247 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:25:27


大陸日本ネタSS――大陸日本の戦間期 「ヴェルサイユ体制成立」



――ヴェルサイユ体制成立


【猖獗の中の悔悛】

西暦1918年7月7日、フランスはパリ近郊のヴェルサイユにおいてドイツ帝国軍と日英軍(仏軍はパリ陥落により単独で休戦協定に調印していた)の間で停戦協定に署名が行われた。
とはいっても独仏休戦成立に伴いすでに前線では自然休戦状態となっており、「あくまでも人道と万国公法の精神に則り」救護活動が開始されているため、その確認の意味が強かった。
調印場所がヴェルサイユとなったのも、ドイツ軍が疫病で苦しむパリ前面の救護指揮所として接収していたこの宮殿を活用しようと言い出し、なし崩し的に連絡会合場所となっていたために過ぎない。
この休戦協定調印には大きなサプライズがあった。
それまでベルリンを動かなかった皇帝ウィルヘルム2世がこの地を訪れたのだ。
それまでパリを訪れたことがなかったウィルヘルム2世にとり、皇帝権限をたてに(危険であるとの側近の意見を無視して飛び出した)この旅は当初は自己の威厳確保のための手段でしかなかったようだったがこの地に到着したとき彼は大きく変わっていた。
パリで救護活動に参加していた三国の軍を見たからとも、あるいは自分もインフルエンザにかかり生死の境をさまよったからであるともいわれているが、この旅において彼は大きな決心をしたのだという。

「常設された国際紛争仲裁・調停組織の建設」

それが彼の構想だった。
欧州派遣軍のもたらしてしまった惨禍の衝撃から執務不能状態になってしまっていた米国のウィルソン大統領が密書に認めていたアイデアであるとも、あるいは国際赤十字社にヒントを得たともいわれるこの構想は、現地で活動していた連合軍臨時総司令官乃木希典元帥の賛意もあって各国の本国に提唱が行われた。
時のロイド・ジョージ内閣と山本権兵衛内閣は一拍を置いて賛意を表明。
実質的に政府が崩壊していたフランスも、第四共和政最初の大統領といわれることになるクレマンソー臨時大統領がいみじくも語ったように

「フランスはもはや戦い疲れた。今は平和が必要だ。」

としてこれに賛同。
イタリアとの休戦と同時に再編への議論が沸騰しつつあったオーストリア帝国(ハンガリーは革命政権が成立しており帝国から離脱するか否かで大混乱となっていた)もこれに続き、疫病禍の終息を待って講和の方針が確認されることになった。
歴史はこれを「やや遅きに失したながら価値ある決断」として評価している。
なぜなら、戦い疲れた列強諸国に加え体制再編の必要を認めた大英帝国と日本帝国ほどこうした機関の存在を希望していた人々はいなかったためである。


【講和の概略】

1919年7月、アメリカかぜの第3次大流行が終息してから4か月後、再びヴェルサイユ宮殿に連合国と同盟国、およびその他の列強各国の全権団が参集した。
この会議に日本帝国は首相山本権兵衛をはじめ元老伊藤博文や西園寺公望までもが参加するという異例の態勢で臨み、休戦期間中につながりをもったヴィルヘルム2世やドイツ軍首脳、そして名実ともに「戦友」となった大英帝国とともにその主導権を発揮することになる。

冒頭において会議の基本は、「国家間は基本的に無賠償無割譲による『平和の再構築』」と定められた。
実質的に敗れ去ったフランスはアルザス・ロレーヌの帰属を問う住民投票をねじこむのがやっとであり、実質的にこの一事をもって「戦勝」を強弁することとなる。
しかし条約において「戦勝国なき平和」がうたわれているあたりそれは強弁以上のものでもないといえるだろう。
(ただしいわゆる「背後からの一撃論」においてこれは大きな意味を持った)
ただし例外ともいえる人々もいる。
戦争の発端となったセルビア王国の人々がそれだ。

