730 :ひゅうが:2013/12/25(水) 19:33:04

参考――日本大陸略史年表 その2(前半)

【1790年】
田沼意次による重商主義的政策の進行。出島を経由した英国との三角貿易が幕府により正式に許可される。

【1798年】
日本における蒸気機関の発明。平賀源内による蒸気機関の実用化。

【1802年】
道馬司府の出資により日本初の馬車鉄道が建造。折からの浅間山噴火に伴う寒冷化対策のために食料緊急輸送が実施される。

【1803年】
第一次樺太出兵。これに伴い飢饉対策のために東北諸藩による半ば棄民政策的な北海道移民が実行に移される。
田沼意次の嫡男、田沼意知が蝦夷奉行に左遷され「田沼時代」は中断。

【1805年】
ジャガイモ政策。飢饉対策のために全国でジャガイモの生産が実行に移される。東海道馬車鉄道線が完成。老中松平定信と道馬司府の間で鉄道の管轄権を巡る政争が発生。
勅許による仲裁措置がとられたために寛政の改革は中断を余儀なくされ、さらには田沼意次による報復により松平の汚職が明らかとなったことから松平定信は切腹を申し渡されることになる。

【1806年】
長崎フランス船事件。ナポレオン戦争に伴い、長崎沖でフランス船と英国船が戦闘。ネーデルラント連合王国の拠点であったバタビアの去就を巡った戦闘であったが、この事件により出島に大被害が生じ、幕府に海防の必要性を痛感させることになる。

【1815年】
田沼意次死去。嫡男田沼意知が老中就任。これ以降を「大御所時代」と称する。日本全土における産業革命化がこの頃進行する。幕府財政は貨幣本位制へのゆるやかな移行に伴い好転。

【1825年】
田沼意知暗殺。文政の改革により幕府権威の絶対化が図られるも、三方領地替えの挫折などによりかえって幕府権力の弱体化を招く。

【1830年】
公儀政体論刊行。世論に衝撃を与え、以後朝廷を中心にした政府再編論が高まることになる。神戸および水戸に海軍伝習所設立。幕府海軍の再建が進む。

【1838年】
初の蒸気鉄道が江戸・横浜間に開通。井伊直弼「幕府御兵制ノ事」献策。初のオランダ本国視察団の派遣が決定される。

【1840年】
アヘン戦争。長崎から観戦武官を派遣した幕府はもとより、日本全国に衝撃を与える。この後幕府内では開国が既定路線とされる。
天保の改革、海軍の急速な整備と、関東守護職・京都守護職・北洋守護職の設置など国防政策への注力が図られる。

【1842年】 第2次樺太出兵。北方においてロシア帝国との間で局地戦が行われる。最終的には勝利したものの日本側の被害甚大。主力となった会津松平氏に外国の脅威を痛感させる。

【1846年】
弘化の大論争。日本の行く末について大阪適塾と昌平坂学問所の間で大論争が巻き起こる。最終的には尊皇攘夷と開国の両論併記により終結。
同時期に、1世紀ほど前の安藤昌益の共産主義的思想とその反論に注目が集まる。

【1847年】
水戸藩、オランダから輸入した110ポンド砲の国産化に成功。幕府は初の蒸気軍艦の開発に着手する。

【1848年】
小倉藩内にオランダからの技術導入により初の製鉄所完成。関門海峡の通航管制権を巡り、長州藩と幕府の間で対立が発生。


731 :ひゅうが:2013/12/25(水) 19:33:40

【あとがき】――これから食事のため、前半部分だけ投下します。
維新に入れない(泣


798 :ひゅうが:2013/12/26(木) 01:07:44

参考――日本大陸略史年表 その2(後編)

【1851年】
開国和戦両様の勅許。孝明天皇が「臥薪嘗胆」の故事をあげ、幕府に「経世済民の策」を諮問する。水戸徳川家嫡男 一橋慶喜と井伊直弼の連名により公武合体策が献策される。

【1852年】
千島遠征。占守島および樺太北端に「大日本北端碑」を建立。蘭語英語にて併記する。この年幕府海軍水路部が日本沿海部の海図を完成。
小笠原事件。八丈島からの移民がハワイからの移民と小笠原諸島およびミッドウェー島で衝突。瓦版を通じて日本人に周辺諸島の防衛の必要性を認識させる。

