75 :yukikaze:2013/12/21(土) 00:53:59

日清戦争史 第五章 北の斗星

黄海海戦での完全敗北は、紫禁城に激震をもたらした。
大敗の第一報を聞いた皇帝は、一瞬顔を青ざめるも、次の瞬間、戦死した丁司令官の一族を直ちに族滅するよう金切声をあげたとされる。
さすがにこれは、李や西太后が止めたものの、皇帝の丁に対する怒りは凄まじく、財産没収と官職剥奪、更には葬儀すら許さぬという苛烈ぶりであった。
また、大敗に対する怒りからか、海軍残存部隊への扱いは冷たく、海軍基地に残留していた兵は、悉く陸戦隊として最前線に配属されることになる。
当然のことながら、彼らの士気や規律は最悪レベルであり、陸軍からは「弾除けにもならない」と罵倒され、それが更に規律の悪化につながるという悪循環振りであった。
こうした実績からか、これ以降の大陸の政府は基本的に海軍を信用することはなく、唯一、日本の影響が大きい福建共和国を除けば、今なお海軍は河川艦隊レベルしかない。

閑話休題。

海軍の大敗と皇帝の海軍への侮蔑感は、同時に海軍推進派であった李の政治基盤を揺るがせるのに十分であった。
無論、清国内において精鋭の陸軍を有していたことから、海軍壊滅即失脚にはならなかったが、それでも彼に対する風当たりは強くなり、反対に皇帝の側近や塞防派の勢いが増すことになる。
そしてそれは、老練な政治家である李に代り、感情的な思考しかない側近と、功名心に逸る塞防派が戦略を練るということであり、このことは清国の戦争指導が、極めて近視眼的なものへと陥らせることになる。

さて、北洋水師大敗によって制海権を完全に牛耳られた清国であったが、彼らは(しぶしぶながら)日本侵攻の戦略を諦め、代わりに朝鮮半島で遅滞防御戦を行いつつ疲労の極にある日本陸軍を、塞防派の精鋭部隊によって完膚なきまでに叩き潰すという戦略を策定する。
彼らにしてみれば、海でついたケチは、陸での大勝利によって取り戻せることができ、そして自分達にはそれだけの実力があると確信をしていたからであったが、問題は、朝鮮半島での遅滞防御は李の部隊に任せるとして、主力部隊をどこに置くかであった。

76 :yukikaze:2013/12/21(土) 00:55:06
塞防派が主張したのは奉天であった。
東北部有数の要衝であるこの地は、大軍を養う事も可能であり、且つ半島にも近かった。
故に迅速に行動に移すのであれば奉天に陣取るのが一番良いのだが、皇帝側近から「蛮夷どもが天津に上陸した場合どうするのだ」という意見が出るに及んで、事はそう簡単にはいかなくなる。
皇帝側近にしてみれば、まず重要なのは自分の生命財産でありそれ以外の事象は全くの無価値であった。
そして彼らは、蛮夷の総大将ともいうべき人間が、天津から一気に北京を突く策に賛同しているという事を漏れ聞いて、自らの権益を守るために、北京防衛を主張したのである。
勿論、名目上は「蛮夷どもに帝都を犯させるなどあってはならない」という、誰もが表立っては反論できない理由を押し立てていたが。
塞防派は、側近たちの真意を理解し、苦々しい気分でいたが、皇帝側近の「蛮夷の兵など楽に叩き潰せるといったではないか」という発言の前に、当初奉天に集中するはずだった兵力を2分せざるを得なくなる。
結果、後世の目から見れば、当初案ですら日本陸軍に劣勢だった清国満州方面部隊は、この決定によって勝利は絶望的なものになっていく。

このように清国軍は、主だった軍勢を3分割するという決定を行ったのだが、これは日本にとっては好機以外の何物でもなかった。
日本にとって最も嫌だったのが、北京に全軍を集結させての持久戦であった。
補給の問題もさることながら、直隷決戦で負けるとは言わないが、仮に皇帝が西安かどこかに落ち延びてしまった場合、泥沼の長期戦という悪夢が待っているのである。
朝鮮侵攻派にとっても、天津侵攻派にとっても、そのシナリオだけは避けたいというのは一致しており、清国側がわざわざ自らの防備を捨て去ってくれたことは天佑と言っても良かった。
陸軍元帥である西郷は「これこそ天の与えた好機である」として、なお一層天津攻略からの北京制圧案を主張し、清国政府の崩壊による列強の干渉の危険性を訴える大久保や伊藤と激論を交わすことになる。
結局この議論は、明治天皇の「武器を持たぬ一般の民への被害をなくすように」という言葉により、今後の戦略は、敵野戦軍の完全な撃滅によって、清国宮廷の戦意を喪失させるという目標が決定され、一般市民の犠牲が膨大になりかねない北京侵攻は立ち消えになる。

もっとも、西郷は、北京への一気呵成の侵攻は諦めたものの、清国陸軍の分断を固定化しその上での各個撃破を行うための方策として、一つの作戦案を提示することになる。
それは制海権を握っているからこそ可能な戦略であり、同時に決まれば確実に清国陸軍を分断させることに成功するのだが、反面、輸送面の問題から、安定した補給を行うには動員兵力は2個師団が限界であった。
もっとも、西郷はこの男が総大将ならば10倍の兵力が相手であっても十分にしのげると主張し、大多数の将官もそれに何の異論もなく賛同をしている。

かくして黄海海戦の傷も癒えた日本海軍の護衛の元、9月初旬に、日本陸軍の第二師団(仙台)と第13師団(会津若松。史実では高田)の二個師団が錦州に上陸。
清国駐留兵を鎧袖一触で蹴散らすと、堅固な防衛陣地を建設し、北京~満州・朝鮮方面部隊の連絡を遮断することに成功する。
清国側にとってはまさかの一撃であったが、それ以上に彼らにとって不幸だったのは、この2個師団を率いる男が、戊辰戦争において幕府軍で気を吐いた闘将であったという事だった。

山川浩陸軍中将

戊辰戦争で甲府城に籠城し、新政府軍の攻勢を最後まで耐え続け、その武勇と知略から故郷の人から「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と絶賛されることになるこの男は、日清戦争において戊辰戦争と同様、縦横無尽に活躍することになる。

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最終更新:2021年04月15日 11:40