635 :yukikaze:2013/12/10(火) 22:33:25
では日清戦争史第二章。いよいよ開戦です。

日清戦争史 第二章 開戦

1894年5月。威儀を正した清国全権使節がもたらした書簡は、日本の朝野を憤激させた。
清国皇帝による説諭として出された文書では、まず日本がこれまで清国皇帝に挨拶をせず、さらに皇という文字を使い続ける非礼を責めると共に、慈悲深い清国皇帝は、愚かな日王が前非を悔いて以下の詫びをするならば、大いなる広い心で許してやろうとする
ものであった。

これだけでも「喧嘩を売っているのか?」という中身だったのだが、それ以上だったのが「詫び」の中身であった。
天皇の称号を使わないのは序の口で、各種鉱物資源等を年間決まった量だけ上納することや、沖縄や奄美大島などの割譲、更には有事の際には日本軍の提供まで義務付けるという、およそ外交的常識をどこかに置き忘れたような内容であった。
つまり、それだけ光緒帝とその取り巻き達の外交認識が低かったともいえる。
(流石に李鴻章は、この文書を読んで絶句し、取り巻き達の無能さを呪ったとされる)

この文書は、日頃温和な明治天皇も激怒したとされるが、悪いことにこの全権大使は皇帝に対する忠誠心は高いものの、外交的な素養は全くのゼロで、更に日頃高慢な態度でひんしゅくを買うことの多い男であった。
その為、研究家においては、清国は元々交渉するつもりはなく、相手を挑発させて戦争を吹っ掛ける気であったという意見が主流であるのだが、それを示すように、大使は、終始傲慢な態度を崩さず、事あるごとに日本を見下すような発言を連発していた。
当然、日本側も彼の発言に態度を硬化することになるのだが、それを更に助長させたのが半ば強引に清の使節に随行していた朝鮮王国役人の態度であった。
彼らは、清国大使の傍若無人な態度を見て、自分達も日本に傲慢に振る舞ってよいと錯覚し、清国大使に輪をかけて傲慢に振る舞っていた。
その態度は、清国随行員側からも「あれでは清国の威信にかかわる」と苦言を述べられる程であったが、大使は「傍若無人に振る舞う朝鮮人でも、我が大清には奴隷のように従順ではないか」と、意にも返そうともせず、却って助長させてもいた。

こうした態度に遂に日本も堪忍袋の緒が切れたのだが、彼らに対する日本人の報復は辛辣という言葉すら生ぬるい代物であった。
日本人達は「親睦パーティー」の席上、清と朝鮮の代表に対し、儒学の極めて高度な問いかけを延々と行い、彼らが口ごもると「おや。儒の国と言われているので、この程度の事はご存じかと思われたのですが」と、辛辣な皮肉を浴びせ続けたのである。
清国にしろ朝鮮にしろ、儒学は未だ高等教養として必須なのだが、よりにもよって蛮夷である日本人に劣っていると馬鹿にされるのは、これ以上ない程の屈辱であった。
そして憤激に身を震わせる2人に対し、日本側は「皇帝陛下と国王陛下への贈り物です」と、嘲笑交じりに、幼児向けの儒学の本を渡している。

「どうやら貴国達は儒学が相当衰えているようだ。皇帝陛下自らもう一度お勉強しなおすべきだろう。
 貴官ら程度を差し向けるようでは、皇帝陛下の儒の知識もたかが知れている」

徹底的に恥をかかされた大使達は、怒りのあまり「貴様ら如き未開の国など我が大清の手にかかれば一夜にして奴隷に出来る」と叫んだのだが、それこそ日本側が待ち望んだ言葉であった。

「よろしい。では戦おう。ただし、我らを怒らせた代償は大きいぞ」

半年後、大使達は「大清の権威を地に落とした」として、拷問の末に処刑されることになるのだが、その時になって大使達は初めて、自らの行動を悔やんだとされる。

1894年7月。日清戦争開幕。

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最終更新:2021年04月15日 11:31