310 :yukikaze:2013/12/08(日) 16:50:59
日本戦艦史を書こうと思ったけど、さらりとしか書かれていない日清戦争史でも書こうかと思い投下。
しかしこの時代の各国指導者層の動き見ると、悲劇の名君扱いされがちな光緒帝が、ヴィルヘルム2世並みに空気の読めない『無能な勤勉』としか・・・
そりゃ百日維新で、官吏たちが碌に従わなかった訳だわ。

1894年に行われた日清戦争は、清国の凋落を決定づけ、日本が華々しく近代世界史に躍り出た戦争であった。
これ以降、日本が坂の上の坂を上り続けるのに対し、中華大陸はどん底にまで没落していくことを見れば、まさに両大陸の命運を決した戦争であったとも言えた。
今回は、この戦争を俯瞰することにより、如何なる要因の元この戦争は生じ、そしてその影響がどう波及していったのか見ていきたいと思う。

日清戦争史 第一章 開戦前夜

日清戦争が起きた要因はいくつか考えられるが、その主因として挙げられるのは清国内部における権力闘争であった。
当時の清国で実権を握っていたのは、皇帝の光緒帝ではなく、伯母の西太后であり、彼女の寵臣であり、太平天国の乱で活躍した李鴻章であった。
実力や才能はともかくとして、責任感があったことだけは間違いのないこの皇帝にとって、現状はとても許せるものではなく、何とか実権を得ようと画策をしていた。
一方、西大后も李鴻章の北洋軍閥が必要以上に強大化している事実に対し、密かに危機感を抱いていた。
所謂同治の中興において、清国は表面上近代化を進めていたように見えたが、実際は清国ではなく北洋軍閥の近代化と言える代物であった。
この辺が日本の明治維新と違い、洋務運動への評価が著しく低くなることになるのだが、こうした北洋軍閥の強大化は、いかに寵臣の軍隊であったとはいえ、見過ごすわけにはいかなかった。

こうして、清国内において、北洋軍閥に対する風当たりは静かにしかし確実に強さを増そうとしていた。勿論、李鴻章もその流れをよくつかんでおり、清国の真の実力者である西太后の疑念を払拭するために努力をし、それは概ね成功するのだが、皇帝に対しての工作は捗々しくなく(李自身が西大后派なので当然なのだが)、不安定な立場へと置かれようとしていた。

そうした中、皇帝側近を中心にある一つの計画が持ちあがる。

『日本征討』

これまで歴代中華王朝が果たし得なかった壮挙を達成することで、国力増強と威信回復を果たすという計画である。

311 :yukikaze:2013/12/08(日) 16:51:36
後世の我々の目から見れば『血迷ったか』としか言えない代物であったが、宮廷内闘争はともかく、海外の事象に対して真剣に考察しない彼らにとって、日本は『東方の蛮族』程度の認識しかなかった。
同時期の日本において、明治天皇が、毎朝の習慣として、欧米列強の最新情報を必ず報告させるように(しかもクロスチェックをさせることを厳命していた)していたことと比べると、あまりもの落差に失笑すら浮かぶものであるが、問題はこの程度の認識しか持っていなかった者達が、皇帝の周囲を取り巻いていたという事である。
これでは皇帝が理性的な判断を下すことが出来なかったのも無理はないと言えるであろう。

そして皇帝やその取り巻き達の自信を補強する要因があったのも事態をややこしくさせることになった。
1つは日本の軍備改革が『名目的には』碌に進んでいないことであった。
これは日本が、明治維新以降『諸侯の軍隊から国家の軍隊』への脱皮を図ることを最優先課題とし、その整理再編に努力を傾注したことと、この時期の小火器や大砲などは技術革新度ですぐに陳腐化されるので、これ以降も長く使える三八式小銃(ただし口径は7.7mm)や41式山砲の開発に全力を費やし(日露戦争用には史実九五式野砲相当の砲を開発中)、海軍も富士級以前の戦艦なんて役に立たないとして、防護巡洋艦の取得並びに海軍工廠の近代化に全力を費やす(例外は松島型であり、この艦は史実松島型ではなく、史実デュピュイ・ド・ローム装甲巡洋艦をフランスに発注している。)など、現時点での正面戦力『だけ』を見る限り、清国が優勢であると見られていたのである。
そしてもう一つの要因が朝鮮王国であった。
これ以降も日本の疫病神として度々顔をだし、最終的には徹底的に潰される運命をたどるこの半島国家は、清国皇帝の周囲の空気を敏感に察知し、自らも日本征討に加わることによって、報酬のおこぼれを獲得することと、既に破綻と言ってもよい国家運営を清国に丸投げすることによって、自らの生き残りを図ろうとしたのである。
寄生虫根性もここまで来ると清々しいものがあるが、彼らは清国皇帝に対し、日本の無礼さと過去の侵略行為(秀吉の朝鮮出兵の事。この時、明・挑戦連合軍は日本軍によって壊滅し、3年間国土が制圧下にあった事を指している。なお、日本軍の撤退は秀吉が死去したことによるものであり、秀吉が後10年生きていれば、北京も落とせたのではないかというのが定説となっている)を書き連ね、『極東の安定の為には、清国皇帝の威徳を以て、東方の蛮族を説諭すべし』という上奏文を送っている。

これら2つの要因を受けて、光緒帝は日本征討に大きく関心を持つようになる。
そしてこの皇帝の意思を変えられないと判断した李鴻章は、日本征討で北洋軍閥の武威を見せつけることによって自身の立場強化に努めることを念頭に入れ始め、西大后は、皇帝と李鴻章のバランサーとなることで、政権における自分の存在理由を見せつけようとした。
本来挙国一致で執り行わなければならない戦争であるにもかかわらず、清国上層部の認識とはこの程度であった。

そして彼らの認識の甘さはもう一つあった。
彼らは清国軍が日本軍に完膚なきまでに叩き潰されるという可能性を全く考えていなかったのである。
彼らのこの見通しの甘さのツケは、莫大な負債となって降りかかることになる。

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最終更新:2021年04月15日 11:30