248 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:26:32
最後の最後で敗れ去ったフランスとは違い、1916年中に全土を制圧状態におかれていたこの国は「このままいけば戦争となることを知りつつも連合軍側の助力を念頭に司法判断を捻じ曲げた」と激しく糾弾され「バルカン問題の解決」の美名のもとでその処理が断行される。
結果、

  • 首都ベオグラードをはじめとする北部を新設される列強諸国間の常設会議(国際連盟安全保障関係国会議 通称サミット)が独立を保証する仮称「ベオグラード自由領」に割譲し、係争地であったボスニア=ヘルツェゴビナおよびコソヴォの領有権を放棄。
  • マケドニア地方をギリシアに割譲。
  • 軍備は25年間合計10万人以下に制限。連盟諸国による監視部隊が駐留する。
  • この代償として係争地におけるセルビア系住民の自由を連盟諸国は保障する。

という苛烈な戦後処理が施されることとなった。
これらの処置の結果、300万とも500万ともいわれる同国系住民はギリシアおよびイタリア軍(当事国ではなかったために選ばれた)によって7分の2に縮小した国土へと移送され、その過程において多くの犠牲者を出すことになった。
男子人口の6割近くにあたる127万名を失っていた同国に抵抗のすべはなく、また移送を担当したイタリア軍はイストリアを獲得できなかった戦争の恨みを持っていたためにその扱いは多くの場合で適当とは言い難かったという。
同国がマケドニアを奪い長期にわたりコソヴォを占領したギリシア、そしてフランスとならんでイタリアに怨念を向けるのはそのためである。

一方、イタリアに対する処理もまた彼らにとっては満足とは言い難かった。
オーストリア帝国領であったヴェネツィアなどのイタリア半島内の領土を「返還」されたものの、ドイツ軍が最後のあがきとばかりに行ったオーストリア援兵によってアルプスを越えることは叶わず、イストリアやダルマチアはおろかトリエステ全土の奪還すらならなかったのだ。

  • オーストリア領ロンバルディアのイタリアへの返還。
  • イリリア地方の分割と緩衝地帯としての「トリエステ自由市」の設置。

これがすべてだった。
いわゆる「未回収のイタリア」問題はこの後「統領」ムッソリーニの登場までドナウ連邦諸国とイタリアの政治問題であり続けたのであった。

セルビアが敗者であるのなら、オーストリア=ハンガリー帝国は限りなく勝者に近い敗者であったといえよう。
なぜなら、講和成立時においてオーストリア=ハンガリー帝国は存在しておらず、独立した諸国が外交・国防・税制を共有する「ドナウ連邦」が成立していたためである。
とはいっても中核となったオーストリア帝国は健在であり、ハプスブルグ家も連邦統合の「象徴」として君臨を続けていた。
一時は共産主義政権が支配していたハンガリーも、シシィことエリーザベト皇太后が馬に乗ってハンガリー議会に乗り込むというマリア・テレジアもかくやというやり方で説得を行ったこともあり連邦内の有力国として残ることとなり、イタリアやポーランドで失った分だけバルカン半島では若干ではあるが領土も増えている。
だがその代償はドイツ人にとっては大きい。ドイツ帝国との合邦禁止という条件がつけられたのである。
ただしドナウ連邦を構成することになった諸国にとってはそれはあまり問題にならなかった。
ハプスブルグ家は皇帝による専制を行うことができなくなったものの、それでも諸民族統合の象徴であり続けることになったのだ。

  • オーストリア=ハンガリー帝国の解体とドナウ連邦の設置。
  • ドイツとの合邦禁止。

これが停滞していたオーストリア周辺を再度活性化させる結果となるとはだれも予想はしていなかったものの、それでもまず不満の方が少ない結果といったところだろう。


当事国たる独仏両国にとっては大きく不満の残る結末となった。
ドイツは「辛うじて勝利し」、フランスは「最後の最後で押し負けた」。
その大きな要因の一つとなったアメリカ合衆国に対する不満はさておき、彼らが得られたのは「勝者」と「敗者」の烙印のみ。
しかも、圧倒的に国力を残している日英という他の列強諸国による介入と再編は彼らから少なからぬものを奪っていた。