【1853年】
安政遣欧使節団派遣。オランダ船に分乗した松平信発(鷹司松平家11代)を代表とする使節団はオランダ首都アムステルダムをはじめ欧州各地を巡行。
これを受け、アメリカ議会は東インド艦隊による日本遠征を認可。

【1854年】
ペリー来航。アメリカ東インド艦隊が江戸湾へ来航。開国和親の方針によりオランダ商館の立ち会いの下で日蘭・日米和親条約締結。供応役に日本景教会がついたこともあり世界に衝撃を与える。世に言う「信徒発見」。日本の250年ぶりのキリスト教世界復帰と受け取られ、アメリカ合衆国の国威は上昇。
同年中に日英・日露・日独和親条約締結。
日清国交樹立。「大の字問題」、大日本帝国とした国書を清朝は受理拒否する。続いて出された「大日本国」の国書もこれを拒否。日本国内で世論が沸騰する。

【1855年】
7カ国修好通商条約締結。関税自主権については相互協議義務を課されるものの、開港地における部分的領事裁判権は承認せざるを得ず。
このとき、対外的に「為替レート変更のための10年間の猶予期間」が設けられることが承認される。
弱腰外交と幕府に批判が集まる。時の将軍徳川家定は、一橋慶喜や土佐藩を注進した献策を入れ、公武合体の方針をとり「大政奉還」を宣言。

【1856年】
公武政府が京都に発足。江戸幕府は「東武鎮守府」と改称。鎮守府将軍と征夷大将軍を兼ねた「政事総裁」徳川家茂と皇女和宮の婚礼が挙行され、同時に「建武復古」が宣言される。諸外国に対し「日本帝国政府発足」を宣言する。
同年、対馬事変発生。ロシア艦隊による対馬列島占拠未遂事件。対馬藩による迎撃と幕府海軍出動によりロシア艦隊は撤退。
アロー戦争勃発により列強諸国は介入を断念。

【1858年】
京都事件。首都京都において旧幕府守旧派と朝廷至上主義国学者との間での議論が過熱し、これを口実に薩摩・長州両藩が私兵を京都内に入れて騒乱状態となる。
京都守護職陸兵による鎮定がなされるも、京都内の非武装原則は撤廃される。
治安が急速に悪化し、公武政府は北面の武士制度を復活させる形で各藩持ち回りの「御親兵」と「見回り組」を設置。壬生浪士隊が治安対策で名をあげる。

【1859年】
憲政論争。聖徳太子にならって憲法と公論を基調とした国政を目指す急進派と政府権限を巡り論争が発生。反発した朝廷五卿が罷免されるという異例の事態となる。
長州藩内において公武政府への不満が高まり、独力による政府構築論が取りざたされはじめる。
関門海峡臨検事件。大英帝国船による長州藩御用船の臨検実施事件。彦島周辺の拠点化を意図した実力行使に対し政府海軍は抑制的に対処。
国内の議論は沸騰する。

【1860年】
文久遣欧使節。公武政府による発の公式外交使節派遣。治外法権の撤廃などの懸案はいずれも成立し得ず。
各国による軍事力を用いた逆脅迫を受けるに至り、日本国内では「国辱」として攘夷論が復活し始める。
アロー戦争終戦。列強諸国が日本近海に戻り始める。


799 :ひゅうが:2013/12/26(木) 01:08:17

【1861年】
琉球事件。清朝による琉球奪取未遂事件。薩摩と清朝の両属状態が問題視されはじめる。
樺太事件。ロシア屯田兵団と公武政府正規軍間の樺太尾羽(オハ)での衝突事件。
双方の歩み寄りにより解決し、公武政府ははじめてカムチャッカに領事館を開設。
以後、日露関係は比較的良好に推移する。
アメリカ南北戦争の勃発に伴い、公武政府は観戦武官を派遣する。

