377 :ひゅうが:2013/12/08(日) 21:43:03

 大陸日本ネタSS――「極東合衆国 あるいは緩衝国家の平和」


【極東合衆国史概略】


極東合衆国(United States of Far East and Pacifica)。
北東ユーラシアに国土を持つ立憲共和制国家である。
西は中央シベリアの大河レナ河でソ連と接し、東は日本領神坂地方に、南は列強自治領となっている満州地方や蒙古国と接している。
国家の統合の象徴としてルーシの伝統の継承者として位置付けた「ロマノフ大公家」を有するも特異な事情から空位のままであり、そのことから「空の玉座を戴く国」と称されることもある。
この国家は、その成り立ちからしてソ連と日本やアメリカとの間の「緩衝国家」である。

その発端はロシア内戦のさなかに当時西シベリア総督府が存在していたオムスクにおいてアレクサンドル・コルチャーク提督がソヴィエトからの自立を宣言したことにはじまり、これに自由主義者であり社会民主主義者であるという異色の元ボルシェビキであったアレクサンドル・クラスノシチョーコフがバイカル湖畔のウラン・ウデにおいて協力を宣言したことにより急速に独立の実態が伴い始めた。
1918年2月中にはコルチャーク提督率いるロシア軍120万とチェコ軍団28万が「大東征」といわれる1万キロあまりの行軍を成功させてバイカル湖畔に達して現地のアメリカ軍や日本軍と握手し、さらにはエカテリンブルグに幽閉されていたロマノフ王朝のニコライ2世以下の皇族が日本遣欧総軍の特殊部隊により救出されたことによりにわかに「ロシア帝国臨時政府」建設の機運が盛り上がり始めた。
こうして、極東共和国臨時政府は誕生したのである。

だが、ここから事態は二転三転する。
君主制に対しアレルギーを有していたアメリカ合衆国のシベリア干渉軍20万名と米国西海岸資本がその後ろ盾となっていたために、皇族の短期的な帰還が拒否されたのだ。
これには日本や英国、さらにはドイツまでもが疑義を呈していたがアメリカ政府は断乎としてこれを譲らなかった。
南の中華民国と北の極東共和国をもって列強の牛耳る満州を圧迫し、最終的にはアメリカ主導の東アジア秩序を建設しようという壮大な構想によるものであったとも、政府は単に国内経済界の要求に従い何の構想もなく出兵をはじめたともいわれるが、おそらくは両方であろう。
なぜなら当時、アメリカ政府は欧州への軍派遣でてんてこまいとなっており、その「ついで」にシベリアへ共産主義者を駆逐するために干渉するといった感覚が強かったらしいからである。

こうした動きを、モスクワのソヴィエト政府は追認した。
というのも、独立間もないポーランドやドナウ連邦への加盟の是非をめぐって紛糾するハンガリーにおいてはにわかに革命機運が高まっており、共産主義勢力はドイツ領ボヘミアにおいても伸長しはじめていたためである。
さらにはフランス国内では疫病禍の中で第三共和政の限界が露呈しつつあり、これを受けた革命の指導者レーニンは「西欧革命の好機」と考えていたのだ。
そのため、極東を一時的に切り離し、かつ国内不和のもとであるメンシェビキがいなくなる先をアメリカが用意してくれるのならそうするべきだと考えたのである。
幸い、アメリカはロマノフの再来は認めない構えである。ならば強大な列強の一角日本との間に緩衝国家を設けることに若くはない。

378 :ひゅうが:2013/12/08(日) 21:43:36

こうして1918年4月、ソヴィエト政府と極東共和国臨時政府は国境条約を締結し国境を画定。
ソヴィエトは全力をもって西欧方面への干渉準備に入った。
のちにこれはポーランド・ソヴィエト戦争の敗戦という形で報われるのだが、中華民国や日本帝国との対峙を避けられたためにソヴィエト政府としては差し引きでプラス評価をしているという。


さて、こうして独立した極東共和国であるが、ここで再び事態は変わる。
アメリカかぜという史上初のインフルエンザ・パンデミックの発生と第1次世界大戦のなし崩し的な終戦である。
発生源となったアメリカ合衆国はヴェルサイユにおいて集中砲火を浴び、しかも時の大統領ウィルソンが脳溢血で倒れたこともあり主導権を発揮できなくなっていたのである。
そのため、アメリカの強硬な主張によって極東共和国へのロマノフ朝復帰こそならなかったもののアメリカの傀儡国家という当初の構想はとん挫を余儀なくされた。
そしてコルチャーク提督の対陣と親皇帝派の離脱という形で極東共和国政府は連邦制をとる「極東合衆国」へと再編。
満州同様に列強諸国がその独立と中立を保証する緩衝国家へと変貌していった。

結果としてはソヴィエト政府は東方の脅威から解放され、極東アジア諸国は北方の脅威から解放された。
そして満州を牛耳る列強や、影響力を満州や中華民国に何とか残すことに成功していたアメリカにとっては北方の脅威からの解放を勝ち散ったことにもなる。
ロシア皇室や日本帝国の国民感情を除けば、当の極東合衆国に移動した「共和主義者であっても社会主義者ではない」人々にとっても不満のない結末である。
その結果、戦間期から現在まで、極東合衆国は平和裏に発展。
21世紀の現在では北東ユーラシアの中堅強国の一角として数えられるに至っている――

379 :ひゅうが:2013/12/08(日) 21:46:22
【あとがき】――というわけで極東合衆国ネタでした。
日露戦争の結果カムチャッカ周辺からレナ・アルダン河線の向こうに日本帝国がいますし、列強がひしめく満州や中華民国がいますのでソヴィエトはこのような挙に出ました。
国家体制は重社会福祉的な社会民主主義で、開発独裁路線です。
わかりやすく申し上げれば、フランコ独裁体制下のスペインが近いでしょうか?
お粗末様でした。

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最終更新:2014年05月23日 21:08