291 :ひゅうが:2013/12/15(日) 14:55:28


大陸日本世界ネタSS――戦間期の大陸日本 「日英独和解」


【赤軍征西】

第一次ソ連・ポーランド戦争の勃発理由は様々語られる。
極東の切り捨てという思い切った手段をとって西欧に集中できるようになった力をもって一気に東欧からできることなら中欧の赤化を図った。
また、ハンガリーやチェコなどの赤い革命政権が成立する可能性のあったあるいはすでに成立していた諸国のドナウ連邦領内への取り込みを阻止しようとした。
食糧供給事情の悪化を解消すべく、ブレストリトフスク条約で失ったウクライナからポーランドにかけての穀倉地帯を奪取しようとした。
そしてそれらの望みを持つ人々や、白軍を領内から駆逐した喜びに沸く赤軍の勢いを阻止し得なかった。

これらが理由である。
だが、もっとも大きかったのは、ソヴィエトの指導者ウラジーミル・レーニンの獅子吼であるといえよう。

「ドイツが疲弊した今こそ世界革命の好機!!」

これが彼らの見方だった。
アメリカは極東合衆国という形で白軍を取り込み無力化した。
日本はいやいやそれに付き合いつつ義理を果たした。
今も大兵力がドイツとにらみあっている中にあってドイツを救援することはないだろうと彼らは考えたのだ。
いや、むしろドイツを後方から襲うことすらあり得ると彼らは考えていたのである。


対する、ポーランド・リトアニア・ウクライナの三国はまだ独立から間もない。
200万の赤軍をもってすれば打ち破れるし、疲弊したドイツはこれを黙認するだろう。
うまくすれば、ドイツ国内の同志と協同して革命政権すら打ち立てられる。
現在からみれば曖昧な見通しであったのだが、それは決して非現実的なものではなかったのだ。
日英においてはドイツへの戦後処理が甘すぎるという声があったし、フランスなどはドイツの「消滅」と「懲罰」を望む声が主として戦禍を被っていない南部において沸き起こりつつあったのだ。
先に軍を引かされつつあったアメリカにおいても、暫定的に新大統領となったトーマス・マーシャルのもとにはドイツの帝政廃止要求などをするべきだという議会の意見が寄せられ彼を懊悩させていたという。

かくて、1920年3月8日、革命勃発3周年の記念日に労農赤軍はポーランド国境を突破。
弱体なポーランド軍を打ち破りつつ首都ワルシャワへと迫る。
一方、同月10日、皇帝退位に伴う新憲法審議が議会で行われ過激な革命派の伸長や反プロイセン派の怒号、郷土義勇軍と動員解除兵のレーテ(評議会、ソヴィエト=会議と同義)行動隊の街頭行動で不穏な情勢にあった首都ベルリンにおいてクーデターが発生する。
首謀者は、ドイツ人民党およびスパルタクス団。
赤軍の侵攻に呼応した「3月クーデター」の発生である。
瞬く間に制圧されたベルリンにおいて彼らは「ドイツ社会主義共和国」の成立を高らかに宣言する。

292 :ひゅうが:2013/12/15(日) 14:56:02

これらの動きにまず反応したのは、フランスであった。
クーデターを非難する声明を出しつつドイツ帝政が生んだ結末を非難するというあたりフランス的であるが、それでも赤い新政権を認めないことだけは明確にしたのである。
だが、そんな彼らの配慮を台無しにする事態が発生する。

「アメリカ欧州派遣軍の動きが不透明」

これは、当時まだ10万あまりがベルギー領内に残っていたアメリカ欧州軍が隣国の変事に介入すべきか否か迷いつつあったことを示している。
この時点で欧州軍には二つの相反する命令が届いていた。
ひとつは陸軍省からの「ドイツの変事に対応せよ。現地は国際法上無政府状態にあり。ただし軽挙妄動は慎むべし」という内容である。
もうひとつは大統領からの「ドイツにおける民主主義擁護のための軍事行動の準備を開始せよ。場合によっては越境も許可する」という内容の訓令であった。
パンデミックによって失われた合衆国の威信を革命から逃れてくる民間人保護や場合によってはドイツ領内の「解放」によって回復しようという勇み足である。

だが、大統領は失念していた。
とりあえず代役として据えられたマーシャル大統領は国際政治の経験がなく、そのために新たに構築された「国際連盟」という舞台の真の意義を理解しきれていなかったのだ。
そのために伝統的なモンロー主義の一環として連盟のオブザーバーとしての加盟で満足していたし、その派遣大使は駐スイス大使の兼務という形で半ば放置状態となっていたのだ。

【無関心の代償~ヴィスワ河の奇跡~】


ジュネーヴに設立されたばかりの国際連盟はその運営理事会においてアメリカ合衆国を詰問する場に変わった。
スイス大使の悲鳴にも似た電文は、国内政治の混乱にかまける大統領を混乱させた。
彼にとりこの新組織は事務方が協議をする場であるはずで、それ以外の諸問題は国家首脳同士の対話で解決されるだろうと考えていたのだ。
そのため、日英首脳への電文がいくつも放たれるものの、くいちがいは埋まることはなかった。
そんな中で、ひとつの奇跡が公表される。
日英情報部の協力をもってベルリンを離れた皇帝ウィルヘルム2世と帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデン、そして参謀総長ファルケンハイン元帥が連盟本部へとあらわれたのだ。
彼らは、ラインラントに展開するドイツ軍の指揮系統を掌握しており、それを核として首都陥落に狼狽する各地のドイツ軍駐屯地と連絡をつないでいたのだ。
この行動には英国のMI機関および第1次大戦中に大きく拡大していた日本の明石機関が大きく関与したという。
彼らは「ドイツとヨーロッパを赤い津波から守る」ことを連盟の議題として要請。
国際連盟緊急軍を中核とした「国際連盟合同軍」による「東欧安定のための軍事・警察行動」を日英独三国の合同提案として安全保障理事会にかけた。

