548 :yukikaze:2013/12/29(日) 01:42:49

錦州攻防戦
三月にわたり繰り広げられたこの激闘は、しかしながら欧州においてはあまり見向きもされなかった。
その理由としては、この戦争が極東での争いであり欧州諸国が関与していなかったからに他ならない。
その為、観戦武官も碌におらず、いたとしても彼らは北京か奉天、あるいは広島か博多の軍司令部に詰めているだけであった。

彼らは知らない。
ここで行われた戦闘が、後に日露戦争で再現されそして第一次大戦で日常の風景へとなることを。
そして彼らは後悔する。
もっとまじめに戦訓を学ぶべきであったことを。
後の歴史学者は言う。

『戦場は無機質な機械によって支配をされた。そしてそれはまさにこの錦州が出発地であった』

日清戦争史 第六章 錦州攻防戦

日本陸軍が錦州に上陸したという一報が知らされた時、
満州の軍勢を統括している宋慶は、ジレンマに捉われることになる。
後に戦史において「この時の清軍は徹底的に運に見放された」と記されているのだが、そう書かれても仕方がない程、宋慶の前に突き付けられた状況は悲惨であった。

まず第一の不運は、錦州に上陸した部隊の総数がまるで分らないという点であった。
日本側は誠に彼ららしく、敵に情報を与えないために、わざわざ払暁に上陸作戦を開始し、敵部隊の殲滅並びに街道封鎖を手際よく行う事に成功する。
結果として脱出に成功したものは少数で、しかも無我夢中で脱出したために、正確な兵力数がまるで分らない状態であった。
何しろ少ないので3,000人。多いものでは6万人という数字が出たのだから宋慶が混乱したのも無理はないだろう。(実数は約2万4千人)

第二の不運は、上陸した部隊の目的であった。
仮にこれが主戦力であった場合、彼らはためらうことなく北京に向かうであろう。
しかしながら、彼らが陽動部隊であり、真の目的が満州軍の足止めであった場合防衛戦略が完全に瓦解するのである。
そしてどちらも十分にあり得る事が、宋慶の判断を難しくさせることになる。

そして第三の不運が、北京との連絡不通により、全ての判断を彼がしなければならないという事であった。
全く何もわからない状況で、判断を行わないといけない。
しかもその判断は、北京の宮廷を満足させなければいけないという付帯条件付き。
そのことは知らず知らずのうちに宋慶への重圧へと転換していった。

かくして宋慶は、突きつけられた難問に嘆息しながら決断を下したのだが、これが極めつけの不運となった。
そう。彼は軍において決してやってはいけないことを無意識のうちに行ってしまった。
彼は総兵力5万の内、勇将として名高い左宝貴将軍に、1万5千の兵力を与えて出撃させたのだが、彼に対しての命令の中身は、敵の撃滅なのか、あるいは敵の足止めなのかどうとでも取れるものであった。
つまり、彼は明確な目標を左宝貴に与えず、また左宝貴も、それが自分への白紙委任であると判断してしまったのである。
錦州攻防戦において、左将軍の指揮が、時間が経つにつれて硬直的になっていったのは偏にこの命令のあいまいさに要因があった。

549 :yukikaze:2013/12/29(日) 01:44:09
さて、1万5千人の大軍を率いて奉天を出撃した左将軍であったが、その軍勢の大半は日清戦争勃発前後に無理やり集めた一般人であり、はっきりいってその錬度も装備もお寒い限りであった。
流石に左直属の部隊である2千名はそれなりの錬度と装備を備えていたが、その装備は統一されておらず、彼らの予想よりも実戦力は低いものであった。
実際、錦州に到着するのも、予定では20日程と考えられていたが、大多数の兵の規律の悪さと、隙あらば脱走しようとすることに悩まされ、彼らが到着したのは、予定よりも20日も遅れるという体たらくであった。
実際、宋慶はこの遅れに不快感を示し、叱責の早馬を送っているのだが、このことが左の憤激を買うことになり、両者の不和へとつながっている。

こうした状況の中、10月も終わろうとする中、左率いる清国軍は、ようやく錦州に到着するのだが、彼らが目にしたのは奇妙な光景であった。
彼らの予想では、数の少ない日本兵は(左は、日本軍の総数を、最大でも5千人と見積もっていた)、錦州の城壁によって防御陣地を作成していると考えていたのだが、日本軍は城外に布陣し、しかも入りくねった溝のようなものと、その前方に無数の木の棒とその間に何かを巻いたようなものが備え付けてあった。
はっきり言って清国軍にとっては理解不能な代物であり、左は「蛮族の考えることはわけがわからん」と馬鹿にしきった発言をしている。
主将のこうした態度は、兵達にもすぐに伝染し、溝の中で活動している日本兵を「土竜兵」と嘲笑し、「戦争ではなくて土竜狩りだ」と言う声すら上がっている。

