444 :パスティス:2014/06/17(火) 22:20:52
『米国の探偵』


 シャーロック・ホームズは英国を動かない。
 調査と推論の結果、そう結論づけた夢幻会は正直胸をなでおろしたと言っていいだろう。
 多種多様な諜報員や私立探偵が存在する世の中ではあるが、シャーロック・ホームズほどの推理力の持ち主は早々居はしない。
 まさかと思って、エルキュール・ポアロなどが存在はしまいかと探ったが
 流石にそれほどの人物はいなかったようだ。
 有名ドコロ、というので、ホームズの物語にも存在し、米国で隆盛を誇ったピンカートン探偵社なども調べたが
 1936年には既に探偵業を廃業し掛けていた彼らは、今やカリフォルニア共和国やカナダで身辺警護の仕事を請け負う位であった。

「やれやれ、何にせよ後十年すればホームズは亡くなるはずです。
 我々も十年後には何人が生きているかはわかりませんが……そこは後継者に頑張ってもらうとしましょう」

 嶋田や辻、近衛などはそう頷き合って議論を終えた。
 実際ホームズがいる、とわかってしまえば、後は出入国に気をつけていればよいのだ。
 夢幻会では若干楽観論がホームズに関して占められていた・
 だが――英国ではなく、米国から名探偵が来ようとは、夢幻会でも――いや、彼らが『日本人』であるから気付かなかった。



 北米大陸、カリフォルニア共和国。
 アメリカの精神的後継者と目されるここは、今では唯一といっていい米国人が米国人として生きていける場所であった。
 無論戦前のように傍若無人に振る舞うことは出来ないが、彼らの開拓精神あふれた不屈の心は生きているのだ。
 それらが国外に向けられ、侵略的要素を持つときは実に不愉快なものだが
 少なくとも苦境から脱しようとする人間の輝きを、押しのけられる人間以外には否定できるものでもあるまい。
 その中に一人、実にでっぷりと肥え太った老人がいた。
 いや、老人というには少々厳しいだろうか。
 彼の生年月日ははっきりとしていないが、恐らくは1892年から1893年頃のことだろうと見られている。
 彼の名前は特に戦前のニューヨーカーやFBIといった連中には知られていたのだが
 誰もそれが本当の名前だとは思っていなかった。
 彼は肥満症であり、また傲慢で怠惰であった。
 ニューヨークの自宅から動くことは少なく、彼が遠出するときは蘭の品評会か、はたまた美味の為でしかない。
 それ以外で動くとなれば、まさに天地がひっくり返ったようなものだと言われたものだ。
 だが今の彼はニューヨークではなく、遠く離れたカリフォルニアのビルに事務所を構えている。
 もっとも、確かに天地がひっくり返ったような東太平洋大津波などという天変地異が起こったのだから
 この巨漢の男がカリフォルニアにいるのも仕方ないな、と知人は口を揃えるのだ。

「やはりミソ・ペーストは匂いが気になるな。
 腕の良い日系人の店があったが、あの店は今も忙しいし、呼びつけるには辛いだろう」
「お言葉ですがね、一枚百五十ドルする肉を気軽に食えるカリフォルニア人ってのも少ないと思いますよ」
「だからといって一枚五ドルのステーキを食って満足しては経済が回らんさ」

 助手である男と軽口の応酬をしながら、皿の上の肉料理を片付け、ナプキンで口を拭う。
 お気に入りだったブルゴーニュのワインが飲めず、ここ最近は少しストレスが溜まっていた彼だったが
 今のところ、目下の悩み事について腐心している最中であり、自慢の蘭の世話も
 ニューヨーク時代は一日四時間をかけていたものを、なんと一日二時間に短縮する有り様であった。
 これには彼のお抱え料理人すら驚き、友人である男に精神カウンセリングを頼めないか相談する程の衝撃を与えていた。

445 :パスティス:2014/06/17(火) 22:21:44
「しかし……いや、これは困ったものだな。
 依頼料は充分過ぎるし、心もくすぐってくれるのだが」