もはや、アメリカの出る幕はなくなりつつあった。

1920年3月24日、ジュネーヴにおいて「国際連盟緊急軍」および「国際連盟合同軍」の派遣と「東欧軍事介入」を中核とした「1920年決議第32号および付帯決議集」が可決。
連盟メンバーであり、いまだにフランスおよびベルギー国内に合計40万あまりが残留する日英両軍およびオランダ軍とオーストリア軍が軍事行動の主力を担うべく選ばれる。
すでにポーランドの国土の半分は赤軍の占領下にあり事態は予断を許さない。
そのため連盟軍はドイツ南部からポーランド領内へ直行することになる。

かくて、世に云う「ヴィスワ河の奇跡」は演出された。

連盟軍の到着を待ってポーランド軍司令官ヨゼフ・ピウスツキ元帥は総反撃に転じ、騎兵将校らしい機動力を生かして労農赤軍を包囲殲滅してのけたのだ。
さらに返す刀で東プロイセンに「進駐」していた赤軍の退路を断ち、これも降伏させることに成功する。
4月中には領内の赤軍は駆逐され、ポーランドとウクライナは当初の国土を回復するに至ったのであった。
ここで、レーニンとポーランド政府との間で講和が成立。
そのままソ連領内へ侵攻するという案もあったものの、これにはまずフランスをはじめとする旧連合国側諸国が反対。
兵站上の問題もあり、ドイツを主力とする旧同盟国側諸国もこれを認め、トルコを仲介として停戦と講和が成立することとなった。

293 :ひゅうが:2013/12/15(日) 14:56:39


【合衆国への枷】


この戦争は、とくに日英と独墺、そしてポーランドやウクライナをはじめとする新独立国群との関係を大きく改善する結果となった。
ソヴィエトという危険な思想を持つ共通の敵と戦った経験、そして首都を一時でも失ったドイツをみて一般国民の復讐感情は満足を得たのだ。
かのフランスですらそうなのだから、庶民というのは熱しやすく冷めやすいというのは古今東西を問わないというべきだろうか。

――そして、ソ連と連盟諸国の連絡機関としてコンスタンティノープル=イスタンブル(1910年の青年トルコ革命とその後の「トルコ維新」に伴い改称。通常は前半のみをいう)に連絡会館が設けられたあたりで誰かが気付いた。

「今回は何とかなったが、『奴ら』をどうにかせねばならない。」と。

何しろ、「彼ら」はこの戦争前後からあまりに問題を起こしすぎていた。
清国での革命に干渉して暴利をむさぼろうとするわ、ロシア革命に干渉して傀儡国家を作ろうとするわ、とどめに欧州派兵でパンデミックを引き起こすわ。
そして今度は列強の新体制を無視しようとする。
列強諸国は「結果的にそうなってしまった」アメリカ合衆国の対外行動の裏に、ぬぐい難い傲慢さ、すなわち「モンロー主義をアジアにまで拡張しようとし、機会があればそれが欧州にも及ぶ」という思想上の「フロンティアの拡張」を敏感に感じ取っていたのだ。

「彼らが望むように、市場は開放しよう。だがそれは彼らの独占を意味しない。彼らは北米で満足すべきなのだ。」

日英首脳会談の席上での山本権兵衛首相のこの言葉にロイド・ジョージ首相は我が意を得たりと頷いたという。
かくて、列強諸国はのちに「ジュネーヴ体制」と呼ばれることになる対合衆国包囲体制の構築を開始する。
合衆国側も、とりわけ国務省はそれを感知しており、戦後の軍縮体制における主導権発揮を狙い「ワシントン海軍軍縮会議」の主催によってこれに対抗しようとする。
だが、それが当の合衆国側による機械的盗聴器設置の発覚により台無しに終わったことは周知の事実である。

こうして、1924年2月のジュネーヴ海軍軍縮条約締結と、中華民国の承認に伴う権益継承と列強諸国間の平等および軍事不干渉を決めた「五か国条約」の締結、さらには東欧諸国の防衛を目的とし、見返りに相互門戸開放を行った「英独相互安全保障条約(通称英独同盟)」「日独安全保障協約」の成立によって日英独の望んだ体制は成立した。
軍事的な意味でのソ連およびアメリカ包囲陣はここに完成を見たのである。

これらすべてがスイスのジュネーヴに設置された国際連盟本部において承認されたことからこの第一次大戦後の体制のことを「ジュネーヴ体制」あるいは「第一次ジュネーヴ体制」とも称することになる。
だが皮肉なことに、軍事的に大きな制限を課されたアメリカ合衆国は「経済戦争による勝利」をうたいつつも全世界へ進出。
ますますの景気の過熱を官民ともに進めていくことになるのである。
それは、まるで代償行為のようであった。

ともあれ世界はひと時の平和を得た。
軍縮条約の内容や新独立国の情勢、さらには混乱期に入りつつあった中華民国など語るべきことも多いが今回はこれをもって筆を置くことにする。

294 :ひゅうが:2013/12/15(日) 14:58:34
【あとがき】――というわけで合衆国&ソ連包囲網が完成しました。
ドイツにとっては「フランスの復讐」や「ソ連の再侵攻」に備えた体制であり、日英にとっては合衆国&フランス対策でもあります。
本当は今回のうちに軍縮条約にまで入ろうかと思ったのですが、長いのでこの辺で(汗

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最終更新:2014年05月21日 23:15