歴だが、これを読むと、彼が優秀な軍人であることは間違いないのだが、アメリカ政府上層部との折り合いが悪かった事も見えてくる。
そう考えると、彼を就任させたのは、中華民国の立て直しについてその手腕に期待する面と、仮に彼が中華民国軍を指揮して日ソと争っても、肩書が「フィリピン軍元帥」である以上、
トカゲのしっぽとして切ることが出来るし、彼の能力をもってすれば、最終的に負けるにしても日ソに相応のダメージを与えることが出来ると判断したからに他ならなかった。
アメリカ政府にとってマッカーサーは「失ってもいい駒」でしかなかったのだ。

彼らは見謝っていた。
確かにマッカーサーは「アメリカ政府」にとっては過去の人であった。
だが、ヨーロッパ戦線で戦った将兵にとっては「偉大なるマック」であり続けていたのだ。
彼らは、マッカーサーの政治的影響力をあまりに過小に評価したことに後悔することになる。

872 :yukikaze:2014/05/12(月) 01:26:40
今回はこれで投下終了。
これ以降は6月初めまでリアルが忙しいので投下は難しいかと。
マック登場は予想できた方多数だと思いますが、何故彼が受け入れたかをメインに書いてみました。

ちなみにトルーマンが日本を結果的にソ連側に追いやった原因が、「アメリカ国内における第一次大戦の成功への回帰」にあります。
第二次大戦で大敗北しまくったお蔭で、アメリカ国内では「義勇軍参戦だけで結果的に巨利を得た第一次大戦型の参戦が正しい」という風潮が強くなり、トルーマンもそれに乗って「日ソ対立による漁夫の利作戦」を国家戦略にします。
その為に、日本に亡命していたロマロフ王家や旧貴族に対するアプローチ強めたり、世論工作を積極的に推し進めた結果、夢幻会を本気でキレさせてしまったと。

まあ夢幻会側も「日ソ融和によってアメリカの目論見を外す」程度の認識だったのですがリアリストのスターリンが「アメリカは信用できん。まだ日本がマシだ」と、積極的に日本との関係改善を指示し、日本財界もロシア並びに東欧の復興事業の利益に目がくらんで(西欧復興はアメリカの邪魔によって限定的)、気づいた時には強固な同盟関係結ぶことになりました。

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最終更新:2021年04月15日 11:52