  • ドイツ租借地山東半島の仮称「満州自治領」への編入と駐兵権放棄。
  • ドイツ領ニューギニアおよび周辺諸島の日本帝国領南洋諸島(1901年スペインより買収)およびオーストラリア・アメリカ合衆国への売却。
  • 英独海軍協定への参加(英国海軍の30パーセント程度に艦隊戦力を限る)。
  • アルザス=ロレーヌ問題の解決のため現地住民による住民投票の実施。

249 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:27:20
必ずしも勝者につく条件とは言い難い。
しかし、すでにドイツ国内に休戦中とはいえ多くの日英軍が存在していることや赤い国家との国境線の不穏化が彼らの妥協を急いでいた。
しかし得られたものも大きかった。
山東半島を失ったかわりに、ドイツも満州自治領および北東アジア市場への参入がかなうことになったのだ。
このことは英国が西欧によるドイツの地域覇権をある程度容認したことを意味しており、ビスマルク以来の宿願がかなったことをも意味している。
さらにはこの後に勃発した第一次ソ連・ポーランド戦争による日英との劇的な和解もあり、ドイツは名実ともに「戦勝国」としての地位を確立していくことになるのである。
当初はフランスの猛抗議もあって大きくもめた会議であったものの、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「責任を全うすべく退位する」ことを表明したこともあり連合国側はこれで矛をおさめることになった。

一方のフランスは、大きく領土を失うことはなかった。
しか政治的混乱の中でし第3共和政が一度消滅したと自ら宣言したこと、そして大戦の引き金を実質的に引いたのがフランスとベルギーによる総動員令と中立侵犯であったことから賠償金をとるなどということは叶うはずもない。

  • 道義的なもの以外の賠償請求権の放棄。
  • アルザス=ロレーヌ問題の解決のための住民投票の実施。

これが彼らが得られたもののすべてだった。
抗議するフランス大統領クレマンソーに対し、「普仏戦争の復讐のために戦争をはじめられた貴国は『何も失っていない』のですよ?」としたり顔でロイド・ジョージは告げたという。
だが、彼らはあまりに大きなものを失っていた。

  • 聖地エルサレムにおけるキリスト教住民保護権の放棄。

第二帝政フランス以来のフランスの誇りは、アメリカ合衆国にくれてやる参戦への対価として新設される国際連盟へ移管されることになったのだ。
代償として債務棒引きがあったとはいえ、この後も債務と引き換えにスエズ運河会社への独占出資権をアメリカへ譲渡することになるなどフランスにとっての苦難は続くことになる。
なお、普仏戦争の復讐を叫んだ国民は、その鬱憤を晴らすかのように大戦勃発の原因であるサラエヴォ事件の責任追及に走り怨念を買うことになる。