もっとも、彼らのこうした楽観論は、翌日の戦闘で見事に吹き飛ぶことになる。
日本軍を完全に侮っていた左は、1万5千の兵に鬨の声を上げさせ、十分威嚇させると共に山川に対して降伏を促す使者を送ったのだが、山川からの返答は「皇帝も皇帝なら臣下も臣下だ。礼をまるで理解していない」と、完璧に馬鹿にしきった代物であった。
元より、本気で降伏を求めていなかった左は、これ幸いと3千の兵を第一陣として出撃させたのだが、これが地獄の始まりであった。
その主武装が刀や弓で、鉄砲を持っている者も火縄銃という彼らは、喚声を上げて攻め込んだと同時に、日本軍砲兵部隊からの熱い歓迎を受けて、文字通り四散した。
この時期日本陸軍砲兵部隊が導入していたのは、最新兵器と言っていい21年式山砲であったが、この史実41年式山砲と同等の能力を持っているこの砲は、最大20発/分の性能を誇っており、31年式野砲(史実95式野砲相当。ただし重量はそれよりも重くなったが)が配備されて以降は、連隊砲として重用されることになるのだが、初陣となったこの会戦においてその性能を存分に発揮し、21年式機関銃(史実92式相当)と並んで、清国軍の恐怖の的になる。

さて、数分間の猛烈な砲撃により、清国軍の第一陣は全面的に崩壊した。
もともとまともな訓練がされていない一般人が、砲撃の洗礼を受ければ、パニックに陥るのは当然の事なのではあるが、序盤でのこの醜態は左を怒らせるのに十分であった。
彼は、直属部隊に命じて、四散した兵隊たちを連れ戻させると共に、部隊を指揮していた責任者の首を全員が見ている前で刎ね、見せしめとしたのだが、その程度で一度しみついた恐怖感を拭い去ることは不可能であり、結果的に彼らは懲罰部隊として、全軍の弾除けに使われる悲劇に塗れることになる。

そして2日後、左は夜明け直後に全面攻勢をかけることになる。
左は、第一戦で不甲斐なさを示した部隊に、酒とアヘンを与えて突撃させると共に、左の直属部隊を含む7千の兵力を以て、一気に防衛戦を突破しようと目論んだのである。
幕僚の中には、砲撃を防ぐために夜襲を献策したものもいたのだが、清国陸軍の錬度の低さから机上の空論でしかなく、また2日前の猛烈な砲撃によって、敵軍の砲弾備蓄はそう多くないという予想から(これは清国陸軍の定数から判断されたものであり、全く意味がなかった)、部隊運用が可能で、且つ奇襲効果が見込める夜明け直後の攻勢を決定したのである。

550 :yukikaze:2013/12/29(日) 01:44:41

だが、清国側の意図とは裏腹に、日本軍は万全の態勢で待ち構えていた。
奇襲攻撃を行うならば、部隊行動の秘匿は何よりも重視しないといけないのだが、日本軍を除いてこの時代の軍隊は行動の秘匿には無頓着であり、さらに錬度の低さから、清側が戦闘行動に移るのに時間がかかったことから、山川曰く「阿呆でも相手が何をしたいのかわかる」という有様であった。
そしてこの日起こったことは、2日前以上の地獄であった。
清国陸軍が突貫する中、恐れられていた砲撃の嵐は起きなかった。
清国側はこれを「弾薬が枯渇した」あるいは「奇襲が成功した」と判断したのだが、酒とアヘンにより判断状態がマヒしていた部隊がある区域に到達した途端、キツツキが木を突くような独特の音と共にバタバタとなぎ倒されていくのを見て、行き足を止めることになる。
この光景に左はいら立ち、全軍に更なる突貫を命じ、命令に背く部隊は後ろから撃つという命令まで発したのだが、兵達にしてみれば、下手に突撃をすると、先ほどの部隊と同じになるのは自明の利であり、どうしても動こうとはしなかった。
業を煮やした左は、遂に直属部隊に対して、発砲命令を伝達。
後ろから撃たれた前衛部隊は泣き叫びながら突撃を再開するのだが、彼らの前には鉄条網と地雷原の二段構えの防衛網が敷かれており、塹壕の第一線に近づくことなく壊滅。
しかも、左の直属部隊が、突撃を開始するその瞬間に、日本軍砲兵の猛射を受けて混乱したことで、前方から逃げてきた部隊と、直属部隊との間で同士討ちが勃発し、もはや攻勢どころの騒ぎではなかった。

かくして、清国側は2度の攻勢に失敗すると共に、左の権威はこれ以上ない程落ちることになる。
わずか3日で戦力の過半数を失った左は、攻勢を諦め、持久戦に切り替えることに余儀なくされるのだがこの大敗の報に激怒した宋は、左を面罵すると共に、彼の指揮権を剥奪並びに他の将軍を派遣するということを決定し、左に通告。左は先の命令における自分への白紙委任を盾に取り命令を拒否。
使者を拘禁するという暴挙に躍り出る。
流石にこれには左の幕僚からも異論が出るのだが、左は完全にそれを無視し、自らを孤立に追い込むことになる。
そして錦州攻防戦が開始されて1月後。
左の行動に激怒した宋慶は自ら軍を率いて錦州へと進軍を開始。その報を聞いた左の部隊からは左を拘束し宋に突き出すことで処罰を免れようとする声が公然と聞かれるようになる。
万策尽きた左は、官服に身を包んで、自らの子飼いの部下達とともに日本軍陣地へ突撃。
半ば自殺ともいえる最期を遂げることになる。

この左の死を以て、錦州攻防戦第一幕は終わることになる。
なお、清国側は左の死を「犬死」と口汚く罵り、日本側も「近代軍の指揮官として不適当」と彼に対して全く容赦はない。
ただ、山川だけは何か思う所があったらしく、左の死骸に対し「生きる時代を間違えましたな」と声をかけ、錦州城外に懇ろに弔っている。

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最終更新:2021年04月15日 11:43