770 :yukikaze:2013/12/11(水) 23:13:09

日清戦争史 第三章 決戦前夜

驚くべきことではあるが、日清戦争が勃発した時、日清両国においては軍事戦略は固まってはいなかった。
と・・・言っても、その内実はだいぶ異なる。
まず清国側であるが、皇帝とその取り巻き達は、清国軍の精強さに幻想を抱いていたせいか、日本は無条件で自分達の条件を受け入れると、半ば本気で予想をしていた。
そうであるが故に、日本が戦端を開くというのは予想の範囲外であったし、仮に戦端を開いたとしても「鎧袖一触だろう」という根拠のない楽観論しか口からは出なかった。

その為、彼らからまともな戦略が出ることは戦争中一度もなかった。
彼らが口に出すのは「蛮夷の国を早く征伐しろ」の一点だけだった。
無知であるが故に彼らは好戦的であり、そしてその根拠のない自信が叩き潰されたことで極めて見苦しい態度を後に示すのであるが、少なくともこの時の彼らには、そういった未来は考慮の外であった。

勿論、皇帝やその取り巻きとは違い、李鴻章は現実的であった。
彼は、皇帝たちが安易に開戦を選んだことに内心罵倒をしていたが、彼がそう思うのも無理はなかった。
皇帝たちは日本を簡単に占領できると考えていたのだが、その兵士たちを運ぶ輸送船が絶対的に足りず、また遠征軍の重要な補給地である朝鮮半島は、李王朝の統治能力の低さから、大軍が駐屯するだけの余力などどこにもない事が、袁世凱の報告で明らかになると、ますます皇帝たちの楽観論に嫌気を覚えることになる。
結果、彼のとった戦略は、彼が切れる最良のカードである北洋水師によって、日本海軍を撃滅し制海権を確保することで、清側のとれる選択肢を増やそうというものであった。
この李の戦略は、自国の負担を減らすことを望んでいた朝鮮王室からも賛意を受け(もっとも、李はこの属国に軽蔑しか抱いていなかったが)皇帝も、当初は気乗り薄であったが、アジアでも最大の大鑑である定遠級の活躍をみたかったのも事実であったようで、かなり恩ぎせがましく、李の戦略に裁可を与えている。

771 :yukikaze:2013/12/11(水) 23:38:47
翻って日本側はどうであったか。
彼らは清国との戦争については、清国側と違い、常日頃から真面目に考察をしていたのだが、その戦略で対立が生じていた。

まず第1案としては、史実と同様、朝鮮半島に攻め込み、同地を制圧した後、遼東半島に上陸した別働隊と合流し、最終的には直隷決戦により清国を屈服させるというもので、これには陸軍主流派が賛同を示していた。
もう1案が、朝鮮半島を無視し、全軍を以て遼東半島と威海衛を落とした後、天津に上陸し、一気に北京を突くべきという野心的な案であった。
これには海軍や陸軍非主流派が賛同を示していたのだが、陸軍主流派にとって性質が悪かったのが、この案に帝国で唯一の元帥である西郷隆盛が「面白い」と興味を抱いたことであった。
明治天皇の信頼がことのほか厚く、戊辰の役で、実質的に新政府軍の総大将として、鳥羽伏見の決戦での勝利、江戸城の無血開城、東北地方を武力を用いずに収めるなど誰もが反対意見を述べることが出来ない生きる軍神に対しては、流石に山縣や種田などでどうこうせよというのは無理であった。

もっとも、西郷が第2案に興味を抱いたのにはわけがある。
彼は主君の島津斉彬の元、多くの事を学んでいたのだが、明治政府のトップとして斉彬が常に心を砕いていたのが、列強の介入であった。
そして西郷は、第1案でも勝てることは重々理解していたが、朝鮮半島の制圧戦で、参謀本部が考えるよりも長く時間がとられる可能性を指摘し、その間に列強の介入を招きかねない危険性を心配していた。
ならば制海権を牛耳ることで一気呵成に大軍を北京に攻め込ませた方が、短期的に終わらせるのではないかと意見を述べたのである。
大群の補給問題にさえめどが立てば十分傾聴する意見であるのは間違いなかった。

これにより日本の軍事戦略は、開戦しても尚、腰の定まらない状況が継続することになる。
唯一纏まったのが、連合艦隊による北洋水師の撃滅であり、これにより日本の選択肢を増やそうとしたのである。

かくして艦隊決戦の舞台は整った。決戦場は黄海。

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最終更新:2021年04月15日 11:35