――さて、ここまで語り続けて避けて通れないのは米国とその周辺たる日英およびロシアである。
ことに米国の処理は問題となっていた。
莫大な出資により連合軍が「負けない」ことに貢献したものの、そのかわりに列強諸国がいない間のアジアで日本帝国の制止を無視して軍事介入を繰り返していた彼らは、ロシア革命への干渉を理由としてシベリアにも20万あまりの大軍を派遣。
東シベリアからオホーツク海一帯にかけて「極東共和国」という傀儡国家を建国するに及んでいたのだ。
付き合う羽目になった日本軍によりロマノフ朝のニコライ2世一家が救出されていなければ、中華民国臨時政府と極東共和国という二大傀儡国家を成立させてこれを既成事実化する動きすらあったのだ。
これは、当時のウィルソン大統領が職務不能状態にあったにも関わらず大統領職務継承順位に関する法整備が行われていなかったために現地軍の統制が大きく緩んでおり、欧州派遣軍に比べて多分に義勇軍的な風潮の強かった「民主義勇軍(当初の派遣米軍の名前)」とその後押しをする諸資本家たちの独走を許してしまっていたことが理由である。
もちろん、経済活動を事実上放任状態においていた当時の自由主義的な風潮も理由であるがこれがいきすぎであることは誰の目にも明らかだった。
さらには、欧州派遣の際の不手際から近代史上初の「全地球的感染爆発(パンデミック)」を引き起こしてしまっていたことは、欧州におけるアメリカの名誉を致命的なまでにおとしめていた。
悪い意味で鈍感であったアメリカ国民は、講和会議に同行した記者たちの手によって欧州や中国大陸、そしてシベリアからの毒のたっぷり入った怨念を叩きつけられ茫然自失することになるのである。

250 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:28:16

  • 中国大陸およびシベリア地域からの可及的速やかな撤兵。
  • 極東共和国におけるアメリカ軍政の廃止。
  • 英仏両国の債務の「99年間凍結」および「超長期債」への借り換え。
  • これらの代償としてアメリカ合衆国はエルサレム自由自治領運営理事会への理事派遣権およびスエズ運河会社株の10パーセントを得る。
  • 米中間で取り決められた諸協定および民間協定はこれを尊重する。

これが、大統領代行としてヴェルサイユへ派遣されたトーマス・マーシャル副大統領が突き付けられた条件だった。
これに感情的に反発したマーシャルおよびアメリカ国民は、全世界からの轟轟たる非難にさらされた。
助けに入ったはずの、当のフランス人および中国人からすら石を投げられ、彼らははじめて自分たちがどのような感情を向けられているかということに気が付いたのである。
史上初の弾劾を受けて大統領が失職しようとする混乱の中で、アメリカはこれらの条件を丸のみする羽目になる。
しかしながら、大戦の影響を受けていた欧州諸国にとってアメリカの資金は必要とされており、大戦中に結ばれた有利な協定はそのままとされた。
感情はともかくとして、権力基盤としての米国が必要となっていた孫文率いる中華民国臨時政府も同様で、結果的には大戦は米国の商業圏を全世界にまで拡大することとなった。
また「債務は棒引きされたものはわずかであり、残りは借り換えられただけだ」として金融業界がこれを担保としてさらに過剰投資を継続。

「米国は政治的には敗北したが経済的には勝利しつつある」

とのちにハーバード・フーヴァー大統領が述べるように米国の経済拡大は続いたのであった。
話を戻そう。
講和会議の結果、米軍により制圧されていた極東共和国および中華民国からは無条件の撤兵が確約された。
ただし満州地方やフランスと米国の共同租借地となった広州湾および天津・北京・南京租界には兵力駐留権が維持されておりのちにこれは大きな意味を持つことになる。
このかわりに、傀儡国家となるはずであった極東共和国へは喧々諤々の議論の末に、ハプスブルグ家からの提案で「ロマノフ家を統合の象徴とする」緩衝国家として極東合衆国が置かれることとなる。
非公式にではあったがロマノフ朝の復帰を阻止したことでソヴィエト政府は勝利宣言を行い、またアメリカ国民の溜飲を下げさせることにもなった。

「兵は引いたがアジアの門戸を開かせた。今こそ新たなるフロンティアへ!」

それが彼らの合言葉となった。
繰り返すが、悪い意味で鈍感であったアメリカ国民はこの「成果」が何を呼び起こしたのかを理解していなかった。


さて、最後に残った日英について語ることにしょう。
日英は、大戦で多くの人命を失ったものの、まず勝利といっていい成果を上げている。
「同盟国を救援し、あと一歩のところまで迫った」のであるから。
また、新世代の戦争ドクトリンを実践した結果として彼らの戦死者数は英国37万人および日本10万人。これはフランスの約200万人と比べると雲泥の差である。
だからこそ彼らは、経済破たん状態でインフレにあえぐフランスや痛手に苦しむドイツに比べてマシな状態で戦後の勢力圏再編を実施することができたのだ。
とはいえ、パンデミックの影響は甚大である。
全世界で7800万~8000万名が死亡した惨禍の多くは彼らの勢力圏となるアジアにもふりかかっていたのだから。