【1862年】
御一新論の沸騰。武力を用いた欧米列強の排除論が国学者を中心にして盛り上がり、公武政府は打ち消しに躍起になる。
世直し一揆が続発し、「ええじゃないか」の流行が始まる。
生麦事件。公武政府の行列を横切り、侮辱的な態度をとったとして英国人夫婦が排除される。
しかし抵抗したため射殺される。
公武政府は英国に対し賠償を支払うも、被害者が日本人に対しひどく侮辱的であったことが英国の新聞に手記とともに暴露され日英双方で問題視される。

【1863年】
薩摩・長州両藩政府、独力による現状打破を宣言。攘夷実行。
同年、彦島事件。
下関海峡で彦島へ上陸した英国海兵隊に対し長州藩兵が砲撃を実施。
馬関戦争が勃発する。
薩英戦争発生。薩摩藩政府は生麦事件の賠償を「二重取りである」として拒否。
四国連合艦隊による下関砲撃、英国艦隊による鹿児島湾突入。
いずれも双方大被害。
公武政府および英国による停戦勧告に応じなかったベルギー艦隊が殲滅される。
鹿児島陸戦。「英国海兵隊史上最も恐ろしい1時間」。剣虎兵の近接戦闘が実施される。
これらの結果、公武政府は治外法権年限を30年に延長することを余儀なくされた。
薩摩・長州両藩政府首脳陣は多くが責任をとり列強公使立ち会いの中で割腹する。
「尊厳による抗議」として各国市民に同情論が巻き起こり、各国政府は対処を余儀なくされる。

【1864年】
公武政府、南北戦争における北軍の正当を承認。西海岸諸州との交易を開始。南軍による日本近海通商破壊戦開始。
伊豆大島沖海戦において英国艦隊の眼前で公武政府海軍初の蒸気船艦隊は南軍フリゲート艦隊を圧倒しこれを撃滅する。

【1865年】
開港期限。函館・横浜・長崎・新潟が開港するも、神戸の開港が間に合わず。各国艦隊による軍事圧力を受ける。
葵党の乱。旧幕府守旧派による京都近辺での蜂起。鎮圧されるも、首謀者の特定はできず。
南北戦争終戦。
薩長土肥四藩同盟成立。体制刷新で一致し、公武政府要職にあった一橋慶喜との協議を開始。

【1867年】
神戸開港。日露修好通商条約改定。アラスカ買収。
日本の資金力を目の当たりにした列強諸国は露骨な軍事圧力をかけはじめる。
公武政府内外で政府再編論が沸騰。
孝明天皇崩御。徳川家茂、公武政府総裁職を退く。
御陵事件。孝明天皇御陵を警備していた薩長の藩兵に対し国学派浪士たちが襲撃を敢行。会津藩兵が独断専行してこれを救出する。
事件の背後には旧幕府守旧派がいることが露見し、公武政府は大きく動揺する。

【1868年】
明治天皇践祚。最後の将軍として徳川慶喜が政府総裁職につく。
「王政復古の大号令」公武政府の解散と幕府組織を解体した上で全国から有為の人材を集めた新政府を組織する方針が示され、旧幕府派に動揺が広がる。
鳥羽伏見事件。旧幕府派諸卿が図って京都守護職兵および東武鎮守府兵をもってクーデターを試行。これに旧攘夷派兵も呼応する。
しかし徳川慶喜を筆頭にした「新官軍」の手によって錦旗が掲げられこれを討伐する。
徳川慶喜による政権返上。
各藩有志をもって「朝敵討伐」の綸旨が下り、鳥羽伏見の戦いにより蜂起軍は崩壊する。
東武鎮守府内において勝海舟が事態を収拾。
榎本武揚を中心とした「鎮撫隊」による「上野戦争」により関東の混乱は収拾される。
逃亡を図った旧幕府派を坂本龍馬率いる「海援隊」が海上で確保。
明治維新。「公武政府の移行」が宣言され、「五箇条のご誓文」発表。


801 :ひゅうが:2013/12/26(木) 01:09:29
【あとがき】――というわけで、維新までを書いてみました。
間が長くなってしまいすみません。
 

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修正回:0(アップロード)
修正者:Call50
備考:誤字・空欄等を修正。

修正回:1
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最終更新:2014年05月31日 08:54