 椅子から億劫そうに体を持ち上げ、事務所の窓から街を見下ろす。
 日本帝国の経済的支援の下、かつての繁栄を取り戻そうとするカリフォルニアの街。
 だがそもそもそれが『かつての繁栄』となったのはかの東太平洋大津波のせいであり
 米日戦争のせいでもある。
 ――彼は探偵業を営んでいる。
 高額な依頼料は時に十万米ドル――第二次世界大戦前の価値でだ――を超える高額過ぎるモノであり
 それに見合うだけの推理力と解決力を兼ね備えている。
 だが行動力、というものは全く存在せず、概ね彼の助手が集めてきた情報を組み合わせるという安楽椅子探偵であった。
 この本名も不明な大男が、一体いつどこでどうやってそのような推理力を培ったのかは定かではないが
 史実世界では密やかに語られ、研究されている事がある。
 その研究成果を見れば、彼の推理力もさもあらんという所だろう。
 彼は戸棚の上に置かれた手紙――国際郵便――に手をやった。
 わざわざイギリス王立海軍の館長手ずから渡しに来たものだ。
 その差出人の名前はフルネームで書かれていない。
 ただ『S・H』とだけ書かれている。

「……何年ぶりでしょうかね、父さん」

 彼は父親に甘えることは出来なかった。
 また母親に甘えることも、また少なかった。
 1903年に彼の母親は亡くなっているし、彼の父親は遠く離れた欧州の島国にいたからだ。
 その父親も、既に90という老人となり、何時この世を去ってもおかしくはない。
 まして欧州はナチスドイツという巨大な存在が席巻しており、また太平洋の覇者である大日本帝国という存在があった。
 世界が動乱に包まれる中、欧州の島国――大英帝国の至宝といってもいい彼を動かすことは難しい。
 万が一、他国で亡くなったとするならば、それが例え老衰であろうとも、疑惑の目が向けられるだろうからだ。
 それほど彼の父親は高名な人物であり、かつ恨みを買う人物でもあった。

「宜しい。
 大日本帝国の中枢であり脳髄。
 英国と米国を出し抜く存在――夢幻会。
 貴方に変わって調査致しましょうとも」

 男がニヤリと笑い、助手――アーチー・グッドウィンという、目の前の男を大日本帝国へと向かわせる手続きを取る。

「ドン・キホーテになるおつもりで?」
「残念ながら相手は紛うことなき東洋のドラゴンだ。
 アーチー、半月後にわたしも行く。それまでは体に気をつけろよ」
「忌憚なく意見を言わせてもらうとすればですね、あなたは家財道具一式を売り払って養護施設に入るべきだと思いますよ。
 大日本帝国へ喧嘩を売りに行こうってんだ、FBIのフーヴァーに脅しをかけるよりも厄介な仕事だ。
 仮に何ぞ情報を掴んで相手方の顔にコーヒーをぶっかけたとしましょう。
 その日からぼくは玄関の電気をつけるにも爆弾を警戒しなくちゃならなくなるでしょう」
「ふふん。アーチー、怖いか?」

 男のその言葉に、アーチーは肩をすくめて答えた。

「勿論。
 例え目の前に十万ドルの小切手があったとしてもお断りですね。
 ……でも、あなたの下に来たその手紙は十万ドルじゃ効かない価値があるし
 ここまで長年一緒にやってきた相手を、ただの一人で銃剣突撃させるほど薄情でもないんだ」
「宜しい。焼き加減は頼んだ」
「承知いたしました、料理長」

 これは英国政府からの依頼でもあり、同時にカリフォルニア共和国にいる商売敵を出し抜く行動でもある。
 かの悪名高きピンカートン探偵社はカリフォルニアにおいて幾度と無く男の邪魔をしているのだから、かなり鬱憤が溜まっているのだ。
 ――この主人の名前はネロ・ウルフ。
 美食家であり、傲慢で、尊大な、しかし偉大なる男。
 米国人らしくない皮肉とユーモアに満ちた男の父親と母親は、物好きによる研究によって、史実ではひとつの結論が見られている。
 『シャーロック・ホームズとアイリーン・アドラーの息子』として。




※1
ネロ・ウルフ-米国作家レックス・スタウトにより作られた名探偵。
米国ではシャーロック・ホームズにまさるとも劣らぬ人気を誇るが
日本ではアルセーヌ・ルパンよりも翻訳に恵まれておらず、知名度も低い。
ミルキィホームズで一時期有名になったので翻訳されるかと期待したが空振りに終わった。


※2
アイリーン・アドラーは『ガス灯に浮かぶその生涯』ではニュージャージー州生まれのクララ・スティーヴンズ嬢の芸名とされている。
つまるところネロ・ウルフは英国と米国の知性の後継者と言える。

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最終更新:2014年06月18日 19:43