  • ドイツ領ニューギニアおよび周辺諸島の分割。
  • アメリカのユーラシア大陸からの撤兵。
  • 英独両陣営間での相互門戸開放。

これが日英が勝ち取った成果だった。
これにより全地球の7分の3の陸地と人口の6割を有する巨大な商業圏が誕生。
日英両国はこの後のさらなる接近を遂げていくことになるのである。

251 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:29:02


【国際連盟 あるいは列強連合の成立】

勢力圏の再編が済んだ後に議題となったのは、常設される列強諸国間の紛争を仲裁する機関の設置についてだった。
当初はアメリカの提案で全世界各国を平等に扱う理想主義的な組織として構想されたものの、現実的にそれは不可能である。
必然的に、この国際機関は列強諸国が「安全保障理事会 常任理事国」として組織運営に責任を持つとされ、紛争当事国間の調停機関としての役割が強くなることになる。
基本的には提訴権は加盟国すべてがもつものの会議は多数決により解決策が探られることとされ、さらには「常任理事国会合」はこれらの上位組織として議案差し戻し権を掌握していた。
また、常任理事国への新規昇格については3分の2以上の賛成が必要とされているなど、列強諸国は彼ら曰く「安全策」をとっていた。

全会一致の原則などを主張する米国はここでも孤立し、のちに多大な影響を歴史に与えることとなった。
彼らのいう「列強の世界分割構造を固定しようとするものだ」という批判はその通りであるものの、しかし下部機関として常設国際司法裁判所や難民機関、そして日英米独が出資した世界銀行や、平和執行機関としての国際連盟緊急軍の設立などこの国際連盟が備えた機能は画期的であった。
その構想が間違っていないことは、連盟が現在においても組織改革を経つつもその機能を果たし続けていることからも明らかであろう。

ヴェルサイユ講和会議における議論の半分は、この機関の設立のために費やされたといっても過言ではない。
そして、講和条約の締結国にして原加盟国となった列強諸国――日本・英国・ドイツ・フランス・ドナウ連邦・イタリア・トルコ、そして加盟国とはならなかったもののオブザーバーとして参加するアメリカの9か国のことを、はるかな高みにそびえる山にたとえて「サミット」と呼称するようになる。

実質的な列強連合の成立であり、国際連盟の設立とヴェルサイユ講和条約の締結をもって構築された第一次世界大戦後の世界体制は、軍縮条約や第二次世界大戦後のそれと区別する意味で「ヴェルサイユ体制」と呼ばれることになるのである。

設立から間もない1920年、この新体制は最初から大きな挑戦を受けることになる。
1920年、第一次ソ連・ポーランド戦争の勃発がそれである。
この戦争において実質的にジュネーヴ体制といわれる体制が構築される――すなわち、列強諸国によるアメリカ合衆国包囲網が構築され、日英独三国の接近が果たされることになるのであるが、その内容については別の機会にゆずり、今は筆をおくことにしたい。

252 :ひゅうが:2013/12/15(日) 00:31:50
【あとがき】――というわけで、ヴェルサイユ体制ネタでした。
この世界では国際連盟はヴィルヘルム2世陛下の発案にしてみました(爆)
しかし欧州的な安全策から史実の国連安保理と史実常任理事国の中間的な権限を持つ「列強連合」みたいなものになっています。
ですので「勝者の世界分割」であることに間違いはないのです。

しかし…あー長かった…真面目に想定するとかなり疲れます(汗

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最終更新:2014年05月21日 23:12